「豆乳と牛乳は混ぜていい」。この事実に気づいていなかったのは私だけだろうか? 気づいたきっかけは「割るだけ ボスカフェ 無糖」(希釈用)に豆乳を入れた際に、途中で切れてしまったことだった。飲みきらずに残り僅かな豆乳を冷蔵庫にしまった昨日の自分を腹立たしく思いつつ、牛乳を足して飲んでみたら豆乳のみ入れた時よりも美味しかった。ちょっと考えてみれば不味いわけがないと予想できるけれど、豆乳と牛乳はどちらか一方を選択するものだと思い込んでいたのだ。動物の恵みと植物の恵みとが合わさってカフェオレに新たな力が吹き込まれた。数日後、もしや豆乳の牛乳割り(牛乳の豆乳割り)も美味しいのでは? と思って試したところ、豆乳と牛乳どちらの良さも感じられてビールジョッキでがぶがぶ飲みたくなった。
以前、短歌で「麻婆茄子に豆腐を入れていいのだと君が言うまで気付かなかった」と詠んだ。この時も、麻婆茄子と豆腐はどちらかを選ばなければいけないと思い込んでいた。だって「Cook Do」には麻婆茄子の素と麻婆豆腐の素が別々に存在する。「どっちも入れればいいじゃん」と言われた時には、数秒間フリーズしてしまった。軍事用ロボットの戦闘モードが解除され、自由に生きればいいと言われた時のような感動だった。麻婆の中で茄子と豆腐は共存できると知ったのだ。
「きのこの山」と「たけのこの里」が本当は戦争をしなくてもいいように、世の中に仕掛けられた分断もあるように思う。セブンプレミアムの「シアターミックスポップコーン」を食べた時も、映画館のようにポップコーンの塩とキャラメルは仕切り板で分けられているものだと思い込んでいたので、一つの袋に混ざり合っていて驚いた。混ざっていても塩とキャラメルどちらの味も損なわれることはなく、「えっ国境って何のためにあったんですか?」と言われる未来が来るかもしれないと予感させるハッピーな美味しさだった。
麻婆茄子豆腐事件以来、自分は固定観念が強い方なのだと自覚して価値観をアップデートしていこうと決めた。生めろんぱんをトースターで焼いてもいい。ペットボトルの濃い味の緑茶をお湯で割って薄めて飲んでもいい。きっと開発部が苦労してこの味・食感・風味に仕上げたのだと思う。商品を冒涜する行為にも思えるが、胃が温まると食べ終えたあとの満足感が違う。あったかいは正義だ。
価値観がアップデートされた食べ物といえば、新宿にあるカウンター席だけのおにぎり屋さん「まんま」のおにぎりもそうだ。米の塊と米の塊の間にたっぷりの具をサンドし、雛人形の着物のように海苔を纏わせる。最後にソフトタッチで三角に整えてくれるのだけれど、「お握り」というよりこれは「お包み」。食べていると皿の上にほろほろと崩れるので、最後は箸で食べる。私の食べ方が下手くそなのもあるが、まわりを見渡しても皆食べるのに必死の形相だった。これまでおにぎりの良さとは、野外で片手で食べられる手軽さだと思っていた。美味しさを追求した結果「おにぎりは形を保たなくてもいい」という事実に辿りついたのだからすごい。もう崩れてもいいや、どんなに不細工な顔でもお店の人は見慣れているだろうからいいやと両手で貪り食うおにぎりは最高に美味しかった。
ほろほろと固定観念が解けていく感覚は「〇〇してもいい」に限った話ではない。逆に「〇〇してはいけない」と言われてハッとしたこともあった。それは「深夜1時を過ぎて人生のはなしをしてはいけない」だ。なぜなら辛いから。言われてみれば確かにそうだと、目から鱗がほろほろと落ちた。私は対話の時間を設けるのは大事だと思い込んでいたのだが、深夜1時に人生をどうにかしようともがいてもどうにもならないのである。
最も絶望が湧いている時間帯に立ち向かおうとしてもバチボコに襲われて終わるに決まっている。世界を創造するサンドボックス型ゲーム「Minecraft」では、夜にはゾンビの類が無数に湧いて攻撃してくる。安全を確保するにはまわりに松明を何本も設置して「湧き潰し」をする必要があるのだ。現実でも絶望を湧き潰すにはたくさんの灯りが必要で、そのための本や動画やお気に入りのぬいぐるみなど世の中は娯楽で溢れている。松明を作る時みたいに木を切る労力がいらないので非常にありがたい状況だ。今日はもういいやと諦めて、豆乳の牛乳割りでも飲んであたたかい毛布にくるまって寝よう。
ダウンからちょっと飛び出ている羽根を
抜いて自由にして差し上げる