「いやもうそれクラピカじゃん」。クラピカ。たしか『HUNTER×HUNTER』の登場人物だった気がする。金髪の、スマートな花というか美形な印象というか、そんな感じのキャラクターをイメージする。でも私はクラピカ氏の要素はそのくらいしか存じ上げない。『HUNTER×HUNTER』を読んでいないのだ。性格がどうとか能力がどうとか背景がどうとかを全く把握できていない。私のイメージするクラピカ氏で合っているのだろうか。今の会話の流れ的に、おそらくクールな、頭の回転が速いが故に少しの残酷さを孕んでいる、みたいなニュアンスのはず。そう思うと私の頭の中のクラピカ氏もそういう性格に思えてくる。一致する。うん、そうだ。そのはずだ。その要素の喩えとしてこの人は今クラピカ氏をこの場に出したんだ。オッケー、そしたらその要素で合意したことにして、そのリアクションをしよう。
あ〜〜。声に出す。あ〜〜、の後ろの「〜」には笑いを混ぜる。ゆっくりだけれどその喩え確かに分かるわあ、というようなニュアンスを醸す。聞いた人によっては「あ〜〜笑」と書くかもしれない。語尾に笑いを含ませることで、その人のクラピカの喩えによってその場で即時に笑った人がいたとしてもそこへの接続も可能になることを目指す。分かるわあ、でもありつつ観客として笑ってしまった、でもあれるようにする。とにかくそのあ〜〜を発することで、正直言って分からない喩えの時間が安寧のうちに過ぎ去ることを待つ。待てよ待てよ頼むから誰も行くなよ? と思う。行く、というのは喩えを広げるということ。あの何巻のなになにのシーンのね〜、とかが始まってしまうと危ない。そこにはついていけないから愛想笑いを繰り返すことになる。すると誰かが「待って、お前全然会話入ってこないじゃん」的なことを指摘してきて、いやー僕ね、ハンターハンター読んでないんすよーと言わなければならなくなる。
いやまあ、読んでいないことを打ち明けるのは全然いい。問題なのは一度知ったかぶりをして「あ〜〜」と言ってしまったことだ。そこに言及されたらめっぽう弱い。知らなかった、読んでいなかった、というのは事実。この場ではどうすることもできないから仕方がない。読んでないなんてあり得ない、と言われても、でももう仕方ないですよね。今この瞬間に未読なのだから。はいもちろん僕が悪いで全然いいんですけど、とかなんとか言って一応対等に話し合える。いや、やっぱすみません、対等かどうかではなくて、自分に罪の意識があるかどうかが問題でした。事実もしくは今現在の時点で意思を介入させようがない領域については罪の意識が生まれない。ところが。あ〜〜と発言したことには、誤魔化そうという今現在の私の意思が反映されてしまっている。罪の意識がある。ごめんなさい。『HUNTER×HUNTER』読んでなくて、今のクラピカの喩え分かんなくて。でもどういう意味ですかって聞いたら会話が止まっちゃうから一旦分かったていでやり過ごせるかなと思ったんです。自分も対等な知識があると誇示したかった、その状態を守りたかったのではなくて、会話の流れと発言者であるあなたの気持ち良さを優先したが故の「あ〜〜」だったんです。許してください。いや許さなくてもいいです。その内情だけ分かってくれればいいんです。どうぞ続けてください。僕も『HUNTER×HUNTER』読みますので……。
ここまで言えればいい。しかし実際は、ごめんなさいと白状しようとした辺りで「まあいいけど笑」みたいになってそれ以上の弁明が許されなくなる。それは断固として弁明を許さないといった厳しい雰囲気ではなく、寧ろ緊張が緩んだ中で自分の内情を語り出す方が場違いになる、おーどうしたどうした笑、みたいな許されなさだ。私が幼い頃家族とのコミュニケーションで学んだ「はい、それで?笑」みたいな諦めさせ方。〇〇ちゃんが犬飼ってたからうちも飼いたい。「犬飼いたいんだ。うん、それで?笑」。え、あ、じゃあいいです。「うん、だって誰が散歩行くんですかとかね、あるし笑」。はい。だからもういいです。当時はまだ笑とかwwwとかは多分なかったし認識していなかったけれど、あの会話でやり取りされた感情は後にそれらの表記が牽引することになる嘲笑や諦めのニュアンスだったと思う。
