恋愛をしたことはないのだけど、「恋をしたことがないんだよね?」という言い方をされると、実はちょっと正確ではないなと思って、迷う。
というのは、私は「恋愛」という言葉と「恋」という言葉を使い分けているからである。というか、正確に言うと、その使い分けを今より重視していた時があるからである。そしてその時に「恋」と呼んでいた感情が、当時の私にはあって、現在の自分の用語法ではそれはもう「恋」とは呼んでいないけれど、当時においては「恋」であったことを否定したいわけでも別にないからである。このあたり、半分くらいは「恋」や「恋愛」の話というより、言葉に対する自分のこだわりの話になってくるような気がする。
私の言語感覚では、「恋愛」は制度で、「恋」は感情である。
「恋愛」は、社会的なコードに則った、具体的な行動の束である。付き合うとか、デートをするとか、告白するとか、振られるとか、そういった行動のことだ。そこに「恋心」と呼ばれるような感情があるかどうかは、実はそんなに重要ではない。「思い返すとあれは別に恋ってわけじゃなくて、お互いただ恋人がほしかっただけなんだけど、何度かデートして告白されて付き合ったんだ」といった体験を「恋愛」と呼ぶのは別に違和感がないだろう。他方、「あの人のことがずっと好きだったけど、告白したこともないし、デートもしたことがない、誰かに相談したことすらない」という体験を言い表すのに、「恋」という表現を採用しても違和感はないが、「恋愛」という表現が採用されることはあまりないように思う。
これは、どちらの経験の方が上だ、という話ではなくて、「恋愛」と「恋」という言葉が無意識のうちにどのように使い分けられているのか、これらの言葉を使う時に私たちはどういう差異を認めているのか、という話だ。
「付き合う」とか「デートする」という行動には、具体的に「このような条件を満たせばそのように呼ばれる」といった定義があるわけではなくて、ある程度は人により、カップル(トリプル、クアドラプルetc.)による。また、二人の人が一緒に出かけたとして、一方はそれをデートだと思っているが、他方はデートだと思っていない、といった場合もある。その場合、前者は「恋愛をしている」と言い得るが、後者についてはそうは言わないだろう。何らかの行動を「恋愛」と呼ぶには、それが恋愛であるという意識が必要になる。言い換えると、具体的な行動を「恋愛」にするのは、社会的なコードであり、そのコードに則っているという事実である。
時代などによっても「何が恋愛か」は多少は変わってくる。「デート」や「告白」といった行動はかなり時代に依存するだろうなあという感じがする。その中身は入れ替え可能だ。ただ、どの時代、どの地域においても、「恋愛」は存在する、とは言えない。「恋愛」が成立するには、「恋愛」という概念や規範自体は必要だ。「恋愛」という日本語は明治時代に西洋の言葉の訳語として作られたもので、とりあえず近代以降の日本社会と、多分近代以降の西洋社会については使用することができる。未来についてはわからない。
そのように考えているので、私は「恋愛」という言葉を、社会的なコードに則った行動の束、およびある行動の束を恋愛行動と見なす社会的なコードの束、を指す言葉だなというふうに捉えている。
「恋」という言葉は、「恋う」という動詞が名詞化したものであり、形容詞形は「恋しい」である。これは「恋愛」とはだいぶ感触が異なっていて、「恋愛する」ことを「恋う」と、「恋愛的な意味で好きである」ことを「恋しい」と表現するかというと、(現代においては)しないだろう。(ちなみに、「恋愛感情」という言葉があるけれど、私は「恋愛感情=恋」とは捉えていない。「恋愛」という制度内での行動を取りたいという具体的な願望のことを私は「恋愛感情」と認識している。「結婚願望」といった言葉と似て、かなり具体的な感情のことだ。)
ここで辞書を引いてみると、「恋しい」という言葉はもともと「時間・距離・気持などで隔たっていて、身近に存在しない対象に対し、心が強くひかれ、接したいと思う気持を表わす」*とある。今ここにはない存在や、遠く感じられる存在に対する感情であり、英語で言えば“I miss you”、「あなたがここにいたらいいのに」という気持ちで、類語としては「懐かしい」や「寂しい」を挙げることができる。
(辞書によれば、『万葉集』の時点で、「恋し」という言葉の約七割が「男女間の愛情」の意味で使われているそうだが。)
それらを踏まえて、私は「恋」という言葉を、「(双方向的というより)一方向的に、他者(人間に限らない)に惹かれ、相手の存在を望む気持ちであり、寂しさや切なさの要素を含む」というふうに捉えていた。
捉えていた、というのは、冒頭の話題に戻るのだけれど、このように考えていたのが主に中学・高校時代のことだからだ。
その当時私にとって重要だったのは、「恋と恋愛の関係」ではなくて、「恋と友情の関係」だった(なので、「恋愛」についての部分は、当時ここまで具体的には考えていなかったことを、現時点で文字にするためにある程度補足している)。
私には、誰かと、あるいは特定の人と付き合いたいといった気持ちはなかった。「恋愛」には全く関心がなかった。それは現在も同じだ。
しかし「恋」はどうだろう?
