この映画は、誰もが一度は目にしたことのあるような、見慣れた都会の夜景から始まる。
そしてそのあとも、外見や性格が対照的な若い女の子ふたりの、友情とも恋愛ともつかない、微妙な関係を描くという、これまたどこかで一度は聞いたことのあるような、なんてことのない物語がすすんでいく。
しかし、そのふたりを繋ぐコインランドリーという舞台が画面に登場した途端、それこそ、普段わたしたちがそこら中で目にしているはずのコインランドリーという場所が、まるで初めて見る場所のような、新鮮な既視感を抱いてしまう、不思議な感覚におそわれる。
それは、だんだんと、最初は特別にすごいとも感じられなかった(失礼)主演女優ふたりが、映画の中盤ではその魅力がまるで違い、それまで見ていたはずの女の顔が、初めてスクリーンに現れたような表情を見せる驚きにも同じことが言えるのかもしれない。二十代の女の子たちの、見慣れたはずの繊細な関係に目が離せなくなるとき、この映画にはまったく別のものが映っているだろう。そして彼女たちの切実な思いが、まさに彼女たち自身の声によって語られるラストシーンでは、いつのまにか、見たことのないはずの、コインランドリーにいる女ふたりが現れる。どこにでもあるはずのものが、その世界の中にただある/ないというだけのことに、見ながら動揺させられるのだ。
それが、若い女性監督のデビュー作、ということに、関係しているのかはわからない。しかし、映画監督のデビュー作という、当然のものを目の当たりにする、ありふれた行為を、決してどこにでもあることではないと感じさせたことは確かだ。
くるくると回る洗濯物のように、女と女の関係も、女と男の関係も、くるくると回転し、しかもタイトルが、「螺旋銀河」となれば、一体どこまで無限に回る気だと不安になりそうにもなるが、エンドクレジットに、冒頭と同じような都会の風景が映ったとき、その風景が既に、知っていたものとは違うことに気付く。しかしこれは一本の映画なのだ。そのなかでくるくると、どこまでも回り続けたとき、そこには何がある/ないのか、それはきっと初めて見る世界だ。そしてその世界は、友情とも恋愛ともつかない感情に似て、ちょっときらきらしている。
「対」を「たい」と読むか、「つい」と読むか?
解釈に独自性を出す『新明解国語辞典』では、「対」の項の語釈を、「なんらかの意味で一組となる性質」としているが、これは、はなから「対」を「つい」と読みとっているのだろう。だが、もとの漢語は、「答える」「向かい合う」が原義で、漢和辞典の多くも、それに倣う。実際、「対」のつく熟語には、「対応」「対面」「対話」「対決」「敵対」・・と、向かい合うという意味をベースにしたものが多数だ。むろん、そこには、漢語の「答える」の本来が、天に対してのものとされるように、「対する」何者かがあらかじめ想定されているのだが。
『螺旋銀河』の冒頭が告げる「対義語」は、『新明解』に倣うように、反対の意味で一組となる語を指しているが、画面上で展開するのは、むしろ、何者かと対すること=向かい合うことの困難であるように見える。
実際、綾と幸子の二人は、なかなか向かい合うことができない。それは、綾にとっての幸子が、シナリオ学校の教師から言われて、嫌々ながら共同執筆者に仕立て上げるために、どこか自信なげで、友だちもいなさそうな幸子を選んだからだ。幸子は、ただ教師の手前、いるだけでいい。どうせ、シナリオを書くのは自分で、他人の力など必要ない。そう思っている綾と、ちょっとしたきっかけで名前を知るようになった澤井綾から、マンガを描いている友だちという触れ込みで、教師の面接に一緒してくれと頼まれて、すっかり嬉しくなった深田幸子とでは、とても対等な関係ではありえない。
それが端的に現れるのは、幸子が、教師の問いかけに自分の言葉で答え、さらには、雨の中を歩きながら、これから綾の部屋で一緒に書こうと言って、綾の激しい拒絶にあう場面である。草野なつかは、初めから一貫して、この二人の位置関係に細心の注意を払って撮っているが、この場面での、綾と幸子の立ち位置も的確である。
そして、綾と幸子の非対称の関係は、寛人の登場によって、極点に達すると同時に、寛人という第三者の存在によって、それぞれが、自分はいったい誰と向き合っているのかを知ることになる。だが、ここで注意すべきは、恋愛にも似た幸子と綾の非対称の関係が解消されて、一対になったというわけではない、ということだ。綾にしても幸子にしても、そして彼女らより希薄であるとはいえ、寛人にしても、当面の相手に向き合うことで、自分という他者に対することになったのである。
