もっと真剣になればよかった | 鈴木ジェロニモ

一、修学旅行

 君をゆるさないことにした。君というのは私。17歳の、高校2年生の私だ。

 君は。私は。修学旅行に行った。新幹線が停まる駅に行儀よく集合して言われた通りの座席に座る。座っている自分がとんでもないスピードで移動していることを実感の外側で理解しながら、だからこそわざとゆったりとした時間の印象を与えているんじゃないかと疑いたくなる新幹線の車内の空気にもふもふ過ごした。「まもなく、新大阪。新大阪です」。周囲の動きを真似して、しかし元から把握していたかのように見た目を装って、荷物を抱えて立ち上がる。自動的に出来上がる列を乱さないように気を付けて、瞬間的なシミュレーション通りに体を動かして列に加わり、新幹線を降りた。

 大阪、京都の修学旅行。楽しかったと思う。しかし君はしなかった。何をしなかった? 思い出してほしい。思い出せないならいい。君は。私は。枕投げをしなかった。私はそれをゆるさないことにした。

 君の弁明を想像するに、枕投げをしないことこそが正義だったと思う。面倒なことを起こしたくない。決められたルールの中に立ちすくむ自分の、そのさらに内側の自意識とも呼べる認識の領域。そこは社会から最も遠いという意味で私の中で最も安全な場所だった。決して現実の形を結ばない想像上の拳を、そこで育てた。起きてから眠るまでそれに終始した。それはそれでいいと思う。だから枕投げをしなかった。わかる。いや、わかるんだけど。そこで枕投げをしなかったから、君はそうやって一生、枕投げ、及び枕投げ的なるものを、しないことになったんだ。

 修学旅行をする、もっと言うと、真剣に修学旅行するということは、修学旅行という言葉が引き連れてくるあらゆるイメージに対して、実際どうなんだと肉体ぜんぶで体当たりすることなのではないのだろうか。いやまあ、とはいえ、別にね。怒られるまでやらなくたっていいんだ。騒ぐという目的を意識しながらまるで任務のように騒ぐことなんてしなくたっていいんだ。あの畳の部屋で、浴衣? という言い方が適切なのか分からないけれど、それの帯紐を意味なくさせて、みぞおちの前で交互に重なった布をはだけさせながら投げる枕の、それにまつわる肩と肘の、案外背中の筋肉の動き。友達から投げつけられた枕の、どのくらいの重さなんだろうと思いながら受け止める腕の、弾力。それにもう、どうやっても出会えないんだ。いいのかそれで。よかったのか、それで。真剣に修学旅行したと、言えるんだろうか。もっと真剣になればよかったとずっと後で思うことになるんだけれどどうしたらいい?

 いや、失敬。突然こんなことを言って申し訳ない。ごめん。えっと、少し冷静になってきて、君の気持ちが分かってきたような気がする。まあそれも私の一方的な気持ちであることに変わりはないのだけれど。あれだよな、枕投げというものが、そもそも自分で思いついたものではない。そうだよな。枕投げという言葉は、その認識は、借りてきたものだったよな。外側の、誰かしらの先達からの情報として枕投げ的なものがあると、その既知の存在を認めていた。その、これをやれば逆らったことになるという、あらかじめ定められた悪のイメージに容易にフリーライドすることができる、インスタントな腕章としての枕投げだったよな。その点において、フリーライドのインスタントに甘えることなく本当の意味で「真剣に」修学旅行したと言えるのは、枕投げをすることではなかった。そうかもしれない。申し訳ない。うん、じゃあなんだろう。もう一度で悪いんだけど、考えてみてほしい。

 言うよ、私が思いついたから。夜中に部屋を抜け出す。夜の京都の旅館を飛び出して、まあ、飛び出すという描写が似合わないとしても、のっそり抜け出して、歩くことだ。部屋まで歩いてきた靴を、部屋の入り口の下駄箱に仕舞った、そのとき下駄箱に先に用意されていたスリッパ? サンダル? ここではサンダルとしよう。それに、履き替える。来るとき靴で歩いてきたカーペットのような床を、用意されていたサンダルで歩くと、こっちが本当だったんだ、という気持ちになるだろう。そのサンダルで、館内のロビーを抜けて、外に出る。京都の街のコンクリートを旅館のサンダルで踏む。これがきっとたまらない。靴、スニーカーを履いていたときには感じられなかったコンクリートのゴツゴツとした肌感を、そもそもクッション性の向上を目指していないサンダルで踏むと、その接着できなさが、遠くからこの土地にやってきたんだなという感覚にさせてくれる。その、ここで生まれてない感を受け入れながら、歩く。下駄? 下駄ではないのだけれど、まるで下駄みたいな、サンダルの底面の硬さ。かかとから地面に着いた足が、弾力を持ってじわじわしなやかに接していくのではなく、カン、と着いたかかとの次は、伐採した木が倒れるようにゆっくり足の裏全体が直線のまま倒れていって、音があるならパタンと、一気に足の裏全体で板のように着地する。この歩きにくさ。これが旅だ。修学旅行だ。浴衣の余った袖を巻きとるように腕を組んで、近くの明るいところまで、来た道に戻れるように周囲の情報をクイズみたいに知覚しながら、歩く。そうだ。それをすればよかったじゃないか。

 うーん、いや。えっと。やっぱごめん。ここで、またもう一度思い直してもいいだろうか。果たしてその旅館の外を歩くという発想は、その時点での君、つまり修学旅行に実際に行っていた17歳の私から生まれ得たのだろうか。今こうして振り返って考えているから、あり得たかもしれない選択肢を想定して叱る——この行為を「叱る」と自覚してしまっている——ことができるけれども、果たしてその旅館の畳のうえの布団に横たわる君は、本当は、何を思っていただろうか。

 枕投げをせず、徘徊をせず。旅館の部屋に夕食として現れたすき焼きをたらふく食べて友達と話し、大浴場を生まれたように満喫し、よく眠り、終えた。そのすべてに、全力だったのではないだろうか。君が、17歳の私がメタな視点から「修学旅行らしさ」を認識することはままならなかったけれど、今そこで起きていることに、17歳の力ぜんぶで対局したのではなかろうか。枕投げとか、徘徊とか、そういったネタバレと言って差し支えない修学旅行的行為に目配せをする暇もなく、友達と、ご飯をどちらがより多く食べられるか競ったり、大浴場の中で自分の体つきを気にしたり、もしくは気にしなくてもいいんだと思えたり、畳の床に布団を並べて、川の字というには本数の多い、俯瞰で見た肋骨のように頭と頭を合わせあって寝たふりをしたり、した。布団を鼻まで上げて、声が出過ぎないようにしながら、暗くしたから暗くなった部屋で、話した。誰かが先生の真似をして喋る。誰かが笑う。暗くて全員布団の中にいるから、誰がどこにいて、どんな表情で喋っているのか正確には判別できない。けれど、その声がする方向に、友達の顔が浮かんでくる。おいやめろよー、と笑いながら指摘する友達の困ったような眉毛の形が、頭の上の右上の、きっとあっちを向いた顔つきで、浮かんでくる。そのことは、あらゆる修学旅行的行為に勝る、背徳的で意味のない、そして取り返しのつかない真剣な現実だった。

 改めたい。君をゆるすことにした。君というのは17歳の、高校2年生の私だ。知らないことを知らないままで、夢のように体を投げ出し、眠ればいい。私は君のように、もっと真剣になりたい。

煉瓦造りの建物の前にある駐車場に、「本日休館」と縦書き2行の赤い文字で書かれた看板が立っている。
休本館日