日々のあわあわ | 寺井奈緒美

#08

キイキイ

 深夜1時ごろ、Sが『ドラゴンクエストウォーク』という位置情報ゲームをしに公園に行くと言うのでついて行くことにした。途中、コンビニに寄って缶ビールとつまみを買う。公園に到着すると、仕事帰りらしき中年男性と初老の女性がそれぞれのベンチで思い思いの時間を過ごしていた。この頃すっかり昼夜逆転生活になっているので、皆が寝ている時間に行動している仲間がいるのを見るとなんだか安心する。

 ベンチに座り桜エビ味のさつま揚げを食べていると、20代くらいの髪の長い女性がやって来た。3つあるベンチは満席だ。どうするのかなと思っていると、我々が座っているベンチのすぐ横にあるブランコに腰掛けてキイキイと漕ぎ出した。酔っ払いという風ではない。しっかり足を前後に動かす漕ぎ方を見ると、ブランコ自体が目的で公園にやってきたのかもしれない。

 ふと『ちひろさん』という映画で、主人公のちひろさんが一人でブランコを漕ぐシーンを思い出した。大人がブランコを漕ぐシーンといえば会社で嫌なことがあった時、人間関係がうまくいかない時など、心の揺れとブランコの揺れを重ねる演出が定番だ。しかし『ちひろさん』の中でブランコは「自由」の象徴のように映っていた。ちひろさんは春風のような人だ。しなやかで掴みどころがなく、自分軸で生きている。ブランコも、ただ気持ちが良いから漕ぐ。もっと心地よさを重視して生きていけばいいんだと背中を押されたシーンだった。

 隣でブランコを漕ぐ女性は今、何を思っているのだろうか。じろじろ見るのも失礼なので、目の端で気配を感じるだけだ。ヤケクソなのかご機嫌なのか彼女の感情をうかがい知ることはできないけれど、キイキイとブランコのリズムは安定していて迷いがない。どちらにせよ自分のためにブランコを漕ぐということは自分軸で生きている人の証なのだと思う。一方私は、とても自分軸で生きているとはいえない。今だってこうして周りばかり気にしている。ちひろさんだったら、夜風を感じながらビールとさつま揚げを全力で味わっていることだろう。私も自分軸で生きられるようになりたい。ちひろさんだったら、と考えている時点で矛盾しているのだが。

 ふと、このブランコの音、近隣住民に聞こえているのではないかと気になった。キイ、キイ。少しずつブランコの勢いが増し揺れ幅が大きくなっている気がする。こんな時間だ、うるさいと怒鳴られてもおかしくない。Sに「食べ終わったし、そろそろ帰る?」と尋ねると、「あとちょっと」と言う。Sが食べかけのイカフライを差し出してきたので、ポリポリと食べる。しかし、まったくイカフライの味に集中できない。じつはその時、ある考えが頭の中を支配していた。

 もしかしてブランコの女性が見えているのって私だけなのでは?

 彼女がブランコを漕ぎ始めてから15分以上が経過している。さすがにちひろさんでも、15分も一心不乱にブランコを漕ぐだろうか? 子どもならともかく三半規管がやられて酔いそうだ。視線をSの携帯のゲーム画面に固定する。ピカピカと激しいバトルが繰り広げられている。もしブランコのある左側を向いて、女性がこちらをまっすぐ見て笑っていたらどうしよう。「かーわって♪」という恐ろしい声が響いた瞬間、もう私は真っ暗闇の中でブランコに乗っていて、二度と降りることができないのだ。

 いけない、ホラー映画の見過ぎである。また既存の物語の型に他人をはめ込もうとしていた。彼女は彼女の時間を過ごしているだけなのに。もっと自分軸を意識して、余計な物語が入り込まないよう境界線を引かなくては。しかし、自分の軸なんて一体どこにあるのだろうか? 軸はブランコのように近づいたり遠ざかったりして掴むことができず、自分を乗りこなすための座面など用意されていない、そんな気がした。

 その後ゲームのキリがついたSを急かして、決して左側は見ないようサッとゴミをまとめて公園を出た。恐る恐る「ブランコの女の人、ずーっと漕いでたよね?」と聞くと、Sも自分にしか見えていないのでは? と一瞬よぎり確認すると、手元には携帯画面が見えたらしい。「イヤホンでラジオか音楽でも聴いてたんじゃない? それか、ブランコで体幹トレーニングしてたのかも」というSの言葉を聞いて心底ホッとした。実際のところは何も分からないけれど、彼女が存在していればそれで十分なのだ。振り返ると、夜のとばりにキイキイという音が響き続けていた。

 

優しくてさみしい人が優しくて
さみしいままでいられる場所を

2025年07月10日