A is for Asexual 川野芽生

A is for Asexual | 川野芽生

Kawano Megumi

#02

誰かを愛しいと思ったことは

 Amazon Prime Videoで配信が始まった『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観た。
「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズとの関わりといえば、「最近の鬼太郎はこんな最新のテーマまで扱ってるんですよ!」と熱く語る友人の家でアニメを一話観せてもらったことがあるだけ、の私でも面白く観られる作品で、「父」によって支配される家と、終戦によって表向きは民主化されたように見えて既得権益層は変わらない国家がパラレルであること、時代に取り残された地方のローカルな問題と見えるものが、実は中央による周縁からの搾取のあらわれであることを鮮やかに描いていた。

 しかし、私にはどうしても納得のいかない台詞がひとつあった。
 〈おぬしは本当に誰かを愛しいと思ったことはないのか?〉という台詞である。

 主人公であるみずは、出世競争を勝ち抜くためなら手段を選ばない会社員。取引先の製薬会社の経営者であるりゅう一族が支配する山奥の村に足を運んだところ、一族を巡る凄惨な連続殺人事件を目撃する羽目になり、出世の足がかりをつかもうと事件の周辺を調査し始める。そんな彼に社長の娘・は自分を東京に連れ出してくれるなら協力すると申し出る。水木はその申し出を受け入れるが、事件直後に村に現れ、水木と行動を共にすることになった謎の男(その正体は幽霊族)、ゲゲろうは、沙代が〈本気〉だと告げ、〈人の真剣な気持ちをもてあそぶな。それだけはやっちゃいかん〉と忠告する。そして口にするのが前述の台詞だ。
 その台詞を耳にして、物語に入り込んでいた私の足元に、すっと冷たい風が吹き込む。

 東京に連れて行ってほしい、という沙代の台詞を私は文字通りの意味に取るところだったのだが、水木の妻にしてほしいという意味なのだった。その前提は水木もゲゲ郎も共有していて、水木はそんなことできるはずがないと思いながら約束し、ゲゲ郎は水木に忠告する。
 ゲゲ郎の言う〈本気〉というのは本気の恋心ということであり、〈真剣な気持ち〉というのは「真剣な恋心」のことである。〈誰かを愛しいと思ったことはないのか〉という問いに水木は〈俺にそんな器はない〉と答え、その返事を受けてゲゲ郎は最愛の妻のことを語り始める。ゲゲ郎が危険を顧みずこの村にやって来たのは、行方知れずの妻を探すためである。愛に溢れた妻が自分を変えたと語ったゲゲ郎は〈おぬしにもいつか必ず自分より大事なものが現れる。その時、今まで自分には見えていなかったものがまた見えるじゃろう〉と諭す。

 誰かを好きになったことはないのか。誰かを愛したことはないのか。
 それは、現実においてもフィクションにおいても繰り返される問いだ。好き、愛する、という言葉の意味はこの場合、恋愛感情に限定される。他者に恋愛感情を持ったことのない者は、欠落を抱えている、冷たい、利己的と見なされ、いつの日か人を愛することができるようになるだろうという言葉を投げかけられる。
 フィクションの場合、そうした人物はその後必ず他者と恋に落ちることになる。そして優しく善良な人物となる(恋に落ちるまでは、そうではない)。そうでなければ徹底して悪役となる。
 現実の人間に対しても、同じことが期待される。今は何かが欠落した状態であること、いつかは「ちゃんと」人を好きになることを。

 しかしゲゲ郎の、〈誰かを愛しいと思〉う、という言葉選びには、それは恋愛感情に限定されないのでは、という期待を誘われもする。実際、ゲゲ郎は〈妻は人間を愛しておった〉と語っていて、その〈愛〉が恋愛感情ではないことは明らかだ。
〈誰かを愛しいと思〉うとは、どういう意味なのだろう?

