羅針盤を聴いていると、無性に自我の解放をしたくなる。自我の解放、すなわち、普段は抑制しているあらゆる欲求に従って、嫉妬してみたり、羨んでみたり、泣いてみたり、叫んでみたり、甘えてみたり、逆らってみたり。理性が狂う、という意味ではない。羅針盤はズカズカと聴き手のメンタリティに土足で踏み込んできて強引に感情をかきむしるほど、荒くれた音楽ではないだろう。ただ、どうしようもなく、いびつではある。音の表面 は確かに甘やかだが、内側は相当にいびつだ。その甘やかないびつさが、脳裏を刺激し、俄に麻痺させ、自然と自我を解放させるのだろうか。羅針盤のライヴを見る前後では、目に映る景色の見え方が明らかに違うこともある。

 以前、山本精一は羅針盤の音楽、つまり“歌もの”と呼ばれる自分自身の中に潜む感覚の一つをとりあげ、その特性を「気配」という言葉で置き換えた。目に見えない、手にとれない、だが、何となくそこにいる、そこにいるように感じられるという「気配」。ゆるやかな流線型を帯びたメロディ、ロマンティシズムを湛えたヴォーカル、おだやかな波紋を描くようなギターや鍵盤、そして輪郭を時間をかけて滲ませたようなドラム……それらによる物静かなアンサンブルが醸し出す風景は、確かに目に見え ぬ「気配」という言葉で表現する他ないのかもしれない。

 ニュー・アルバム『いるみ』を聴いて感じたのも、そうした傍目にはオブスキュアだが、不思議な手応えのある「気配」だ。だが、それは次の瞬間に、聴き手を極めて能動的な行為へと導いていく。だから、私たちは羅針盤を聴いた後に、そのままそこに踏みとどまるようなことは決してない。ただのんべんたらりと流されたりはしない。そう、私なら、いてもたってもいられなくなり、側に誰かがいれば、その人の首根っこをひっつかまえ、それまで隠していた秘密の一つも告白してしまうだろう。それは羅針盤の音楽を彩 る「気配」が、実は作り手の「自我」に支えられているからではないかと思う。そして、その「気配」の彼方に「自我」が見えた時、ダムが決壊した時のように聴き手の「自我」も一気に放出されていく。羅針盤の音楽を聴いて、周囲に迷惑なほど泣きじゃくったり、強烈に他人を嫉妬したり、逆に自分が可愛くて仕方なくなってしまったりするのも、つまりはそういうことなのかもしれない。

 だが、自我の解放が、素直なものに触れて心が動揺した末の行動であるとするなら、羅針盤の音楽ほど素直で自由なものものないだろう。だから私は羅針盤がたまらなく好きなのだ。そして、音を通 じて素直に自我を解放する山本精一になりたいと思う。あるいは、羅針盤によって自我が解放された自分を喜びたいと。いい歌とはこれほどまでに素直な感情を喚起させるものなのか。

 山本精一、チャイナ、吉田正幸という変則的なトリオ編成となった今回のレコーディング・セッションは、おそらく、これまでのどの羅針盤の作品よりも、ストイックでおとなしい印象を与えるだろう。どんどんそぎ落とされていくサウンド・プロダクションを前に、一種の悟りの境地であるように感じる人が出てきても不思議ではない。だが、それはむしろ逆だ。少ない音数でいかに歌の良さを伝えていけるか、彼らはここで果 敢に挑戦、攻めている。こうして歌のアウトラインが剥き出しになればなるほど、素顔も剥き出しになっていくが、彼らは決してそれを恐れていない。なぜなら、いい歌への希求、それだけが自我の解放の引き金になっているのがわかるからだ。  自我の解放とは一種の自己懺悔なのか。違う。他者の自我へと素直に訴えかけることだ。この『いるみ』というアルバムは、私にそんなことをおしえてくれる。

2004年5月 岡村詩野
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