大学一年生の冬。
毎晩、22時頃になると胸が締め付けられ、息が浅くなった。なるべく携帯電話を視界に入れないようにしていたが、それでも見ずにはいられない。ライトがちかちかしている。心臓がきゅっとなる。明かりがカバーに反射しているだけのこともある。見間違いだ。まだその時間ではない。けれど、この時間になると必ず——新着メールを示すライトが点滅する。
震える手で携帯を開くと、やはり〈あのひと〉からメールが来ている。毎晩決まった時間に、一通だけ送られてくるメール。
内容と言えるようなものはほとんどない。たいてい、その日の天気の話だ。今日は暖かったですね。今年は普段より暖冬のようです。今日は晴れ間は暖かかったけれど風が冷たかったですね。銀杏も散り始めましたね。
私も必死で記憶を掘り起こして天気の話を返す。最近は晴れが続きますね。昨年のこの時期はもっとお天気が悪かったですね。黄葉の季節も段々遅くなってきているようですね。——実を言うとその日の天気も例年の天気もろくに覚えていないので、そのために朝刊を見返して今日の天気予報を確認したり、ネットで昨年の天気を調べたりしていた。
相手も別にお天気マニアなわけではないだろう。それはわかっている。
相手はサークルの三つ上の先輩だ。大学四年生ともなると、サークルにはほとんど顔を出さない。ただ同じサークルの人たちとは、顔を合わせたことのない人も含めて、Twitter上では相互フォローになっていた。
音楽系のサークルだが、私は音楽に造詣が深いわけではない。むしろ、音楽への苦手意識をなんとかしたくてサークルに入った。だからメンバーのほとんどとは話が合わなかったのだが、Twitterのタイムラインで見かけるだけのそのひとは、読書が趣味のようで、話が合いそうな雰囲気を感じていた。相手もそう感じているであろうことは、はじめて会う前からわかっていた。
冬までに、顔を合わせたことは数度。普段は姿を見せない上級生もやってくる、サークルの大規模イベントで会った。それから、学年を越えた交流会という名目でメンバー数人での食事に誘われ、その後二人で食事に行った。
別れ際に聞かれた。メールを、してもいいですか。ええ、と私は咄嗟に答えた。上擦った声で。それ以来、毎晩決まった時間にメールが来る。ほとんど天気の話ばかりする。天気の話がしたくてたまらないわけではないのはわかっている。ほんとうに言いたいことは他にある。ただ、私と連絡を取るために、私と関わりを持つために、当たり障りのない天気の話をし続けているのだ。
そのことが、私には——体がすくむくらい気持ち悪く、怖かった。
たいていの人から見れば、あまりにも他愛なく微笑ましい、淡い恋の思い出だろう。指一本触れず、毎晩メールでただ天気の話をしていた、というのは。
しかし私は、罠にかかった鼠のように追い詰められた気持ちでいた。
今でも、この原稿を書くために当時のメールを探そうとして、手が震え、息が苦しくなって中止したくらいには。
話が合いそうだと思っていた。もっと話してみたいと思っていた。仲良くなれそうだと思っていた。
それなのに今、何か間違った方向に進んでいる。何かが勝手に始まり、進行しつつある。私もそれに乗っていることになっている。それが何なのか、私にははっきりとわからない。わからないけれどそっちには行きたくないのはわかる。知らないうちにエスカレーターに乗せられて、どんどん上昇していく。もう、大怪我を負うことなしに、飛び降りることはできない。でも、その目的地に行くことは、できない。どうしてもできない。
メールをしてもいいかと聞かれたときすでに、その気配は濃厚だった。怪異が見えてしまったら、〈それ〉に悟られないように、見えていないふりをしなくてはいけない、〈それ〉と目が合ってしまったら取り憑かれる——そんな怪談のように、私は必死に見えないふりをしていた。メールしてもいいかという問いに、いいえなんて言えるはずがなかった。まだ何も起きていないのに。私は咄嗟に、それを言葉通り取ったふりをして、それがただのメールに過ぎないと思っているかのように、快活にええと答えた。
いいえと答えたら何か変わっていたのだろうか? いいえと言ったら理由を聞かれただろう。私は理由を答えられたか? 答えられるはずがない。