どうして『HUNTER×HUNTER』を読んでいなかったのだろう。『HUNTER×HUNTER』だけではない。『ドラゴンボール』も『SLAM DUNK』も『ジョジョの奇妙な冒険』も、ちゃんと読まずに来てしまった。ちゃんと、というのはそれぞれ1話だけくらいは読んでいるから堪忍、というゆるされたさによる。読まずに来てしまったという感情が、それらの作品に対する捻れた向き合い方になっていたら申し訳ない。
しかし芸人になって、さらには短歌を発表したり本を出版させてもらったりして、本当に様々な人と、いわゆるカルチャー的な場でお話しさせていただくことが増えた。それはとても嬉しい。自分にとって問題なのは、そういったカルチャーに精通している方々と話すと私と先方では基礎となる手札が違いすぎるということだ。私の口調や醸し出す雰囲気が、先述したような傑作漫画たちは読んでいて当たり前だと思っている人間、のように私を見せてしまうことがある。漫画そして文化を愛し文化に愛されてきた、私にとって憧れの方々は、おそらくそういった固有名詞を含む会話をすることによって握手をしてきたのだろう、友情を育んだのだろう、と思う。それが素直に羨ましい。私にとって漫画といえば『ONE PIECE』を高校くらいまで読んでいた、という経歴しかない。一度だけ過去を改変できるなら、先述したような漫画たちを読んでいたということにしてくれないだろうか。
私の10代を振り返ると、よもや今のような、何というか文学!カルチャー!みたいな方向に進むとは全く予想できない。野球!勉強!の2軸のみが存在していてそれ以外のものは不要だと思っていた。漫画も映画も小説も短歌も音楽も詩も、何にもしっかり触れていなかった。もはや避けていたとも言える。それらは野球ではないし、勉強でもないから。
固有名詞が出てくる会話はかっこいい。そうなれたらいいなと思った時期もあって何回か試みたけれど、合わないなと思って諦めた。買い物上手とかに近いと思った。陳列されているものの要不要を即座に見極めて最小のコストで最適なものを選ぶ。それができない。人と会うとき、外出するときの私はいつも同じパターンの服しか着ない。半袖Tシャツの白か黒。長袖Tシャツの白か黒。デニムかスラックスかナイロンパンツ。寒かったらコート。以上。そこだけ見たら買い物上手とかミニマリストっぽいとかの印象を持たれることが多い。しかしそれはかなりの諦めの末に辿り着いた、ここからここまでなら人に見せても大丈夫かな、の領域なのだ。パックマンでいうところのパックマン本体をまるごと捨てた先のパックマンの口の部分、24等分したピザのひと切れのような狭く細い「私」の領域を繰り返し見せて印象付けている。大変申し訳ないけれど、自室は物で溢れている。物の塔。部屋着に色が集まってカラフル。毒のにんじん。何もないのに遅くまで起きる。怠惰な肉。こっちが内実だから、固有名詞の会話ができない。人と会うときの私は固有名詞の会話をしそうで、家に帰るとしなさそう。
でも、だからこそ、20代後半からそれらのいわゆるカルチャーと呼ばれるものに、一気に出会い直している気がする。BUMP OF CHICKENを聴く。映画館に行く。図書館に行く。友達と遊ぶ。みんながやってた10代を今急いでやっている。だからちょっと待っていてほしい。
「いや待って、キルアかも」。うん、だからもうちょっと待ってほしい。
