欠片かけらを探して
―――  日本映画の陋巷ろうこう

荻野洋一
Ogino Yoichi

鳴り止まぬ床下のリバーブに捧ぐ

海から、池へ

『BAUS 映画から船出した映画館』は、文字どおり船出についての映画である。しかし1時間56分という上映時間のうち画面上には、水上を滑る船は一艘たりとも見当たらないし、誰ひとりとして乗船しようとしない。それどころか、この映画の登場人物たちは揃いも揃って、船舶はおろか、列車、バス、乗用車と、あらゆる乗り物に乗り込もうとしないのである。この映画はある老人の回想録という形式をとっているけれども、かろうじてこの老人が自転車を漕ぐ素振りだけは見せる。しかしその車輪が軽やかに地上を滑走することはなく、ただその場で無為に空転するのみである。

 示し合わせたかのごとくここまで徹底して乗り物への搭乗を忌避するならば、意識的/無意識的を問わず、登場人物たちにとってあらゆる乗り物がまがまがしいものとして捉えられていることはまちがいない。それは序盤のシークエンスからも明らかである。物語は1927年の青森から始まる。サネオ(染谷将太)とその兄ハジメ(峯田和伸)の本田兄弟は漁師の家に生まれたが、サネオは衰退の一途をたどるニシン漁に見切りをつけて蟹工船に乗り込もうとし、サネオの計画を知ったハジメは猛反対する。「死ぬほどつれえ目に遭うぞ。蟹工船さ乗ったら帰ってこれねえ」。映画のオープニングからいきなり、兄が弟の乗船を制止する事態を目の当たりにした観客が、作品全体が乗り物忌避によって逆説的に動力を獲得していくことを確信するのは、もっと後のことになる。

 兄弟による蟹工船論議から始まり、映画の後半では母と娘たちが銀座に行って寿司を食べようと相談しあうものの、彼女たちが銀座に向かうために中央線や銀座線に乗り込むことはなく、吉祥寺発展の一翼を担った中島飛行機(現SUBARUの前身)の軍需工場からは一機たりとも戦闘機が離陸したりしない。その代わりに上空ではツェッペリン型飛行船が大地に巨大な影を作るのみである。物語の終盤でバウスタウンの意味を幼い娘から尋ねられた父親が、「お父さん、昔ヨットに乗っていたんだ」と口を開き、ヨットの船首をバウ(bow)、船尾をスターン(stern)と呼ぶのだと解説し、次のように結論づける。

「つなげてbow-stern(バウスターン)。船だけじゃなくて、街みたいにしたかったんだ。バウスタゥン。townは街だね」

 私事で恐縮であるが、1984年に吉祥寺サンロードの最奥にバウスシアターがオープンしたとき、10代だった筆者はこの劇場名がバウハウスを短縮したものだと解釈していた。ドイツの芸術学校でもあるだろうし、それ以上に劇場の性格から言って4ADレーベルからデビューしたイギリスのポストパンクバンド「バウハウス」との親近性を勝手に想像していたのである。文献を紐解けば、上述のネーミング理由はすぐにわかりそうなものだが、劇場が消滅して10年、ようやくここへきて語源を知らされたことになる。BAUS TOWNとはbow-sternのことだと明かす老いた父親とは、青森から上京して吉祥寺に住み着いたサネオの次男、拓夫(鈴木慶一)のことであり、彼こそ、早くに他界した兄の耕一とともにバウスタウンを創設した張本人である。耕一&拓夫の2代目本田兄弟は、映画だけでなく落語、演劇、コンサートなどあらゆるものが生起する場として、一族にとって3軒目の劇場、バウスシアターを建てたのである。

 閑話休題。本稿の文脈に戻らなければならない。バウスタウンがヨットの船体に見立てられた空間であったこと、そこには多種多様なヒト、モノが寄り集まる「街」でもあることが強調されている。船/街としての劇場。乗り物の現前を回避しながらも、劇場それじたいが船体となり、また動力発生源ともなったのだ。音が駆け回る空洞として、闇を切り裂く光線として、肥大化する妄想の煙夢として、あるいは音盤としての船体。『BAUS 映画から船出した映画館』を見に行く観客の誰もがバウスシアター30年史の華麗なるグラフィティを期待するはずだが、じっさいの作品はまったくそうなってはおらず、むしろその前史に多大な尺が割かれ、その指向性はもっぱら、未だ形成されてすらいない後日譚(作品内での用語にしたがうなら「明日」)に向けられている。

