“位牌ば、持っていこうて思うて”
坂の街、長崎。細長い形状の港湾を囲みこんで斜面が切り立ち、日照りの時は陽光が夕刻過ぎまでいつまでもはげしく照りつけ、かと思うと、突然に夜になる。雨の時は大量の水が斜面をとめどなく滑り落ちていく。原作となったのは、演劇カンパニー「マレビトの会」の主宰・松田正隆の戯曲『夏の砂の上』。その最後の2行——
セミ時雨が止む。
一瞬にして闇。
そのたった2行前のト書きにはまだ「セミ時雨が湧きあがり、陽光が家中に容赦なく降りそそぐ。」と書かれていたというのに。容赦なく降りそそいでいたはずの陽光が、あっというまにどこかへ退散して、夜の帳が下りる。「一瞬にして闇」。これは誰の身にも、たとえば、さっきまでひっきりなしに夏虫が鳴いていたはずなのに、気づくとあたりは異様な静けさに覆われて、心なしかぞっとした、というような経験を持っているにちがいない。月永雄太の撮影になる『夏の砂の上』で写された長崎には、そんな経験を拡大鏡で覗きこんだかのような、光の、陽炎の、空気の通り道の、急変ぶりがあざやかにとらえられている。
映画『夏の砂の上』のファーストシーンは、真夜中のどしゃぶりから始まる。人間がひとりとして写りこんでいない数ショット。激しい雨が港に、平和祈念像に、階段坂に、家々の軒に叩きつけ、夥しい量の水が激流となって浦上川へと、長崎湾へと滑降していく。かと思うと翌日には日照りに変貌し、陽炎を立ち昇らせ、人の呼吸を渇かせる。
ドブに吸い殻を捨てる男——主人公・小浦治(オダギリジョー)は、坂の途中にへばりつくように建つ一軒家に住む。勤めていた造船所の下請け工場が倒産したのに、職探しもせずにぶらぶらしている。妻の恵子(松たか子)はとっくに出て行った。坂の下のスーパーで海苔弁当を買って帰ってくると、恵子がいつのまにか家に上がりこんでいる。水難事故により4歳で亡くなった一人息子・明雄の位牌を奪いにきたのだ。
「位牌ば、持っていこうて思うて」
「え?」
「位牌。明雄の」
「なんで?」
「もうすぐ命日やけん」
「よか。置いていけ」
位牌を持ち去る妻と入れ替わるようなタイミングで、妹・阿佐子(満島ひかり)が東京から帰ってきて、博多で男性と同棲するために、一人娘の優子(髙石あかり)を押し付けるように置いていく。子も妻も職も失って無為をむさぼる伯父と、高校にも通わせてもらえずにネグレクトされた姪の共同生活が始まる。これ以降、この映画は、人間の空洞をつぶさに見つめることになるだろう。周囲との人間関係に問題を抱える優子に対して、「無理せんでよかよ。誰とでも仲良うする必要なか。気に入らんやつとは、口ばきいても楽しくなかばい」と語り、「おいはそうしてきた」と言い足す治に、優子は「そんなんだから、おばちゃんに逃げられちゃったんじゃないの?」と図星なことを答えて、「やかましか」とたがいに苦笑する。空洞には空洞を。乾いた大地に、ひとすじでも水脈を。たとえそれがかりそめでも。
またもや年配男性による若年女性と交わされる気色悪い幻想譚が始まったか!——そう吐き捨てることもできる。松田正隆の戯曲にはたしかにその匂いが濃厚にある。ただし、映画におけるオダギリジョーの演技はその匂いを消し去る。映画の後半で、こんな家はさっさと捨て去って、一緒にどこかに行ってしまおうと提案する優子に対して、治はあえての擬態として、一人息子を死なせた喪失感だの、妻がたったいま若い恋人と共に出奔した絶望感だのを動員し、激して見せて、部屋中の家具をひっくり返す。
“お位牌、明雄の、置いていくけん”
年配男性と若年女性がかわす心理的交感を幻想的に写した映画作品を、じつはオダギリジョーは自身の監督作品としてすでに持っているのだ。『ある船頭の話』(2019)。明治期の新潟県・阿賀野川を舞台に、老いた船頭(柄本明)が上流から流されてきた謎の少女(川島鈴遥)の命を救う物語だった。『夏の砂の上』が長崎の斜面の映画であるように、『ある船頭の話』もまた、阿賀野川の両岸にそびえる斜面の映画だった。柄本明の視線はもっぱら客を乗せた渡し舟を向こう岸に到着させる視線——つまり川の流れに対して直角の視線を維持してきたはずなのに、少女の出現によってその視線が狂わされ、ディアゴナル(斜め)な視線がはからずも導入されていくさまが、クリストファー・ドイルの撮影をもって、純粋な視線劇として構築されていた。
