伝説の写真家、中平卓馬


70年代初頭、先鋭的な言葉と写真で、既存の写真表現を否定し、撮影行為そのものを問い続け、時代を挑発し続けた伝説の写 真家、中平卓馬。 中平卓馬は、雑誌「現代の眼」編集者時代に写真家へと転向し、その後1968年に森山大道、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦らとともに、写 真同人誌『プロヴォ−ク』(挑発する、の意)を立ち上げた。その中でアレ、ブレ、ボケを特徴とした、新しい写 真表現を提唱し、同時代の表現者たちの中でも異質の輝きを放っていた。しかしその活動は、写 真評論『まずたしからしさの世界をすてろ』の刊行を最後に4刊目で解散となる。その後、自らの表現をもすでに制度であるとし、いっさいを否定した中平は、それまでの作品のネガとプリントのほとんどを海辺で焼却する。

「われわれが生きるたったひとつの生は、<世界>と<私>との間にぴんとはりめぐらされた一本の線をけっしてゆるめることなく、そのテンションそのものを生きること」

世界は決定的にあるがままの世界であること、そしてその<世界>と<私>との関係を疑い、乗り越え、新たなる自己を確立し、そこではじめて生まれる言葉が、世界を語ることのできる唯一の方法だとした中平卓馬。
写真評論『なぜ植物図鑑か』、篠山紀信との共薯『決闘写真論』を経た、1977年9月11日未明、多量 のアルコールにより昏睡状態に陥る。

しばらくして意識を回復した中平は、その記憶のほとんどを喪失していた。

その後、療養を兼ねた家族との沖縄旅行を機に、ふたたび写真を撮りはじめた中平は、83年、写 真集『新たなる凝視』を刊行する。そして昨年横浜美術館にて初の本格的な写真展「原点復帰−横浜」が開催された。その視線はまさに、もう一度<世界>との関係を探りはじめた、ひとりの写 真家の闘いそのものであった。




<中平卓馬(なかひらたくま)プロフィール>

写真家、写真評論家。1938年生まれ。1963年、東京外国語大学スペイン科卒業。同年、新左翼系の総合雑誌「現代の眼」編集部に入社。2年後、退社と共に写 真家へ転向。東松照明、寺山修司などと親交を深める。

1968年 多木浩二、高梨豊、岡田隆彦、森山大道らと共に、写真同人誌「プロヴォーク」創刊。
1970年 「プロヴォーク」解散。写真評論『まずたしからしさの世界をすてろ』(田畑書店)刊行。初の写 真集「来るべき言葉のために」(風土社)刊行。
1971年 「第7回パリ青年ビエンナーレ」に<サーキュレーション−日付、場所、イベント>という名のプロジェクトで参加。
1973年 写真評論『なぜ、植物図鑑か』(晶文社)刊行。自宅近くの海岸でそれまでのネガのほとんどを焼却する。松永優裁判の公判に参加する為、はじめて沖縄を訪れる。
1977年 取材で中上健次と共にスペイン、モロッコを旅行。篠山紀信との共薯『決闘写 真論』(朝日新聞社)刊行。9月10日自宅にて美術家ピエール=アラン・ユベールの送別 会を開く。翌11日未明、酔いつぶれて昏睡状態に陥り、意識回復後、記憶の大半を失っていた。退院して、横浜の実家に戻る。
1978年療養を兼ねて家族と共に沖縄へ旅行。それを機にふたたび写真を撮りはじめる。
1983年 写真集「新たなる凝視」(晶文社)刊行。 1989年 写真集「Adieu a X」(河出書房新社)刊行。
1999年 写真集「日本の写真家36 中平卓馬」(岩波書店)刊行。
2001年 写真評論集『中平卓馬の写真論』(<リキエスタ>の会)刊行。雑誌「スタジオボイス」3月号より、ホンマタカシのエッセイと中平卓馬の写 真による連載「きわめてよいふうけい」開始。
2002年 写真集「hysteric Six NAKAHIRA Takuma」(Hysteric Glamour)刊行。沖縄での東松照明写 真展「沖縄マンダラ」の記念シンポジウムに、東松照明、森山大道、荒木経惟、港千尋と共に出席。
2003年 横浜美術館で初の本格的な個展「中平卓馬展 原点復帰−横浜」を開催。



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