 〈俺にそんな器はない〉と答えた後、水木は戦地で、また終戦後の日本で経験した理不尽を語り、〈弱い者はいつも食い物にされて馬鹿を見るんだ。だから俺は力が欲しい。誰にも踏みつけられない力を!〉と吐露する。彼は、恋愛に関心を持たないフィクションのキャラクターとしては典型的で、①利己的で善悪を峻別できないが、②実は悲しい経験から「人を愛せなくなった」、という特徴を持つ。
 善悪の区別ができない水木は、自身の目的のため、沙代の恋心を知りながら空約束と引き換えに情報を手に入れる。しかし彼が「夢見がちな少女」と思っていた沙代は、実は一族ぐるみの性的虐待の被害者であり、それゆえに切実に村を離れることを願い、水木に望みを託していた。凄惨な連続殺人事件は、彼女が秘めた怨みの念によりきょうこつという妖怪に取り憑かれて起こしたことだったのである。
 それを知った水木は、一度は沙代を連れて村を出ることを決意するが、一族の者に捕らわれたゲゲ郎を助け出すため単身引き返そうとし、沙代は水木を助けるために同行する。しかし沙代は、自身の受けた虐待を水木に知られていたことを、実の母に突きつけられることになる。〈僕も同罪だ。龍賀一族に近づくために君を利用しようとしていたんだ〉と水木は懺悔する。沙代は絶望と怨みにより、狂骨の力を解き放って、その場にいた関係者を皆殺しにし、水木をも手に掛けようとする。この時、水木は抵抗をやめて彼女に殺されることを受け容れたように見える。しかし、彼女にたおされた術師による今際の際の反撃によって沙代は息絶え、危ういところで死を免れた水木はゲゲ郎を助け出して、黒幕である前当主・ときさだおうとの対決に向かう。
 水木の沙代に対する仕打ちは、彼女を絶望の淵に突き落とす最後の一撃であり、取り返しのつかない過ちとして描かれている。しかし利己的であった水木は途中で変化を遂げ、沙代のため、またゲゲ郎のための行動を取るようになる。
 水木は、①愛を知らず利己的だが、②その裏には悲しい境遇があり、同情の余地がある人物が、③愛を知り、利他的な行動を取るようになる、という、典型的な過程を辿る。

 ただ、典型的なストーリーと違うのは、水木を変えたのが沙代ではなくゲゲ郎であり、異性への恋愛感情ではなく同性への友情であった点だ。ここに本作のクィア的な要素がある。
 水木は〈ゲゲ郎と付き合ううち、俺は見えるようになってしまったんだ。見えないはずのモノ、見えないはずの世界が……〉と語る。水木には沙代に殺された人々の霊や彼女に取り憑いた狂骨が見えるようになっていた。この台詞は、ゲゲ郎の〈おぬしにもいつか必ず自分より大事なものが現れる。その時、今まで自分には見えていなかったものがまた見えるじゃろう〉という台詞へのアンサーでもある。「気付く、理解する」という抽象的な意味でゲゲ郎が用いた〈見える〉という言葉が、水木の台詞では霊的に〈見える〉という意味に変換されているのだが、ゲゲ郎はみずからも予想しなかったかたちで水木の心に変化をもたらしたのだと言えよう。水木にとっての〈自分より大事なもの〉は、ゲゲ郎だった。だからこそ、ゲゲ郎を助けるために村へと引き返すシーンがクライマックスへの導入となる。
 ゲゲ郎の方はといえば、彼の行動の動機は大部分が「妻のため」であり、また彼女の懐妊を知った後は「生まれてくる子のため」が加わった。ラスト近く、暴走する狂骨の力を命がけで止めようとするとき、彼は〈我が子が生まれる世界じゃ。ワシがやらねばならぬ〉と言う。あれほど「血」による束縛を描いていたのに、沙代は「血」を守るために実の祖父の子供を産むことを求められていたというのに、子を持つ親であること、が他者のために行動する理由になってしまってよいのだろうか(しかも彼は〈やらねば狂骨は増え続け国を滅ぼすことになる〉と言う。案ずる対象が「国」でいいのだろうか。それでは時貞翁と変わらないのではないか?)。
 しかしゲゲ郎は、水木と妻を逃がした後でひとりごちる。〈それに友よ、おぬしが生きる未来、この目で見てみとうなった!〉。彼にとっても、水木が〈自分より大事なもの〉となり、利他的な行動の動機となっていることがわかる。しかも、この部分からは〈我が子〉を理由に挙げていた時の自己犠牲的なヒロイズムの色が褪せ、この先を〈この目で見〉るために生きて帰ろうという意思が前に出てくる。「名誉の戦死」の象徴として利用された花である「桜」が禍々しく登場した後でもあり、彼の心境の変化は重要だ。彼は結局、「この目」だけの存在になるのだが……。
 つまりこの物語は、悲しい過去により「人を愛せない」利己的な人物になってしまった主人公が、「人を愛する」ことによって利他的な行動を取るようになるという、ある種典型的なストーリーにクィア的な捻りが加わったものであり、ゲゲ郎の言う〈本当に誰かを愛しいと思〉うとは、発言時点では異性への・恋愛感情に限定されていたかもしれないが、ストーリーの展開の中で、同性への・友情へと拡張されていると言える。

