欠片かけらを探して
―――  日本映画の陋巷ろうこう

荻野洋一
Ogino Yoichi

連載開始の辞

 日本映画時評を始めます。尊敬する山根貞男さんへのオマージュとしてという心情がないと言ったら嘘になりますが、まさか衣鉢を継ごうなどという大それた野心はありません。初めての単著である映画評論集『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ』を昨年の夏に刊行してくれたリトルモアが、懲りずにこのように連載依頼を筆者に持ってきたという事実に、私は多大なる幸福を噛み締めています。

 日本映画を、それも豊饒なる歴史を誇る旧作邦画ではなく、現代日本映画の新作をつぶさに眺め、論じていくことは、グローバル化し、サブスクリプション化した世界の映画シーンにあっては、やや荷が重い事業のように思えます。噂によれば、「キネマ旬報」の星取りクロスレビューも、依頼された評者たちはこぞって日本映画の担当となることを回避しようと画策するそうです。

 だからこそ、このたびの連載依頼に対して、不毛かもしれない役回りをみずから引き受けることを提案してみようと思い立ったところ、リトルモアはその場で提案を快諾してくれました。本連載には「日本映画の陋巷へ」という副題が添えられていますが、陋巷とは、作品製作の当事者の皆様にはいささか失礼な単語かもしれません。本連載が必ずしも筆者の支持する監督の作品や、すでに国内外で高い評価を得ている「作家の映画」のみを対象とするのではなく、できるだけ大衆娯楽映画のかたわらに滞在してみようという気負いが、陋巷という語を呼び寄せたのだ、というほどの意味で解釈していただければと思います。連綿たる山脈の豊饒をこの身に真に刻みつけるには、山の頂上と頂上を結ぶような渡り方では、はなはだ不十分だと考えるからです。

 山脈のけもの道を一歩一歩踏破していった先には、いかなる景色が眼前に広がっているでしょうか。ただただ不毛な未来が口を開けているだけなのか。それとも春風駘蕩たる空き地がぽっかりとひらけて、評者を、そして読者をある実りへと送り届けてくれるのか。ルイス・ブニュエル監督のメキシコ映画『この庭に死す』(1956)における密林彷徨の一行のように、山師もいれば僧侶もいる、娼婦もいる、現地人もいるあの一行のように、一緒に歩いてくださる方々を募集します。

荻野洋一