A is for Asexual 川野芽生

A is for Asexual | 川野芽生

Kawano Megumi

#04

関係性の最上級?

 アロマンティックやアセクシュアルの人に対するステレオタイプとして、他者との深い関係を望まない、人間関係についてドライだ、というものがある。
 無論そういう人だっているし、人間関係についてドライであることは何も悪いことではない——というのは当然のこととして、そうでない人も無論いる。恋愛や性愛を望んでいないだけであって、他者との関わり方にはそれ以外にもいろんなかたちがあるのだから。それなのに、恋愛や性愛に関心を持たない=他者に関心を持たない、と解釈されてしまうことは、恋愛や性愛がいかに特権的な地位に置かれているかを示していると思う。
 私はといえば、けっこう人間(だけじゃないけど)を愛していると思う。友人や家族、その他いろんな人たちが好きで、他者と深い関係(深い、とか親密な、という言葉を使うと、それだけで「性的な関係」を指し示すことが多いので、何て言ったらいいのかわからなくなるし、関係における「深い」とか「浅い」って何? という問題もあるのだけど)を構築することを望んでいる。好き=関係を構築したい、というわけでもなくて、いろんな「好き」が私の中にもあるけれど。
 だけど、恋愛や性愛という、他者との関係のうちのごく限られた領域があまりに大きな顔をしてのさばっているので、それ以外の関係性が割を食っているのがこの社会だ。そうでなくたって他者との関係って難しいのに。

 たとえば、自分は相手と友達でありたいのに、相手は恋愛関係になりたいと望む、という場合とか。
 この社会では、人間関係のあり方にはヒエラルキーがあって、(血縁関係にない)ひととひとの関係のトップに位置するのは恋愛関係、ひいては婚姻関係ということになっているらしい。たとえば「友達以上恋人未満」とか、「友達止まり」とか、「(友情から)恋愛に発展する」といった言葉は、わかりやすく友情より恋愛の方が「上」なんだということを示している。
 そんな世の中で友情を築くのは、すこし困難だ。私には友情より「上」の関係などないけれど、相手にとっては友情は二番手以下の関係であることが多いから。
 誰かと親しくなればなるほど、相手との齟齬も大きくなっていく。親密なら、好意を持っていれば、大事に思っていれば、恋愛に「発展」するのを目指すのが当然ということになっているから、相手の気持ちと私の気持ちが乖離していく。友人として親しくなればなるほど、友人でいるのが難しくなるなんて皮肉だ。
 これを、「好きでもない人に好かれる気持ち悪さ」だと思われるとちょっと心外だ。いや、他者から恋愛感情を向けられる気持ち悪さというのは私にはすごくあって、でもそれを「好きじゃないから」とは言いたくないのだ。「相手に恋愛感情を持っていない」ことを、「好きじゃない」とは言いたくないし、「恋愛感情がある」ことを「好き」とも呼びたくない。恋愛以外にも「好き」はたくさんあるのだから。
 けれど、私が相手と友達でいたいのは、恋愛関係になりたいと思えるほどに好きではないから、ではないのに、それが伝わらない。相手は、私も同じ「当然」を共有していると思っている。恋愛関係にはなりたくないと言われたら、それほど好きではないという意味だろうと思い、自分の何が悪かったのだろうと落ち込む。
 あなたのことが好きじゃない、と言えたら楽だろうと私は思う。好きじゃないから付き合えない、は恋愛規範のある社会の中でわかりやすい理屈で、そう言われたら反駁の余地はないと思う可能性が高い(いや、どんな理由であっても食い下がる人は食い下がるのかもしれない)。でも私は嘘でもそんなことは言えない。それほど好きじゃないから「友達」という形を取るなんて嘘、相手にも、私の他の友人たちにも、私にも失礼だと思う。だから、あなたのことは好きだよ、と言う。あなたのことが好きで、友達という関係を大事に思っていて、だから、あなたと友達でいたい。
 それは、伝わらない。恋愛感情じゃない「好き」があるということが伝わらない。「好き」か「付き合えない」のどちらかが嘘だと思われる。そんなに好きじゃないけど、慰めのつもりで好きだと言っている、あるいは、付き合ってもいいと思っていて、気を持たせつつ引っ張ろうとしている、と。
 そういうやり取りを続けていると、段々嫌になってくる。こちらの気持ちを慮る気がないんだなと思うので、嫌いになれる。嫌いになれれば状況はだいぶ整理される。
 それは口惜しいことだなと思う。好きだった人と、友達でいつづけられないだけでなく、好きでいつづけるのも諦めなくてはならないのは。