『夏の砂の上』において姪の優子を演じた髙石あかりのかもすコケットリーは、この作品の最大の魅力のひとつであることは否定のしようもない。『ベイビーわるきゅーれ』(2021-24)のヒロインは、本作においては沈黙の饒舌を、静観の情動を、十二分に表現しうる演じ手としてここにいるからである。しかし同時に、本作は幻想と浪漫をどこまでも拒絶する形をとる。出て行った妻が、亡き一人息子の位牌を持ち去ったその代替として、ハイティーンの姪が家に住み着いた。ところがやがて、妻の恵子が位牌を返却するシーンもやってくる。
明雄の位牌はひと夏ののちに、元にあった仏壇に戻ってくる。位牌を仏壇に戻してから静かに拝む松たか子の演技は、これまで夫の薄情を恨んできた自分が今こそ酷薄なる裏切り者となることをみずから認める、冷めた決意のもとになされている。
「お位牌、明雄の。置いていくけん。そいじゃあ」
若い恋人とともに長崎を去ろうとしている恵子もまた心の真ん中に巨大な空洞を抱えているが、治の空洞とは行き着く先がいちじるしく異なる。恵子は伯父と暮らすことを強いられた優子に同情して、次のように言う。「ごめんね、優子ちゃん。こんなとこじゃ、居心地悪かやろ? お母さん、迎えに来るまでの辛抱やけんね」。優子は何も答えない。なぜなら彼女にとってこの家の居心地がまったく悪くないからである。いや、ある程度は「うざい」だろうが、そもそもこの十代女性がこれまで「居心地」などという概念を持ちえたことなどあったのだろうか? と、私たち観客は考えあぐねてしまう。
彼女がこの家に預けられて、アルバイト先のスーパーから帰宅した最初の日、彼女は玄関の天井に黒ずんだ液体の染みを発見する。このカットはのちに一度として振り返られることもないが、観客の誰もが、水難事故に遭った4歳の明雄がこの家の2階に急いで運びこまれ、必死の蘇生措置もむなしく臨終した際の、消えることなき悔悟の染みであることを推測しうるだろう。優子はいま、その2階の子ども部屋に滞在し、部屋の匂いを嗅ぎ、窓から明雄が眺めただろう長崎港の風景を眺め、5歳の誕生日にむけて購入されたのに一度も使用されることのなかった天体望遠鏡を使おうとする。
「ピカーッって光って、全部消えてしまったんでしょう、この街」
アルバイト先で知り合った大学生・立山(高橋文哉)と戯れあいながら、優子は言う。人類最大級の喪失。そして一人息子を亡くした伯父の喪失。そして空洞としての自分。優子は、この街の坂を登ったり下りたりしながら、喪失の尺度を見定める視線を獲得していく。無邪気に優子への恋心を表明する立山に、彼女は言う。
「私なんて、いついなくなるか分かんないよ」
存在は儚く消える。すべての事柄は「夏の砂の上」にある。じりじりと焦がされていたかと思うと、波にさらわれるだけ。4歳児はあっさりこの世を去り、夫婦の関係はあっさりと終わり、ついこのあいだ一緒に飲んだくれた元同僚もあっさりと死んだ。蟬の声は突然聞こえなくなり、強烈な陽光はあっというまに猛烈などしゃぶりに早変わりする。ぎらぎらと照りつけた太陽はあっというまに斜面の裏側へと隠れ、「一瞬にして闇」。なにもかにもが、一炊の夢であり、煉獄の時間である。いろいろなものが訪ねてきて、ひとたび滞在し、また辞去していく。坂の途中にへばりつくように建つこの一軒家も、その2階でかつて流された悲しみの涙も、遅かれ早かれ、跡形もなく雲散霧消する。
それでも、きょうもまた、坂下のスーパーで弁当を買って、坂の途中の窓口でタバコを買って、うねうねと続く狭く急な坂道を上がる。そんな治にむけて、筆者は象徴派詩人アンリ・ドゥ・レニエ(1864-1936)の次の詩を捧げよう。
まことの賢者は
砂上に城を築く
いっさいが
永遠の前には
無駄であると知りながら
愛さえも
風の吐息
空の色よりも
儚いと知りながら
なおも城を築く
汗だくの治は坂の途中でふと後ろに振り返り、痛烈な太陽光線を手で遮りながら背後に広がる風景を見つめる。カメラはわずかに微笑むオダギリジョーをアップでとらえるのみで、切り返すことはない。だから私たち観客には示されることはないけれども、主人公の眼下にはきっと、すべての風景、すべての記憶、すべての感情が、パノラミックに広がっているにちがいない。

『夏の砂の上』
7月4日(金)全国公開
©︎2025 映画『夏の砂の上』製作委員会
監督・脚本:玉田真也
原作:松田正隆(戯曲「夏の砂の上」)
