わたしはここにいる
私は(あなたと同じように)いろんな要素からできている存在で、その要素のひとつにアロマンティック/アセクシュアルであるということがある。
アロマンティック(Aromantic)とは、相手のジェンダーに関係なく他者に恋愛面で惹かれないこと、アセクシュアル(Asexual)とは、同様に他者に性的な面で惹かれないこと。「惹かれ」という言葉は普段そこまで耳にしないかもしれないけれど、他者に対して「この人と付き合いたいな」とか「性的なことをしたいな」と思うことがない、ということだと思ってもらえればいい。
現象としての「惹かれ」を経験しない人が全員、行動としての恋愛や性行為をしないかというとそれはまた人それぞれなのだけれど、私に関して言えば、恋愛も性行為も、したこともしたいと思ったこともなく、これから先も御免被りたいと思っている。
そのことを表明すると、恋愛すると人生が変わるよとお説教されたり、恋愛しない人なんていないよと決めつけられたりする。
そうした反応のひとつとして、「恋愛に興味がない人はほんとうは他にもいるけど、みんなちゃんと周りに合わせて恋人を作ってるんだよ(だから君も僕と付き合うべきだ)」というアクロバティックなものがあった。
それを聞いたとき私は、じゃあ自分も恋愛に興味がないことを隠して生きていこうとは思わなかった。その反対だ。
私は今、仲間も味方もいなくて孤立していて、おまえはおかしいって言われ続けて頭がどうにかなりそうだけど、この世のどこかには私以外にも同じような思いをしている人がいるはずなんだ。
じゃあその人に、私はここにいるよって伝えたい。
私は自分の気持ちに従って生きてるよ、生きられてるよって見せてあげられるように、自分を曲げずに頭を上げて生きていきたい。
でももっと言えば、私に似た人が一人もいなくても、世界でたった一人でも、私はこの世にこんな人間がいることの証明でありたいと思っている。
これはそんな私の証明だ。
introduction
「最近はコンプライアンス研修とか色々受けるんだけどさ、ほら、LGBTとかいうの?」
カフェで向かいの席に座った男性が言う。
私は仕事の面接を受けているところだ。
相手は私を緊張させまいと気を遣ってくれているのだろう、ざっくばらんに雑談を振ってくる。
「あれもなんかややこしくてさ、最近はLGBTQとか、LGBT+とかあるらしいよ」
私はにっこり笑って、「LGBTQ “A”っていうのもありますよ」と答える。
私がそのAです、と言ったら不採用になるのかな、と思いながら。
Aはアセクシュアル(Asexual)のA。
私は「恋愛」をしたことがない。「恋愛」というのが何を指すのかは、いまいちわからないところもある─というか、実は人によって違うのだろうと思うが、相手の性別を問わず、誰とも「恋人」という関係になることに同意したことはないし、そうしたいと思ったこともない。他者に恋愛感情─というのが何を指すのかいまいちわからないところもあるのだが─を持ったこともない。
性的な関係についてもそうだ。誰とも性的な関係を持ったことはないし、持ちたいと思ったこともない。性的な行為、と呼ばれるものには幅があると思うけれど、性的なニュアンスを伴う行為(たとえば、キスとか?)を他者としたこともない。他者から一方的な性的加害を受けた場合を除いて、だけれど。他者に性的な魅力─というのが何を指すのかいまいちわからないところもあるのだが─を覚えたりしたこともない。
恋愛に興味がない、と言うと、相手の中で「誰のことも好きにならない」と変換されてしまうこともよくある。誰のことも好きにならない、誰のことも愛さない、と。
他者に興味がない、とか、淡白だ、と思われることも。
「アセクシュアル」という概念が前より少し知られるようになって、そういったステレオタイプも固定されてきたように感じる(「アロマンティック」という概念はまだあまり普及していないようだ)。アセクシュアルというのは、他者に興味がなく、ドライでクールで淡白で、他者の気持ちがわからない、ちょっと植物か鉱物みたいな人、というイメージ。もっと言うと、心が冷たい人、とか、寂しい生き方、というジャッジがされることもある。
