UNCHAIN SOUND TRACK
songs by SOUL FLOWER UNION


発売中!!
映画『アンチェイン』のサウンドトラック(3曲)に2曲の追悼カバー(どんと、カーティス・メイフィールド)をカップリングした、ソウル・フラワー・ユニオン1年半振りのスタジオ新録作!

【TRACK LIST】
1.ピープル・ゲット・レディ
2.アンチェインのテーマ〜入院ヴァージョン
3.トンネルぬけて
4.アンチェインのテーマ〜退院ヴァージョン
5.アンチェイン・マイ・ハート
*シークレット・トラックあり

■初回プレス分のみ特製ジャケット
■ライナーノーツ:豊田利晃
発売元:株式会社ポリスター/株式会社プライエイド・レコーズ
PSCR-5903
¥1,800(Tax incl.)

ソウル・フラワー・ユニオン
オフィシャル・サイトはこちら


ライナーノーツより




















































撮影:大森克己
1999年12月。12月25日のガルーダ・テツの試合で映画『アンチェ イン』の4年越しの撮影を終了し、仕上げに向かう。音楽は誰にするか? ミュージシャン探しが始まる。映画は脚本とキャスティング、スタッフィングで決まる。集まってくる者で、誰が集まるかで化学反応が違う。奇跡が起こるような奴らを集めること。それが、いい映画を作る唯一の術。映画音楽は同時代の大阪を、そして釜ケ崎を知っている者で、年齢の近い奴に頼みたかった。そんなバンドがひとつだけいた。ソウル・フラワー・ユニオンだ。思いついた瞬間、閃きは確信に変わった。実際、奥野さんがアンチェイン梶の高校の先輩だったり、同じライブハウスに出てたり、共通 の知り合いがいたり、近鉄沿線仲間だったり、ローカルな共通点は多い。世の中は狭い。恐ろしいことに。2000年1月。予算のない映画にはつきもののバタバタの仕上げスケジュール。普通 の映画なら脚本があるのでシーンが想像でき、曲も書 けるが、この映画はドキュメンタリーなので編集してみないことには 何も見えない。今分かっていることは、エンドタイトルに『Unchain my heart』のカバーが流れ、劇中にオリジナル曲が必要だということ。打合せしようと、京都の中川さんの携帯に電話すると、「今、 TSUTAYAで『Unchain my heart』のCD探してんねん!」ミュージシャンもレンタルでCDを借りるんだと驚く。偏見かな。深夜、中川さんから、「京都のレンタル屋、5件くらい回ってやっと 見つけてきたで」と電話がかかる。「で、劇中はどんな曲がええの?」「ん〜、“安里屋ユンタ”とか“満月の夕”みたいなんかな」「分かった、ええもん作らしてもらいます。けど、制作費もうちょっと出えへんの?」「…すみません」電話を切って、なにげなく新聞を開いたら、ボ・ガンボスのどんと が死んだって記事が出ていた。
  2月後半、200時間撮影したテープを編集してなんとか6時間にまと めた。時間がないのでとりあえず見てもらうことにする。大阪のスタジオ、オメガ・サウンドでドラムを録音中のソウル・フラワーを訪ねる。このとき初めてデモ・テープを聞かせてもらった。オリジナルの『アンチェインのテーマ』は奥野さんの作曲。シンプルで悲しく、やさしいメロディ。映画が広がった気がした。帰りにミナミのロックバ ーでアンチェイン梶と飲んだ。梶はデモ・テープが気に入って、店のマスターに何度もかけてくれと頼んだ。隣りの席に座っていたのは元ニューエスト・モデルのドラマーだと後で知らされた。やっぱり世の中は狭い。翌日、東京へ帰ったぼくに大阪の父親から電話があった。「お母さんが危篤やから帰ってこい」編集作業をストップさせ、実家へ戻った。母親は癌で2年前から入退 院を繰り返していた。5日後に母親は死んだ。60歳だった。その3日後 に東京に戻り、日活撮影所の編集室に入った。7日後に『アンチェイン』の編集は終わった。その翌日、京都にあるソウル・フラワーのスタジオ"魂花神社"へ編集したビデオを持って音楽録りに突入する。畳6畳ほどのガソリン臭い魂花神社はメンバー4人揃うと満員。ぼくは入口 にパイプイスを置いてぼんやり眺めながら、あーだこーだ言ったり、 コンビニへ走ったりしてた。「とよだくん、ひょっとしてなんかええ休息になってへん?」と中川さんに見すかされてしまう。「退屈やろうから、寝ててええで」とメンバーは気をつかってくれ るが、非常に刺激的な体験だった。ぼくのソウル・フラワーのイメージは一発録りでバーンと決め、夜はみんなで飲みにいくぜ! ってノリだと思っていたのだが、意外に意外、レコーディングは繊細で、一小節づつチマチマ直していく、まるでプラモデルを組み立てていくよう。河村さんのクールなボケ、奥野さんの下ネタ、中川さんの辛口トーク、伊丹さんの鍋(マロニーのうまさを知りました)、アイリッシュ・ミュージックを死ぬ ほど聞かされながら、5日間はあっという間に 過ぎた。
 母親は死ぬ前、「家へ帰りたい、家へ帰して」と、うわごとのようにつぶやいていた。おばあちゃんが死んだとき、幼かったぼくは一人泣いた。家族も親戚 も泣かなかった。母親が死んだとき、ぼくは泣か なかった。家族も親戚も友人も神主さんまで泣いたけど、ぼくは泣かなかった。葬式が終わり、東京へ戻る支度をした。気持ちを映画に戻すため、ソウル・フラワーに貰ったデモ・テープを聞いた。母親が毎 朝、浜村淳のラジオを聞くため買ったラジカセで。4曲目にボ・ガンボスのカバー『トンネルぬ けて』が入っていた。その曲はこういう詞から始まる。「風が騒ぐ夜は 家へ帰りたくないよ…」。ためていた涙 がどっと出た。  2000年最初のソウル・フラワー・ユニオンのライブのタイトルは"SURVIVOR'S BANQUET"。生き残った者達の宴はいつまでも終わることはないだろう。心音が止まり、解き放たれる日まで。  映画の最終ダビングの日、東京に仕事できてた奥野さんが見にきた。打ち上げに参加しようと思って来てくれたのだが、終わったのは 朝の8時で、ぼくらは疲れ果て、帰って眠ることにした。「『アンチェイン』の音楽はソウル・フラワー以外には考えられへ んな」帰りのタクシーの中で奥野さんがぽつりと言った。凄く嬉しかっ た。この映画製作過程は、いい宴だったなと思った。生き残った者達 の宴。生きてさえいれば、おもしろい奴と出会いさえすれば、世の中まだまだ捨てたもんじゃないさ。映画がそう語ってる。そんな映画になったと思っている。
2000年6月吉日 豊田利晃(映画『アンチェイン』監督)