音楽:原摩利彦
出演:オダギリジョー 髙石あかり
松たか子
森山直太朗 高橋文哉 篠原ゆき子 /
満島ひかり/ 光石研
配給:アスミック・エース
今月のThe Best
長崎追想
加齢とともにその機会もすっかりなくなったが、私ごときでも若い頃は批評家として、またある時期までは若手映画作家としても、各地によばれて登壇する機会をそれなりに持った。訪問地はなぜか京都、大阪、高知、佐賀等ともっぱら西日本に偏っていた。
1990年代中葉のある秋の日、長崎市を訪問した。当地の上映団体から雑誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」に対してイベント企画の誘いが来て、カイエの代表として梅本洋一(故人、当時は編集長)と私が空路で到着した午後、長崎放送のホールで『美しき諍い女』(1991)が上映されて、そのあとはジャック・リヴェット監督をめぐるトークを私たち2人でおこなった。長崎放送のホールは音響が良好だった。上映中の場内を少し覗いてみたら、クレジットタイトルでかかるストラヴィンスキーのバレエ音楽『アゴン』があざやかに鳴り響いていた。あのクレジットタイトルはいまでも、映画史の中で最も好きなもののひとつである。
4時間作品そしてトークショーという長丁場イベントであったにもかかわらず、夜は主催団体のみなさんが市内の素敵なイタリアンレストランで打ち上げを催してくださり、シネフィルカルチャー華やかな時代の熱い一日を過ごした。まだ30歳そこそこでしかなかったこの青二才にも、たくさんの長崎男女が映画論をぶつけてくださった。しかしながら、夜遅くにホテルへ戻った梅本洋一と私は、じつに恩知らずな会話を廊下でかわしてから、たがいの部屋に入ったのである。いわく「長崎まで来てイタめし(当時の表現)もいいけどさ、やっぱり長崎ならではの味覚を楽しみたいよね」。ただし、えらそうなことを言ってはいても、2人ともこの地の食文化に明るいわけではない。
翌朝、私たちは平和公園、大浦天主堂、グラバー邸など、お決まりのコースを回ったあと、最高のランチを求めて中華街から浜の町、眼鏡橋とあてどなく歩き回ってみた。「せっかくなら、ちゃんぽんとかトルコライスとかそういうカジュアルな名物じゃなくてさ、卓袱料理とかがいいよね」。卓袱料理とは鎖国時代、出島に住む清国人、オランダ人、日本人がたがいの自国料理をテーブルに持ち寄ってもてなしあい、独特な三位一体の饗応プロトコルが長崎で創始され、それが京大阪、江戸でもブームとなったものである。
しかし書店で立ち読みしたガイドブックには、卓袱料理は「一力」「花月」といった老舗料亭に予約した人間だけがありつけるものだと書かれている。それでも思案橋の「浜勝」という卓袱料理店には予約なしで入ることができ、コースで楽しんだ。最初のお吸い物のようなスープ料理、そして東坡肉みたいな豚の角煮がおいしかった。三位一体の中では、中華料理のDNAが勝っている印象がある。勝手な推測にすぎないが、長崎ちゃんぽんとは、そんなDNAのスピンオフだったのではないか。前夜のイタリアンでワインを飲み過ぎたカラダにもかかわらず、ここでもワインで乾杯し、満腹を抱えて夕刻の長崎空港に向かった。
離陸前の機内で、私はわけのわからない恐怖にかられ始めた。気が小さいせいか、元来、飛行機が好きではない。すると、梅本洋一が前方席の背もたれにおでこをつけてニヤリと微笑み、「この飛行機、たぶん墜ちるよ」と言う。「僕もさっきからそう思っていました」。梅本の理論によれば、旅客機の信頼性はF1における表彰台シャンパンファイトの回数に比例するのだという。だとするならフランス、イタリア、ブラジル、イングランド以外の航空会社は信頼できないことになるのか? 2人の馬鹿げた心配をよそに、ANA機はなにごともなく長崎から離陸し、なにごともなく羽田に着陸した。
梅本洋一と私は、パリで、長崎で、東京で、横浜で、湘南鎌倉で、数えきれないほどたくさんの2人会食を交わした。わが2人会食ごのみは、そんな思い出から始まったものだろう。2013年に梅本が急逝したあとも、さまざまな気心の合う人たちとの2人会食を享受する歳月が続いたが、2020年からのパンデミック、さらには2024年暮れの私の郊外転居もきっかけとなって、2人会食の機会が激減、いや、皆無に近い状態となった。また復活できればいいのだけれど。