毎晩メールが来る。天気の話が来る。相手がほんとうに言いたいことは別にあるのがわかる。それが気持ち悪くてならない。会話は好きだ。話をするのは好きだ。しかし会話のための会話、社交のための会話は苦手だ。言外の意味を汲み取ったり匂わせたりするのも不得手だ。挨拶すら慣れない。場を繋いだり空白を埋めたりするために言葉を空費するのは嫌だ。言いたいことがあるならはっきり言ったらいい。何か別の意味が隠されている気配にぞわっとする。けれど、相手の「ほんとうに言いたいこと」を、私は聞きたくないであろうこともわかっている。聞いてしまったらなんと答えていいかわからなくなることもわかっている。だから、本心から天気の話をしているように装って、あくまでも天気の話から一歩も出るまいとする。天気予報を読み返しまでして。
でも、どんなに見えないふりをしても、〈それ〉は止まらない。どんどん近付いてくる。取り囲んでくる。逃げ場がない。どうしたらいいのかわからない。
はじめて二人だけで会ったとき、恋愛の話題を出された。
あまり明瞭に思い出そうとすると息ができなくなってくるのだが、恋愛に興味がないってほんとう? と聞かれたような気がする。
私が恋愛に興味がないと公言していることは、多少の付き合いのある人なら誰でも知っていたはずだ。いわゆる「恋バナ」が人の口の端に上るとき、私は必ずそう言ったし、TwitterなどのSNSにも書いていた。そのひともそれを目にして、知っていたはずだ。
「私が恋愛に興味がないことは、誰でも知っていた」とは書かない。ほんとうの意味では、誰も知らなかっただろうと思う。誰も、ほんとうだと思っていなかったからだ。
ほんとうですよ、と私は答えた。どうしてかと聞かれた。
どうして、なんでと、その頃絶えず聞かれていた。どうして恋愛に興味がないのか、どうして彼氏がほしくないのか、と。
私の答えを聞いて納得するということには、いつだってならなくて、みな私の答えに矛盾や間違いを見つけてそこを突こうとしていた。私が虚勢を張って、あるいは斜に構えてそんなことを言っているだけで、ほんとうは彼氏がほしいのだという証拠を掴もうとしていた。恋愛に興味がない人間なんていないのだと立証しようとしていた。私を言い負かし、間違いを認めさせようとしていた。共通の知人がいる、同じ大学の人というだけで、一面識もなかった人に呼び出され、私が本心から恋愛に興味がないのかどうかについて議論する羽目になったことすらある。
そのひともそうだった。恋愛をどういうものだと見なし、どういう理由でそれを不要だと考えているのかを問い質し、私が何を言っても反論した。
私はそんな会話にうんざりしていた。純粋な知的好奇心に基づいた、愛についての哲学的な問答であるかのように見せかけて、相手は必ず一般論の陰に身を隠し、私だけが生身を晒して、一斉射撃の的になっていた。私だけが自分について、それも自分が「しない」こと、「興味がない」ことについて、説明をし、相手を納得させることを求められた。この問答に、私だけが自分の人生を、人格を、考え方を賭けさせられ、相手は何もリスクを負っていなかった。恋愛に価値などない、と立証することができなかったら、負けを認めて恋愛をしなくてはならなくなるような、そんなプレッシャーがあった。
私が勝手にプレッシャーを感じていただけだったのだろうか? しかし、私を言い負かそうとする人々を動かす欲望には二種類あることが、なんとなくわかっていた。ひとつは、「誰だってみな自分と同じだ」という世界観を脅かされたくないという欲望。もうひとつは、恋愛的な意味で私を手に入れたいという欲望。
この時、相手の欲望が後者であることを、私は薄々理解していた。だから怖かった。私が「考えてみたら、あなたの言う通り、恋愛しないなんて間違っていますね」と答えたら、相手は私が自分と付き合うことこそ正しいと主張するだろう。私には、特定の他者と付き合わない理由の持ち合わせがない。恋愛全般に興味がないのだから。特定の他者を、恋愛対象としてありかなしかと選抜するという考え方を持たない。だから、恋愛に興味がないというのが間違いだということになったら、相手の要求を飲まない理由がなくなってしまう。
ずるい、と思った。相手は自分の本心を隠して、一般論の形で攻撃をしてくる。姿を隠した敵の前に身を晒して戦っている気分だった。
こういう論争はつねに不快であり、私にとって無意味だったが、学生食堂に集まったクラスメイトたちに根掘り葉掘り聞かれるといった事態はまだましな方だった。夜が更けていく中で二人きりレストランの狭いテーブルを挟んで向かい合い、いつまでも追及され続けるよりは。