 拡張されてはいるが、覆されてはいない。
 人を愛さない者は冷たく利己的であり、人を愛する経験によって心を入れ替えなければ、善良にはなれない、という価値観は覆されていない。また「愛する」には友情も含まれるという拡張はなされているが、「愛」の概念の中心には恋愛が居座っている。
 そのままで、いいのだろうか。

 まず気になるのは、水木の過ちは、〈誰かを愛しいと思〉わないことだったのだろうか、という点だ。
 彼は確かに沙代に嘘を吐き、果たすつもりのない約束をした。それは不誠実な行動だ。しかし非難されるべきはその点であり、沙代の気持ちに同じ気持ちで応えられなかったことでも、他者に恋愛的な関心を持たないことでもないはずだ。
 他者に恋愛的な関心を向ける人も、すべての人にその気持ちを向けるわけではないし、その気持ちを向けていない相手には必ず不誠実な行動を取るわけではない。特定の人に恋愛的な関心を向けている人は、その相手に誠実な態度を取るかというと、そんなことはない。時貞だって沙代をある意味で愛しいと思っていたかもしれないが、そんなことは問題ではないのだ(時貞は〈この国をあの屈辱的な敗戦から立ち上がらせ、再び世界に君臨させる〉ために動いている、「愛」国的な人物である……という点からも、「愛」が一口によいものだとはとても言えないことがわかる)。
 とはいえゲゲ郎も、沙代の恋愛感情に答えろと水木に求めていたわけではない。水木は大人で、沙代は子供だし、水木が沙代の恋愛感情に応えた方がむしろ相手を利用している構図になるだろう。ゲゲ郎が求めているのは、「その気があるような素振りを見せるな」ということだ。しかし、それならなぜ、そこで〈誰かを愛しいと思ったことはないのか〉という問いになるのか。そこには、「自分も恋をしたことがあるなら相手の気持ちがわかるはずだ」という論理が伏流している。「沙代が水木に向けている感情と同様のものを、水木が他者に対して持ったことがあるなら、沙代の気持ちを軽々しく利用しようとは思えないはずだ」ということだ。
 それは、思いやりなんだろうか。自分も経験したことがある感情しか慮れないのだとしたら、それは我が身可愛さの域を出ていないのではないか。関係や感情はひとつひとつ違うものなのに、カードにスタンプを捺すように、ある気持ちを経験した、していない、と括ってしまえるものだろうか。
 ゲゲ郎の言っている意味はそうではない、という反論はできると思う。「他者を大事に思ったことは、他者を慮ったことはないのか」という意味だ、と。そうとも取れる。それが厄介なところで、こうした文脈における愛という言葉にはたいがい、二重の意味がある。①恋愛の磁場における、他者を欲望する気持ちと、②より広い意味における、他者を尊重し慮る気持ちだ。この二つの意味の間をたくみに行き来することで、「愛」という言葉はきわめて理不尽でおそろしいメッセージを発する。「他者を愛したことがなければ、他者を愛することはできない」というメッセージ――それは同語反復ではなく、①の気持ちを持ったことがなければ②の気持ちを持つことはできない、という意味になるのだ。