夜の闇の中に浮かぶ光に満ちたガラス箱のようなコインランドリーで、自分が自分でしかあり得ぬ孤独を知った幸子と綾は、それ故に静かに微笑み交わすのだ。
その日本語タイトルと“対義語”になろうとしているかのように、「螺旋銀河」はとても小さな世界を映し出している。
シナリオ学校に通う綾と、彼女がラジオドラマの共作者に巻き込む同僚・幸子。この二人だけのお話だ。二人は同じ会社で働いているようだが、そこで各々どんな仕事をしてるのか、そして会社がどんな事業を展開しているのか、映画はほとんど語ろうとしない。主人公の職場が頻繁に映されながらその職務も事業内容もわからないという描写のあり様は、どこか小津安二郎映画の会社員主人公たちの姿さえ思い出させる。
敢えて準主役的といえる存在まで挙げるなら、それは綾と幸子の間に浮上する共通の男友達、ということになるだろう。けれど彼もどういう背景を持った人物なのか、映画は潔くも語ろうとしない。畢竟この作品は、すぐ近くにいながら同じ会社で働いていたことも、同じ男を愛していたことも知らなかった二人の女が、ふとした偶然で知り合い、誰よりも深い運命的な関係を結んでいく物語、と要約できる。すぐ目の前にある小さな一角だけを見て生きてきたのなら、なるほどそんなことも起こって不思議はない。
だがそんな限定された小世界を見つめながら、映画はどんな大仕掛けの施された大作にも負けず劣らず、ドラマチックで力動的だ。
主人公たちが大言壮語し、派手な動作や対決を見せるわけではない。社員証、同じ柄のシャツ、同じ赤いコート……。小さな小道具の一つひとつが、静かに、控えめに出現するごとに、物語を劇的に転回させていく。
もとはと言えば、綾が無理やり幸子を引きずり込んで始まった話だった。けれどその構図のなかで、幸子がシナリオを主体的に添削しはじめ、コインランドリーという舞台を提案し、同じ服を着てくる、といったさり気ない小さな一つひとつの行動が、決定的に二人の主従関係を逆転させる。そのドラマツルギーが素晴らしい。叫びも、泣きわめきも、暴力をふるいもしない穏やかな挙動を積み重ねながら、幸子は、もうどうにも引き返せない場所にまで綾を引きずりこんでしまう。
街の一角の、ごく小さな断片、ごくささやかな挙動と小道具だけの集成。それが監督・草野なつかの手にかかると、「螺旋銀河」と名乗るにふさわしい無限大の広がり感と力動感を帯びて人々の前に立ち現われてくる。
本作の中盤に登場するコインランドリーの乾燥機のドラムの回転を見ていると、映写機にかけられた映画のフィルムの回転を思い出す。いや、今ならディスクの回転といった方がいいのだろうか。いずれにしても映画は回転する、渦を巻く。その渦の中にいつの間にか現実の人生も巻き込まれ、その人生を模倣していたはずの映画はいつしか人生より大きなものとなり、まるでそれこそが人生のようにもなる。あらゆる時代のあらゆる場所のあらゆる人々の人生を巻き込んだ、巨大な人生の渦、と言ったらいいだろうか。見ず知らずの人々のさまざまな人生の時間の染みついた衣服を巻き込んで回転する乾燥機もまた、その金属のドラムの内部にはそれまで乾燥させた衣服の数だけの人生が染みついているはずだ。
ふたりの女性主人公たちは、そのことを知っているのか、知らないのか、とにかくある日突然ひとりがひとりの服をまね始め、その衣服を巡っての憧れと嫌悪と嫉妬の入り混じった闘争を繰り返すことになる。まねられる側とまねる側。つまり現実とフィクションとの闘争が始まる。フィルムという半透明の幕を巡って現実の人生と、仮構された物語としての映画との危うい関係が、彼女たちの洋服を巡って示されるのである。
そこにあるのは野望でも欲望でも人生をかけた戦いでもない。ただちょっとした憧れ、ふとした思いつきなのかもしれない。たまたま知り合ったひとりの女性と同じ服を着てみるという主人公の小さな決断が、この映画をスタートさせる。一枚の服を手に取ることで世界が誕生すると言ったらいいか。劇的なことはなくてもいい。彼女と同じ服を着る、ほんの小さな勇気と言うにはあまりにためらいのなさすぎる、小さな決断がそこにあればいい。それが現実と映画との懸け橋である。かつての映画のように、映画にあこがれるあまりスクリーンに飛び込む必要はないのだ。
その小ささへの確信と言ったらいいのか、小ささゆえの戸惑いも引き受ける足元の確かさを、彼女たちは持つ。彼女たちの声の落ち着いたトーンがそんなことを思わせるのだろうか。ここからどこかへ踏み出すのではなく、今ここにあるものをふと手に取ることが冒険へとつながることを、彼女たちが教えてくれる。