「友情」という言葉には、双方向的な気持ちという響きがある。一方だけが相手のことを好いている場合に、それを友情とは呼ばない。「友情」には、一方が他方に向ける感情とか、どちらか一方に帰属する感情というより、共有される感情、ないし関係という印象がある。
しかしことはそう単純ではなく、私が友達に向ける気持ちには、一方向的な部分がある、と私は感じていた。相手が私のことを好きでいてくれている気持ちよりも、私の方が相手のことを好きでいる気持ちの方が上回っているように感じていた。一緒にいてどちらも同じだけ楽しいというわけではなくて、自分の方がより会いたがっている、一緒にいられて嬉しいとより多く思っていると感じていた。目の前にいない時でも相手のことを考えて、寂しくなったり「あなたがここにいてほしい」という気持ちになったり——“I miss you”の気持ちだ——、あるいは気持ちが浮き立ったり幸福に感じたりした。
その部分を、私は「友情の中にある恋の部分」、と呼んだ。繰り返すけれど、私にとってそれは、恋愛関係になりたいとか恋愛に類する行動を取りたいという気持ちとは全く別物だった。「好意の中の、一方向的な部分」のことだった。いいとか悪いとか、友情と恋のどちらが上か下かといった話ではなく、どんな友情にもある程度の「恋」の要素が含まれている、と私は考えた。
(ところで、恋が一方向の感情だというのは片想いの場合だけではないか、と思われるかもしれないが、両想いと呼ばれるものも、A→Bの感情とB→Aの感情の二つが偶然揃っているというだけで、片想い×2であるというふうに考えていた。双方向の感情などというものはないのだと。つまるところ、友情と呼ばれるものも、実際には一方向の感情のやり取りで成り立っているのだと。)
私のこの気持ちは、特定の一人だけの友達に対するものではなかった。どの友達にも、私は「恋」の気持ちを持っていた。相手が私を好いていなくても私の方では変わらないだろう好意。相手がそこにいない時の“I miss you”の気持ち。一人でいて寂しいというのとは違う、他者がいるがゆえの寂しさや切なさ。
相手によっては「恋」の割合がより高くなる。たとえば部活の先輩たちに対する気持ちは、「友情」という対等な感じのする言葉では呼びづらかった。
部活の先輩たちのことが私は好きだった。私の所属していた部活(というか同好会)は、人数が少ないためもあってかなり仲が良く、先輩たちは後輩たちを可愛がってくれたし、後輩たちは先輩たちに憧れていた。私は先輩たちにかなり甘えて、部活動の時間でなくても、授業の合間の短い休み時間には階段を駆け下りて先輩たちのいる階に入り浸ったり、登校時には駅で先輩たちが現れるのを待ったり、それがストーカーと呼ばれなかったのはひとえに先輩たちがそれを受け止めてくれていたからでしかないような行動を取っていた。先輩たちが部活を引退し、また学校を卒業する時には、いやそれが近付いているのを思うだけでも、涙を流した。
私は、先輩たち全員が同じように好きで、先輩たち全員が揃ったその部活が好きだった。ある年、私の友人が先輩たちの一人のことを好きになり、その部活に入ってきて、先輩に熱烈なアプローチを始めた。先輩は私よりその子の方を可愛がるようになり、私は失恋の痛手を味わった。けれど、私はその子に対抗して先輩にもっとアプローチをしようという気にはなれなかった。友達の恋路を邪魔したくはなかったのもあるし、私は先輩たち全員を好きなのであって、一人の先輩にだけ殊更に気持ちをアピールするのは違うという気持ちもあった。先輩たち全員を同じように好きでいたかった私はきっと、あの子よりずっと欲が深かったと思う。
しかし大学に入ると、「恋」という言葉の一般的な使われ方と自分の使い方とのあまりに大きな隔たりに直面せざるを得なくなった。あたりは「恋愛」の話題でもちきりで、「恋」は「恋愛」の同義語と見なされており、そして私は「恋愛」に一切かかわりたくなかったのである。自分の気持ちを「恋」という言葉を使って説明すれば、通じないどころか、大変厄介なことになるのが目に見えていた。