 〈人の真剣な気持ちをもてあそぶな。それだけはやっちゃいかん〉というゲゲ郎の台詞にも奇妙なところがある。〈人の真剣な気持ちをもてあそぶ〉のが悪いことであるのはいいとして、〈それだけは〉とまで言われるのは不可解ではないだろうか。「人を道具として利用してはいけない」だとか、「嘘を吐いてはいけない」ならば、その倫理の体系のありようも見えてくるのだが。あるいは、「考えの足りない子供に付け込むな」とか、「自分で手に負えなくなることには手を出すな」も、この場合ふさわしい忠告と言えるのではないか。
 水木はそもそも、沙代の気持ちをもてあそんではいない。彼は彼で、遊びや暇つぶしでやっているわけではなく、真剣な出世欲のために沙代を利用しているのである。しかしゲゲ郎の言う〈真剣な気持ち〉に、真剣な出世欲とか、真剣な野心とか、真剣な好奇心といったものは入りそうにない。この〈気持ち〉は、恋心に限定されている。
 では〈真剣な〉〈本気の〉恋心とはどのようなものだろうか。「他者を思う心」と言うと、「他者のためを思う心」との混同を誘われるが、そこには別に思いやりや利他の要素はない。沙代も水木のためを思ってはいない。ただ、他者を求める、他者を欲する「自分の」気持ちというだけだ。恋愛における「本気」に対比される言葉は、「浮気」「遊び」「軽い気持ち」であり、逆算すると「本気」というのは「決意が固い」くらいの意味であるのがわかる。他者や自分に誠実といった意味合いは別にない。
 それなのに、様々な気持ちの中で恋心だけは、〈それだけは〉と言われるほどに大事にされなくてはならないものなのか。

 沙代の気持ちは、「恋心だから」大事にされるべき、だったのか、という点について考えてみよう。
 東京に連れて行ってくれると約束するなら協力する、という交換条件を出したのは沙代であり、その意味では沙代もまた相手に選択肢がないことに付け込み、利用したのだと言える。水木ほど意識的にではないにせよ。
 東京に連れて行って、という沙代の台詞を文字通りに取るところだった、と私は書いたけれど、やはり文字通りに取るべき台詞だったのだと思う。沙代が望んでいたのは、水木の妻になることではなくて、この場所から出ていくことだった。彼女に必要だったのは、配偶者や恋人ではなく、助けの手であり、その先にある自由だった。
 〈本当は誰も私のことなんて見てなかったくせに。見ていたのは龍賀の名前と血、ただそれだけ〉〈でもあなたなら……あなたならって信じてたのに。私のことを見てくれるって〉と沙代は言うが、彼女は一体水木のどこを見てそんなふうに思ったのだろう。彼女も水木を見てなどいない。東京から来た、この村とは関わりのない人間、という要素しか見ていないのだ。
 沙代は子供で、虐待を受けていて、逃げ場も選択肢もなかった。目の前に現れた、助けてくれそうな他者にすがるのは当然のことだ。
 それに対して、水木が取るべき行動は、恋心に応えることではなく、恋心を理解することでもなかった。
 にもかかわらず、水木が倫理観の欠けた行動を取ったことと、彼が沙代の恋愛感情に応えなかったことと、彼が他者に恋愛的な関心を持たないことが、〈誰かを愛しいと思〉わない、という言葉によってイコールで結ばれ、沙代の悲劇的な死の責任が、水木が「人を愛さない」ことに負わされてしまうこと、沙代との関わりにおいては愛の欠如ゆえに取り返しのつかない過ちを犯した水木が、ゲゲ郎との愛によって改心し、償いを果たした、という読みの磁力が強く働いてしまうことが、つまりは私の気にかかる点なのだ。