わが人生の幽霊たち

 最初に登場する青森の活動写真館では、サイレント映画『カリガリ博士』(1919)が上映されており、ピアノ伴奏、弁士のセリフ、サネオとハジメの兄弟げんかが拮抗するノイズとして演じられる。劇場空間はあらゆる多様な音源が並列的に許される場となる。続いて井之頭會舘、M.E.G.(ムサシノ映画劇場)、バウスシアターと船体は移動・分裂していきながら、戦前・戦中・戦後と激動の日本近代を曳航していく。曳航されるのは複数の声、並列の音源であり、凝固しない不定形なヒト、モノである。

 また、劇場は水を欠いた船である。水はむしろ想像にゆだねられていると言うべきか。水の現前が異様なまでに警戒されている。アバンタイトルで青森の荒波がワンカット写されたと思うと、サネオが乗ろうとした蟹工船はあっという間に忘却され、気づくと兄弟は北多摩郡武蔵野町の水周りを遁走している。現在の武蔵野市、井の頭池のあたりである。汽車による旅路はあっさり省略され、青森の劇場出口と井の頭池が直結している。やはり、乗り物の忌避である。彼らの行動半径は井の頭池の至近に限定され、いつでも池がそこにある。にもかかわらず、登場人物たちは池を非常に危なっかしいものとして取り扱う。サネオ、ハジメ、サネオの妻ハマ、そして物語の語り手である本田拓夫のいずれもが、池を前にして神妙な面持ちを崩さない。あたかもそこが冥界の入り口であることを熟知していたかのごとく。重要な登場人物の死が池との物質的なかかわりとともに示唆されるとき、船体(=劇場)と水とがじつのところきわめて相性の悪いもの同士であることがつまびらかとなったのである。

 詳述を避けなければならないが、ラスト近く、クライマックスにおいて、本田拓夫とある人物が池を挟んで対岸を並行して歩く感動的なカットバックにおいて、池は死そのものとしてある。紐を引っ張ると天蓋が萎みゆくヨットの帆と化し、おでん屋の屋台は夜の海にたゆたう浮標(ブイ)と化し、舞台の下、いわゆる奈落に防空壕を掘るサネオがやがて到達する坑道は、回避したはずの蟹工船の船底と化しているのかもしれない。水は手を伸ばせばすぐそこにあり、死の世界に直結する。「床下のリバーブ」――この映画のプロデューサーを務めた批評家・樋口泰人がかつて「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌に寄稿したニール・ヤング論のタイトルである。劇場の奈落も、池も、ヒトの内耳も、冥界と繋がっている。その時空間を貫通する響きわたりこそ、床下のリバーブにほかならない。

 この映画の初稿脚本を書いた青山真治が2022年3月21日に死去したとき、彼はロケハン準備中だった。青山真治の新作だったかもしれないこの映画が、多摩美術大学の彼の生徒だった甫木元空によって完成を見た今、私たち観客はスクリーンのすべての視覚、すべての聴覚に青山からの、いやあらゆるモノ、ヒトからの「床下のリバーブ」が反響していることを実感するだろう。サネオの妻ハマ(夏帆)とその母親(とよた真帆)を中心に、興行がはねたあとの夜毎のM.E.G.(ムサシノ映画劇場)ロビーで従業員やその家族も含む擬似的な大家族が形成された光景は、あたかも青山真治監督『サッド ヴァケイション』(2007)における「間宮運送」の女系氏族的な擬似共同体の様相を呈している。

 青森の活動写真館から始まるこの映画において、劇場空間が船の変態であることはここまで繰り返し述べてきた。本稿もとりあえずの結論に向かうとする。サイレント映画におけるピアノ伴奏、弁士、兄弟げんかが並列的に響いたように、1920年代の井之頭會舘で、マリネッティにかぶれて次第に右傾化した兄のハジメが未来派のノイズパフォーマンスを披露したように、そして戦後は擬似的大家族が形成されつつ、そこで奏でられる叙情的なフォークソングが死者への鎮魂として響いたように、劇場とは単に船であるばかりでなく、それじたいとして巨大楽器としてあったのではないか。

 無定形にモノとヒトをおびき寄せつつ「床下のリバーブ」をポリフォニックに響かせる巨大なる管楽器として、その時代時代にノイズを発生させてきたのである。そしてステージが消えても、床が消えても、床下のリバーブ、その残響はいつまでも、どこまでも波及する。それは鳴り止むことがないのである。井の頭池のほとりで休んでいる語り手・拓夫の耳元で、若くして逝った愛娘・英恵(橋本愛)のヴォイスオフの囁きが聞こえてくる。「きょう、雨が降るらしいよ。傘、持ってる?」