 そういうことがあると、ひとと親しくなるのが怖くなっていってしまう。

 あるいは、お互いに恋愛関係になることを望んでいない友人関係の場合に、不要な読み合いが発生しているように感じることがある。親しくなっていった先で、恋愛感情 を持たれたら困るなと先方も警戒している気配を感じる。友情の「上」に恋愛がある人から見たら、友情より「上」がない私の好意は恋愛感情に見えて困ってしまうんじゃないかとも思う。
 なので、あんまり好意を素直に表出しないように気をつけてはいる。でもそうしていると、仲良くなれたかもしれない人と距離を縮めることができないということもある。

 そういう話をすると、「異性」とばかり仲良くしているのでは、と言われそうだ。
 お互いに恋愛対象に入らないことがわかっている関係ならたしかにそういうことは起きづらい。とはいえ。恋愛対象に入る/入らないを決定する要素としてかなり大きな役割を果たすのがセクシュアリティだけれど、いちいちセクシュアリティを確認してから友達になるわけではない。レズビアンの女性とは友達にならないとか、ヘテロセクシュアルの男性とは友達にならないけれどゲイの男性となら友達になるとか、友達ってそういうものじゃない。相手に失礼だし。相手がシスヘテロではない可能性を排除して、「同性なら警戒しなくて大丈夫」「異性とはみだりに仲良くしない」というふうに線を引きたいとは思わない。
 というか、私は自分が「性別:なし」「恋愛・性愛対象:なし」なので、ひとのジェンダー・アイデンティティやセクシュアリティのことはそんなによくわからないし、本人から話題に出されない限り意識することもあんまりない。大多数の人はアロロマンティック*でアロセクシュアル**である、ということは頭では理解しているのだけれど、個々の他者のことはなんとなくアロマンティック・アセクシュアルであるように思ってしまう。恋愛の話とかされると、毎回新鮮に驚く。
 ちょっとした仕草に対して「そういうことは男の前ではやっちゃだめだよー(私たちは女だからいいけれど)」と言われることがたまにあって 、たぶん「男性だったら好きになってしまうから」ということなんだと思う。でも男性なら好きになる、女性ならならない、という分け方もおかしいし、ひとが男性なのか女性なのかはあんまり意識していないから、どうしたらいいのかわからない。
 あと、自分は女性から「同性」と見なされて男性から「異性」と見なされるのだと思うけれど、そのことに完全に納得しているわけではない。本当は性別がないから。なので、自分にとってしっくり来ないセクシュアリティやジェンダーの概念を自分や他者に当てはめて、親しくなりたい相手を限定する気にはなれない。
 「とはいえ」はもうひとつある。相手の恋愛対象に入っていてもいなくても、問題は変わらない。友情は恋愛より一段劣るものとされていることが口惜しいのだ。私が友達のことを大事に思っていても、友達にとっての「大事な人」は恋人であって、私ははなからそこに入ることができない。相手から恋愛対象として見られていてもそうでなくても、私は他者を恋愛対象として見ることがなくて、恋愛関係になることに同意できないから。

 関係性の最上級が恋愛なら、恋愛をしない私は浅い関係しか築けないことになるのだろう。
 という気持ちになっていた時もある。今はありがたいことに、周囲のひとたちに恵まれているので、全然そんなことはないのはわかっているけれど。

 無論、ひととひととの関係のことだから、相互にまったく同じ感情を持つなんてことはないし、どういう関係でありたいかという気持ちも齟齬があって当然だと思う。だから、一方が恋愛関係になりたいと望み、もう一方が友人関係でありたいと望む、というのは、どっちもどっちに見えなくもない。ただ、「恋愛」ってかなり成立要件が厳しいというか「あるべき形」の規範が強くて、ひとりひとりに合わせてオーダーメイドのかたちを探るのが、「友達」に比べて格段に難しいように思う 。
 ただ、「恋愛」のそういう面に直面するたびに、ひとつひとつ違う関係に名前をつけて括ること自体に無理があるんじゃないか、「友達」もまた、という気持ちになっていったので、「友達」についてはまた改めて書きたいと思う。

*アロロマンティック……アロマンティックではない人のこと。他者に恋愛的指向を向けうる人のこと。
**アロセクシュアル……アセクシュアルではない人のこと。他者に性的指向を向けうる人のこと。