苦しかったし、怖かったけれど、逃げるすべが見つからなかった。向かい合ったこの席から立つすべがわからなかった。相手の顔よりは、相手の背後に広がる、硝子窓の向こうの暗い夜を、ずっと見つめていたと思う。話しているあいだ、あまりにじっと目を見てくるからこわい、と言われがちな私が、この後しばらく人の目を見られなくなるのだが、それはこの時すでに始まっていたのだろうか。
話した内容のほとんどは忘れたが、言われて特に苦しかった言葉がある。
——あなたは今は大学に入ったばかりで、人間関係が広がっていく時期だろうけど、社会に出たら個人的な人間関係はよそで探さなくちゃいけなくなるんだよ。
恋愛をしなければいずれ孤独になる、今はよくてもいずれそうではなくなるという、脅しの言葉だった。
うるせえ、とは思った。たった三歳上なだけで知ったような口を利くな。自分だって「社会に出」たことなんてないくせに(会社勤めをするだけのことを「社会に出る」なんて言うな、どこだって社会だよとも思うが)。百歩譲って、「社会に出」たら恋愛以外の個人的な人間関係が存在しなくなるとして、少なくとも私はその時期にいない。「人間関係が広がっていく時期」にいるのだからそれを満喫していい。自分がもうじき「社会に出」なくちゃならないからって、唯一の人間関係が恋愛になると思って焦っているからって、それまでまだ猶予のある相手を囲い込もうとするのはエゴでしかない。
それでも、その言葉は怖かった。相手の言葉には何の根拠もない、それでも、事実を言い当てているかもしれないと思うと怖かった。たしかに大学に入って以来、高校までとは比較にならないくらい交友関係は広がった。行動範囲も広がった。話の合う相手はなかなかいない、それでも友人と呼べそうな人は少しはいる。さみしくはない。けれど、それが、今だけだったらどうしよう。恋人がほしいという人に理由を聞くと、一人はさみしいとみんな言う。さみしい? 一人? だって人は誰といようと一人だし、一生孤独だし、それが恋人なんかで埋まるはずがない。どんな約束を交わそうが、他者は手に入らない。何を言っているのだろうと思う。だけど、そんなこと言っていられなくなるくらい「さみしく」なるときが来るのかもしれない。不本意でも恋愛に縋らなくては生きていけないくらい孤独になるときが。人は本質的に孤独であるという事実から目を逸らすために、欺瞞だろうが対症療法だろうが、鎮痛剤のように「恋人」を手許に置き続けなくては正気を保てなくなるときが来るのだったら。そして、それに気付いたときにはもう手遅れだったらどうしよう。恋人を見つけ、確保しておくべき限られた時機に私は差し出されたものを拒み、その機会をみすみす逃した以上もう一生孤独への対症療法は手に入らないのだったらどうしよう。
その恐れは、長く呪いとなって付き纏った。
途中、お手洗いに立って、個室に閉じ籠もったきり、足がすくんでなかなか席に戻れなくなった。あのひとと顔を合わせずに、このままこっそり帰れないかと本気で考えたものの、荷物は席に置いたままだし、お会計もしていない。戻ることもできず、出ていくこともできず、どれくらい閉じ籠もっていたのかわからないが(多分実際にはそんなに長い時間ではなかったろう、訝しまれてはいなかったが)、結局は深く深く息を吐いて、席に戻るしかなかった。
席に戻って、私は最後まで自分の考えを曲げずに相手に応答し続けた。
話せばわかるはずだという思いが私にはずっとあって、だからこそ恋愛しない「理由」を問い質され続けて、苛立ちながら答え続けていたのだし、話の通じなさに疲れ切りながらも、これだけはっきり意思を伝えたからには、そして相手が渋々ながらもそれ以上の反駁をやめたからには、その意思が無視されることはないはずだと信じた。
その別れ際に、聞かれた。メールを、してもいいですか。この夜の会話が、ただの一般論だという建前を保って、私は答えた。ええ。
結局、次に会ったときに告白された。
冬で、夜で、私は冬も夜も好きなのだけど、その冬の夜の印象は今でも、真っ暗な虚無の底にたった一人で立っているという、ひどく寄る辺ない、寒々しいものだ。
いつから——「好き」だったんですかと聞いたら、はじめて会ったとき、こちらの目をまっすぐに見てくる目が好きで、と言われて、私はしばらくのあいだ、人と目を合わせられなくなる。
お友達でいたいと私は答えたが、その答えを私は後々後悔するようになる。もはや友達でなどいたくなかった。そのひとに対する友情は消え失せていた。そのひとの卑劣さ、身勝手さに対する恐怖と軽蔑しか残っていなかった。