 井の頭池に雨の気配はまだ微塵も感じられない。しかし、拓夫と英恵の内耳空間にはすでにやむことなき雨が降り注いでおり、かすかに雷鳴さえ聞こえてくる。劇場が楽器と化し、内耳が楽器と化し、そして今、私たちは胸中に降り注ぐ雨粒に導かれて、みずからの身体さえもが楽器と化したことを、ここに観念するのである。

『BAUS 映画から船出した映画館』

2025年3月21日(金)より
テアトル新宿他全国ロードショー
監督:甫木元空
脚本:青山真治 甫木元空
音楽:大友良英
エグゼクティブ・プロデューサー:本田拓夫 
プロデューサー:樋口泰人 仙頭武則 関友彦 鈴木徳至
出演:染谷将太 峯田和伸 夏帆 
とよた真帆 光石研 橋本愛 鈴木慶一 他
©本田プロモーションBAUS/boid

今月のThe Best

淡水魚愛

 埼玉県のベッドタウンに転居してちょうど3ヶ月が過ぎた。同県は海のない内陸県である。だからと言って流通網が発達した今日、海鮮の味覚に事欠くわけではない。しかし、東京下町のどぜうを愛でるいっぽう、関西に旅すれば、京割烹ですっぽん、琵琶湖産のふなずしを食わずに帰ることなどできない筆者は、いわゆる淡水魚の愛好家ということになるのだろうか。世の食通たちに比べれば大した愛好ぶりでもなかろうが、昨夏に栃木県の中禅寺湖を訪れた際も、昼夕二食ともニジマスのソテーだとしてなんら苦を感じない筆者である。浅草橋のフレンチレストラン「ジョンティ」でいただいた雷魚も忘れがたい。
 この3月中旬、思い立って埼玉県志木市の川魚料理店「鯉清(こいせい)」を初訪問した。庭を持つ立派な店内で周囲のテーブルを見渡すと、十中八九の客がうなぎの重箱を頬ばっているようだ。宿場町だった浦和や城下町だった川越など、この近隣には江戸時代初期からうなぎを名物料理とする街が存在することだし、ここではあえてうな重はやめておき、店名にちなんで鯉のあらいと鯉こく、さらに、なまずの天ぷらも注文した。
 鯉、なまずというと、東京深川・高ばしの名店「伊せ㐂(いせき)」を思い出す。日本橋中洲に住んでいたころ、清洲橋を渡った対岸の「伊せ㐂」にはよく通った。鈴木清順監督をはじめ、荒戸源次郎事務所の関係者も「伊せ㐂」を愛用したと聞いたことがある。じっさい筆者も、女性たちに囲まれてどぜうの丸鍋を静かに楽しむ清順監督と隣テーブルどうしになったことがある。筆者の背後を通り過ぎる際に呼吸器ボンベを転がしつつ「ごめんなさいよ」と小気味よくことわる清順監督の声が、今でもわが内耳に響き続ける。東日本大震災による臨時休業をきっかけに、後継者不足を理由にそのまま124年の歴史に終止符を打ってしまった。
「鯉清」の鯉となまずは、「伊せ㐂」への思慕を忘れさせてくれるほどの美味だった。鯉こくの肉厚な鯉の胴体の輪切り、ほろほろと崩れゆく大骨、5年間熟成の赤味噌のコク。鱗でさえもほろほろと口当たりが良い。次回はぜひ、すっぽん、いわな、わかさぎも注文したいし、夏場ならあゆを何匹もやっつけてみたい。最寄りの駅に着いてからさらにバスで揺られること10分強。武蔵野のこんな片田舎に明治11(1878)年創業の名店がぽつんと屹立していることの痛快さ。淡水魚を楽しむのは江戸文化の残照であり、舟運で栄えた往時の荒川流域のなごりを濃厚に感じさせる気風である。
 埼玉県の淡水魚というと、もう一軒忘れがたい名店がある。吉川市の、中川と元荒川が合流するほとりに建つ天保8(1837)年創業の料亭「福寿家(ふくじゅや)」。なまずのたたき、うなぎ雑炊がすばらしかった。ただしここを訪れたのは数年前、若くして病死した仕事仲間Y君のお別れの会の席であった。「うまい、うまい」とうれしそうな顔をするわけにはいかない。しかしながら、亡き息子を弔う大勢の客を迎えるにあたり、三郷市在住のご両親が「福寿家」を会場に選んだその心持ちを推し量りつつ、末長く記憶に留めておこうと思う味わいであった。