ろくに内容も知らずになぜこの映画を見たかというと、知りあいの知りあいが作った映画だったからである。いや、これでは語弊があろう。知りあいの知りあいなら私にも大勢いるので、彼らが映画を作ったからといって全部は見ていられないのだが、この『螺旋銀河』にはまったく別口の知りあいの知りあいが複数関わっていたのである。となると、そこに何がしかの縁を感じずにいることは難しい。
ところが、いざ映画が始まっても不安が消えない。有無をいわさず人を納得させるようなショットは見あたらず、脚本家志望の綾をはじめ、出てくる人間はみな自分のことしか考えていないようだ。それでもなぜだか目が離せないのは、特定の人物だけに肩入れせず、ほどよく距離を保った流れの心地よさゆえのことだろうか。
やがて共作者を探さなければならなくなった綾が、たまたま知りあいになった同僚の幸子を会社の屋上でつかまえ、頼みを切り出すくだりでハッとさせられる。それまで長回し気味に人物たちを捉えてきたキャメラが突然同軸で寄るからだ。近年めっきり見かけなくなったこの種の反時代的な技法をさり気なく使いこなせるところに、流れのよさの秘密があるらしい。形だけの共作者に仕立てられた幸子が、シナリオ学校の講師に向かって、綾のシナリオには重力がないと口走る瞬間のミディアム・クロースアップにも、それまで地味で印象に残らなかった幸子の顔が不意に露呈されたような新鮮な驚きがあろう。
羨望や一時的な利害で結びついたはずの対照的な二人は、こうして互いの思惑を超えた新たな関係へと入っていく。そのきっかけが、綾の「前の前の彼」が幸子のいとこだったという、出会う前から二人の関係を規定していた偶然である点がおもしろい。都会の闇にそこだけあかるく浮かんだコインランドリーの小宇宙のように自分の殻に閉じこもっていた個と個は、自分たちでも知らないうちに「知りあいの知りあい」として結びついている。
そうした意図せざる関係の偶然性を祝福するこの映画の魅力を、監督や脚本家、はたまた主演女優といった特定の個人の功績だけに帰することはできまい。それどころか、『螺旋銀河』がこのような映画になることを、彼女たちの各人は誰一人願っていなかったかもしれないのである。しかし、個の願望を超え出ること、「知りあい」との絆よりも「知りあいの知りあい」の偶然性に賭けることで、映画はいつでも大きく、豊かなものでありつづけてきたのではなかっただろうか――ほとんど世界そのもののように。
草野なつかの長篇デビュー作『螺旋銀河』では、若い女性二人における逆転劇が描かれる。可愛くて自己中心的な綾と、おずおずして見た目の平凡な幸子。いかにも対照的な二人で、強弱ないし優劣は明らかだが、それが転倒するのである。
変わり目は二人がシナリオ教室の先生の面談を受ける場面であろう。幸子は綾に頼まれて同行したにすぎないが、先生から意見を求められ、綾の書いたラジオドラマの脚本について、人物に重力がないと言う。その瞬間、幸子=澁谷麻美の顔つきが別人のような精彩さを放ち、不快さを露にした綾=石坂友里の顔つきが生気を失う。それはまた、映画が一気に面白くなる瞬間にほかならない。
綾はいつも地味な服装の幸子に、面談用として自分のしゃれた服を貸し、幸子は洗って返す。そのあと、綾が喫茶店に行くと、同じ服を着た幸子がいる。捜して買ったことを嬉しげに語る幸子と、聞いて怒る綾。その対照が立場の転倒を鮮やかに際立たせる。
といっても、幸子が優位を示すわけではない。その後も控えめなことに変わりはないが、しかし、顔つきは輝いている。もちろん綾が、それに気づかないわけがなく、苛立ちを強め、いわば勝手に劣勢に陥ってゆく。そんな二人の姿を、以後、見る者はスリリングに見守らずにいられない。
当然ながら立場の転変は関係に変容をもたらす。三角関係の混入が、それを深める。三角関係にまたしても服が介入するシーンでは逆転ぶりがさらに浮き立つ。
残酷な関係の劇——この映画をそれを描くのだが、どこかメルヘンの趣がある。なぜだろう。いろいろ考えられるが、ひとつにはコインランドリーが印象深く出てくるからにちがいない。
夜、道路沿いのコインランドリーが、まるで中空に浮かぶように何度も出てくる。べつに夢想的な光景ではなく、リアルだが、現実そのままに不思議な佇まいを見せる。随所に挿入される夜景の短いショットも、効果的に作用しているのであろう。
そのあたりに『螺旋銀河』のユニークさを見ることができる。映画的時空の特質といってもいい。
ラジオドラマを書くことと、初めて長篇映画を撮ること——この二つの重ね合わせは、いかにもと思わせるが、画面の進展に耳目を集中するうち、別の印象へと移ってゆく。顔つきや服などの描写のもと、映画的時空の律動がそうさせるのである。
映画を撮ることの初心のときめきが、そこに感じられる。