まず言っておきたいのは、他者に興味がなかろうが、人間を愛さなかろうが、それの何が悪いのか、ということだ。冷たいとか寂しいとか勝手に評価されるいわれはない。他者を愛することは別に偉いことでも何でもない。親切で礼儀正しくさえあればいい。
「誰のことも愛さないような人間『なんか』じゃない」「アセクシュアルだって『ちゃんと』誰かを愛せる」などとは言わない。それは、「愛」にコミットしない人を排除し、見下す言葉だからだ。「恋愛」や「性愛」に排除されてきたのに、そんなことはしたくない。
でも、アセクシュアルに対するそういうステレオタイプ自体、正しくはない。恋愛や性愛に関心がある人々と同じように、関心がない人々にも、色々な性格がある。淡白な人もそうでない人もおり、陽気な人も物静かな人も、社交的な人も内向的な人もいる。
愛にも色んな愛がある。私は友人やきょうだい、親、恩師や知人のことを愛しているし、ぬいぐるみや人形とも仲良しだし、薔薇の花やかなへびや海や冬の空気や竜が好きだ。博愛主義者なので、すべての人間や、生物や、無生物の幸福を願っているし、文学と言葉を愛している。私にとってはそれは大事なことで、ないことにされたくない。「ほんとうの愛」じゃないなんて言われたくない。
「アロマンティック/アセクシュアルで苦労することは何?」と聞かれることがある。
アロマンティック/アセクシュアルであるが故に苦労したことなど、ひとつもない。
心ない言葉を投げかけられることも、恋愛をするように圧力をかけられることも、恋愛の話を誰もが共有できる話題であるかのように振られることも、他者の性的な侵襲に傷付いてもそれを「潔癖さ」のせいにされてしまうことも、自分は本当はアロマンティック/アセクシュアルではなく、未熟なだけなのだろうかと悩んでしまうことも─アロマンティック/アセクシュアルだから経験したことではない。
アロマンティック/アセクシュアルに無理解な社会だから経験したことだ。
それが、私が今この文章を書いている理由だ。
でも、「世の中にはこんな変わった人たちもいるんです、知って、配慮してください」と言いたいのではない。
私(たち)のことを知る前に、あなたはあなた自身のことを知る必要がある。
私の話は、あなた自身の話とどこかで交差するかもしれない。それはあなたの知らなかったあなたかもしれない。
あるいは私の話はあなたにとってどこまでも他者のものかもしれない。自分が何者であるかを知るには、他者の存在が必要だ。自分がなぜそれを「する」のか、「しない」人の話を聞いてはじめてわかることもあるだろう。
あなたが他者に対して無理解だとしたら、無理解なあなた自身に対してあなたは無理解なのだ。
あなたはあなた自身のことを知る必要があるし、その権利がある。
この文章を読んでいるあなたは、アロマンティック/アセクシュアル当事者かもしれない。私とあなたは違う人間だから、この文章の内容がすべてあなたに当てはまることはないだろうけれど、一人ではないということがあなたの役に立つならば、一人ではないと言いたい。一人でもいい、とも。
あなたは、今まで自分に合う概念が見つからなかったけれど、この文章の中でそれを見つける人かもしれない。それを自分のアイデンティティにするか、しないかはあなたの自由だけれど、知ることで息がしやすくなることはある。あなたが息をしやすくなったらいいと思う。
あなたは、はっきりマイノリティと言えるような性質は持たないけれど、この社会の制度や規範の中で自由に生きられない感じがしたり、何とも言えないもどかしさを覚えたりしているかもしれない。制度や規範を、変えたいと思ってもいいと知ることがあなたの助けになるかもしれない。
あなたは、この社会の中で何の不満も感じていない人かもしれない。それなら、あなたのために作られたかのようなこの社会が、何を犠牲にして成り立っているのか、知っておいた方がいい。
この社会の片隅に、私(たち)のための小さな居場所を作って、そこに私(たち)が存在するのを許してください、とお願いする気は、私にはない。
この社会そのものが、変わる必要があるのだから。
そのためにまずは、語る必要がある。私など存在しないとされてきた言説の空間をこじ開けて、私の言葉を語る必要がある。
◆川野芽生『AはアセクシュアルのA 「恋愛」から遠く離れて』
2025年10月28日、全国発売。