だから、私は「恋」という言葉を使うのをやめることにした。どんな好意も一方通行的なものであるなら、わざわざ「恋」と「友情」を区別する必要もなく、全部「好き」でいいなと思った。その方がシンプルだ。ある他者を「友達」と呼び得るかどうかは自分だけではわからない(相手がそう思っていない場合は友達ではない)けれど、「好きな人」だったら自分の気持ちだけが根拠なので、事実と相違しないし(これは相手が嫌がるか否かという話ではなくて、単純に真偽の問題で、偽であることをなるべく口にしたくなかったのだ)。
「恋」という言葉に特別愛着があるわけでもないし、いいよ、別に。この言葉をあっち側に譲り渡したって。「恋愛」の手垢がついて気持ち悪いし。そう思ってこの言葉を手放したのだけれど、それでも時々、悔しさを覚えることがある。「恋愛」をやる人たちが、「恋」という言葉を気軽に使っているのを目にする時など。それは本来、恋愛に限らず、人間に限らず、鳥に対して、花に対して、月に対して、季節に対して、過ぎ去った時間、かつて暮らしていた土地、おぼろな記憶、もう存在しないもの、まだ存在しないもの、どこにもないもの、目の前にあるのに決して手に入らないもの、見えているのに夢でしかないもの、そんなあらゆるものに対する感情を指す言葉だったのに。「恋愛」が普遍的な人間の気持ちであるかのような顔をしてのさばっているのは、「恋」や「愛」や「好き」や、そういった広範な意味合いを指す言葉を押さえ、それらが用いられた文学を押さえ、広い気持ちに通じる水門みたいな場所を押さえているからであって、「恋愛」の手柄ではないというのに。
「恋」という言葉を譲り渡した代わりに、というわけでもないが、「好き」という言葉は譲り渡すまいと私は決めていて、「好き=恋愛感情」という暗黙の前提を絶対に共有してやるものかと、「好きな人はいるの?」と聞かれれば「たくさんいるよ!」と、「あの人のことどう思ってるの?」と問われれば「好きだよ!」と答え続けた。コツがあって、躊躇いを見せず、明瞭に「好き」と言い切れば、「恋愛感情の意味で言っているのではないらしい」と気付かせることができる。ただし、そこには「恋愛はより重大な好意なので『好き』と言い切るのに躊躇いが生じる。躊躇なく言い切れるのはより『軽い』意味の好意だからである」という、腹立たしい前提が挟まっているのだけれど。
こうした経緯があるため、「恋をしたことがあるか」という問いに返答するのは難しい。現在の私の用語法で言うなら——つまり、「恋」をほぼ「恋愛感情」と同一視する一般的な用法に準拠するなら——したことはない。けれど、その当時の用語法に則るなら、していたことはある。
誤解してほしくないのは、「あの頃は自分の気持ちが恋だと思っていたけれど、それは間違っていたとわかった」という話ではないということだ。私はもう自分の気持ちを表わす上で「恋」という言葉を使いたくはない。あまりに強く「恋愛」を想起させるので、現在の私にとっては気持ち悪いし、不似合いに感じられる。けれど、その当時の私の表現では「恋」だったということは間違いではない。
そう言っておかなくてはいけないと感じるのは、私の通っていた中高一貫校が女子校であり、私の好きだった(今も好きな)友人たちや先輩たちが全員女性であるという事実のゆえもあると思う。つまり、(特に別学に通う)青少年が同性に対して抱く恋ないし恋愛感情を、「思春期特有の気の迷い」と片付けるようなホモフォビックな風潮に対しては明確に否を突きつけておかなくてはならないからだ。
その後、アセクシュアルという言葉を知り、セクシュアリティという枠組みに自分を当てはめてみることが有効かもしれないと思い始めた頃、私は自分がアセクシュアルなのだろうかレズビアンなのだろうかと頭を悩ませることになる。