 では水木はどうすればよかったのか、といえばどうにもできなかったのだろう。彼が村に現れた時点で、沙代はすでに深い苦しみを経てきていた。彼女は〈私本当は知ってたの。東京もこの村と同じ。どこにも自由なんてない〉と理解しており、水木との逃避行に希望を託すことは現実的ではなかった。
 どうにもできなかったことが推測できるのは、この映画の誠実なところだ。村を抜け出して東京に行けば自由になれる、という話だったら、この映画は国全体の問題を地方に押し付けただけの、凡百のホラーと変わりないものになってしまう。
 しかし、本質的には水木の責任ではない(というより、水木を含めた大人たち皆の責任である)にもかかわらず、水木の行動を引き鉄として沙代の破滅的な最期を到来させることで、水木が「人を愛さない」からこうなったかのようにミスリードしてしまうのが、問題だと私は思う。水木の過ちも、沙代の悲劇の根源もそこにはないというのに。

 沙代は〈あなたならって信じてたのに。私のことを見てくれるって〉と怨ずるが、〈見〉る、とは何を意味するのだろうか。水木は今ようやく彼女を〈見て〉いるではないか。〈夢見がちな少女〉という虚像ではなく、虐待を受け、助けを求めている子供という実像を。しかし彼女はそのように見られることを拒む。
 彼女は、〈龍賀の名前や血〉ではなく、人格を持つ一人の個人として扱われることを望むが、それを恋愛対象として見られることとしてしか想像できなかった。家に属するものではなく、独立した一人の個人として、愛されることを望んだ。愛される、と言ったが、ここでは恋愛対象として欲望され、求められるということだ。
 他者から欲望されることは、人格を持つ一人の個人であることの必要条件でも充分条件でもない。しかし、彼女には他者から欲望されることは当然すぎて、「家の一部として」を「個人として」に置き換えることはできても、それ以外の望み方はできなかった。他者の欲望の器にされることが彼女を不幸にしたのに。
 実像を水木に見られてしまったことで、彼女は一切の望みを捨てる。彼女は虐待の事実を決して水木には知られたくなかった。この事実を沙代の母や叔母が扱う手つきは、彼女らがこれを虐待や暴力としてではなく、色恋の問題であり「貞操」の問題であると考えていることを明らかにする。つまり、「他の男との間に関係があったことを意中の男に知られたくない女」として沙代を扱い、沙代もそのように振る舞う。だから水木に知られた以上は、もう水木の恋愛対象になれる望みはなくなったと自棄になるのだけれど、水木との関係が恋という磁場に置かれていなければ、そして祖父からの性暴力が色恋沙汰として同じ磁場に置かれていなければ(つまり、性-恋-愛が連続体と見なされていなければ)、そのふたつが致命的な衝突を起こすことはなかったのではないか(性暴力の被害者の持つ「恥」の感覚が、当人の性に対する価値観次第で解消される、という意味ではない)。

 水木が〈誰かを愛しいと思〉わないことは人間としての欠落である、という呪縛の中にいるのと同様に、沙代は誰かに〈愛しいと思〉われなければ人間として失格である、という呪縛をかけられている。
 このような「愛」を巡る価値観の枠組みの中では、性的虐待を受けた彼女が不幸なのはそれが「正しい愛」ではなかったからであり、「正しい愛」(性-恋-愛の結合体)を受け取る以外に救われる道はない。そして彼女は「正しい愛」を受け取る資格がない(「愛」のない「性」によって損なわれてしまったから)ことが知られてしまって絶望し、死ぬのである。
 それが呪縛でなくてなんだろう。

 沙代の地獄を作っていたのも、「愛」の呪いだった。「愛」の枠を友情にまで広げても、「ブロマンス」のヴェールの下でロマンティック・ラブ・イデオロギーの延命を図っているに過ぎない。〈誰かを愛しいと思〉わなければいけない、という価値観の再生産になってしまっている。

 まず一回、その「愛」を解体しないといけないんじゃないだろうか。