周りに女性しかいなかった中高の時は、人を好きになるのに性別は関係ないと思っていたが、共学の大学に入ってみると、どうも自分は女性の方が好きであるような気がした(「女子校在学中は自分をレズビアンだと思う女の子がよくいるが、卒業すれば『普通に』ヘテロセクシュアルであることに気付くものだ」などという偏見に満ちた意見を目にしたことがあるけれど、むしろ「女子校在学中は自分をバイセクシュアルかパンセクシュアルだと思っていたが、卒業してレズビアンだと気付いた」というパターンの人は結構いるんじゃないのかなと思う)。でもそれが、実際に女性の方が好きなのか、女子校在学中の方がのびのびと人を好きでいられる環境があったということなのかはよくわからない。「恋愛」(主に異性愛)に回収されることを避けたいあまりに、男性に対する好意を回避しているのかもしれない、とか、でもそれは同性なら恋愛にならないと思っているということで、ヘテロノーマティブな考え方ではないだろうか、とか。
恋的指向(ロマンティックオリエンテーション)という概念はまだ日本にはほとんど入ってきておらず、恋的指向と性的指向を切り分けて考えることは難しかった。日本独自の用語として、「ノンセクシュアル(ノンセク)」というのがあり、それは今で言うアロロマンティック・アセクシュアルを指していた。そして「アセクシュアル(アセク)」は当時はアロマンティック・アセクシュアルだけを指すことが多かった。ノンセクの場合、「ノンセクのレズビアン/ゲイ」といった言い方で、今で言うホモロマンティック・アセクシュアルを表していた(ヘテロロマンティックやバイロマンティックなどの場合も同様)。
そのため、自分はアセクなのか、ノンセクなのか、ノンセクだとしたらレズビアンなのか、バイセクシュアルなのか、パンセクシュアルなのかもわからなかった。はじめてレインボーパレードに参加した時には、友人にセクシュアリティを聞かれて、「とりあえずヘテロセクシュアル以外」という漠然とした答え方しかできなかった。
何年かして、◯◯ロマンティックという言葉が日本に入ってきて、アセク/ノンセクではなく、アロマンティック・アセクシュアル/◯◯ロマンティック・アセクシュアルという分け方が知られるようになった(アロロマンティックという表現はまだ知られておらず、個別にヘテロロマンティックとかホモロマンティックといった表現をしていた)。そこでようやく、「『◯◯ロマンティック』の部分はおいおい考えるとして、アセクシュアルであることは確かだな」と考えられるようになった。
「◯◯ロマンティック」の部分はその後も長いこと保留のままだった。人を「好き」だと感じる気持ちはむしろあふれるくらいあったし、それが「恋愛」と呼ばれる領域で扱われている「好き」と、感情の質として異なるというふうには考えていなかった。あるいは、感情の質として同じ「好き」などどこにもなく、どの「好き」も個別のものだと考えていた。自分の「好き」を「恋」と呼ぶ気は今はないにせよ、「恋」と呼ぶことが間違いであるとは、重ねて言うが、思わなかった。
だから、概ねは自分がアロマンティックであるという説を採用しつつ、たまに「自分はアロロマンティックなのでは?」という問題を再検討したりしていた。そしてたまに自分に恋愛感情を向ける人が登場すると(自分の感覚では、たまにだろうと多すぎる)、付き合うという行動を取りたい気は全くないにもかかわらず、相手との親交を打ち切りたくない気持ちや、相手を悲しませたくはないという気持ちから、付き合うという選択肢を自分が取れる可能性を審査することになった(その時考えた内容の一部が「付き合うって何なんだ」にまとまっている)。
結局、どんなに検討してみても、恋愛関係になるという選択肢を取りたい気持ちも、取るべき理由も、私にはなかった。そうするともう、「◯◯ロマンティック」の部分は、自分がどうしたいかで決めていいように思う。というか、ロマンティックオリエンテーションもセクシュアリティも、完全にすべてが先天的に決定されていて自分の判断や選択が介入する余地のないものというわけではない。それで構わないと思う。
自分がどういう生き方をしたいかというと、恋愛にも性的なものごとにも一切かかわりを持たない生き方であり、そうであればアロマンティック・アセクシュアルを名乗るのが一番よかったのだ。
*『精選版 日本国語大辞典』(小学館)より
ウェブ連載「A is for Asexual」は今回が最終回です。
本企画は2025年に書き下ろしエッセイを含めて書籍化いたします。
つづきは書籍でお楽しみください。(リトルモア編集部)