もっと真剣になればよかった | 鈴木ジェロニモ

七、家族

 家族に教員が多い。両親が高校の教員で、二世帯住宅として同居していた母方の祖母と叔母が小学校の教員。兄は大学の助教をしている。私は高校の英語科教員免許を取得した。やりたいことしかやりたくない大学時代に教職課程をわざわざ選択して一体なんなんだと思いながら教員免許を取得するに至った、至れたのはそういう家庭環境だったからという理由が大きいと思う。明確な職業への展望がない状態で大学に通わせてもらう上で「とりあえず取っておきなさい」と家族から助言を受けて教職課程を選択した。家族に教員が多かったから、教員という職業が他の職業、例えば会社員よりも身近に感じられた。そうなる自分の姿をイメージしやすかった。芸人になったけれども。

 

 昔、祖母とスーパーマーケットに行った。その私は自分の足で歩行している自分の中で最も体が小さい。3歳とか。祖母はすでに退職していたが、地元に近いエリアで教員をしていたから、いわゆる「教え子」の方々が近隣に多かった。幼稚園や小学校の頃は「誰々くんのお母さんはおばあちゃんの教え子で〜」みたいな会話を家の中で複数回聞いた。スーパーマーケットを祖母と歩くとき、必ず1回は「〇〇先生ですか?」と声をかけられる(〇〇の部分には祖母の苗字もしくは名前が入る)。普段から割と姿勢の良い祖母の姿勢がピークの秋刀魚のようにさらにぴしっとする。黒目もなんか大きくなる。「あら、どうも」。おそらくそのトーンで喋っていたのだろうと想像できる、普段の祖母の声より高くて通る、リコーダーを真剣に吹いたときのような音で会話が始まる。「お孫さんですか?」。挨拶の雰囲気が終わると隣にいる小さい、当時まだ小さかった私に話題が移る。「こんにちは」。こんにちは、と声に出すのが恥ずかしくて、こんにちは、と一旦思うだけになる。でも祖母が「先生」と呼ばれている横で恥ずかしがって、自分の恥ずかしさを場の流れよりも優先させて挨拶しないというのはなんか、当時はそういう語彙はなかったけれど〈面子が立たない〉という言葉に後に収斂される類の気持ちになってきて、はいOKです分かりました言います、こんにちは、と急いで自意識を片付けながら発声した。声に出してこんにちはと言うとその場がいい感じになる。挨拶は角張った空気を丸くほぐす作用がある。会話が再び頭上に戻る。自分の背丈より高い位置で交わされている大人同士の会話を下から、目ではなく頭上の意識で見上げる。これ意味あるんかな、音じゃん、と大人の会話のフェイクっぽさに首を傾げる気持ちになって気持ちだけ傾ける。実際の首は傾けないように気をつけながら〈先生と呼ばれた祖母の横にいる自分〉を静かに保つ。

 祖母は街で「〇〇先生ですか?」と声をかけられることについて、厄介そうにも誇らしそうにもしなかった。そうなることが自然であると受け入れているように見えた。声をかけられたことによって姿勢や眼光や発声が若干凛々しくなることについても、寒い屋外で息が白いことを確かめるように、まあそうだよね、とそういう自分の在り方をナチュラルに認めていそうだった。

 祖母の周りの人間から聞いた話によると、祖母は相当な野心家だったらしい。一旦少し意外に思おうとして、いやでも結構あり得るな、と答案用紙にリズムで丸をつけるような気持ちの動きで納得する。孫の私に対してはそういう面を見せずにいた、もしくは見せる機会がなかったのかもしれない。「県名と祖母の名前だけ書けば手紙がうちに届く」と、祖母の娘である母が祖母のパワーヒューマンぶりをよくいじっていた。郵便局に「教え子」がいるからなのか、それほど地元に幅を利かせていたからなのかは分からないけれど、別にそれが大袈裟な嘘ではなさそうなのが祖母だった。また両親は両親で「生徒とか親御さんと遭遇すると気まずいから」という理由で近隣を家族で出歩くことを避けていた。こういうことが重なって、私は幼い頃から、自分の日常は見られているのだという意識を自然な形で身につけた。最近ごく稀に街で「鈴木ジェロニモさんですか?」と声をかけていただくことがある。もちろん嬉しいし、同時に芸能人の方々がよく言う、プライベートがない、みたいな感覚を少しだけ分かったような気にもなる。しかし最も大きな感情としては、そうだよね見てるよね、だ。膝くらいの身長だった私の内側に芽生えた自意識が、やっと答え合わせされ始めてきた。

 

 友達と話していると複数人の口から「先生を人間と思っていなかった」と聞く。それは人間性を失った機械、痛覚や感情がないから邪険に扱って構わない、というニュアンスではなく、現象やキャラクターと同じように、最初からその状態でこの空間に出現した感じがする、ということらしい。「先生」には時間の前後が存在しない。家から出勤してきて夜になったら帰る姿、子供時代から「先生」になるまでの成長過程を〈無いもの〉としてきたと。だから苦手な先生は徹底的に敵になるし、お気に入りの先生はキャラクターのように愛玩対象となる。そうならないようにと気をつけない限りとても自然にそうなっていく。私はそうではなかった。家族に「先生」が多かったから、自分が通っている学校の先生たちにも同じように家庭や前後の時間が存在していると無意識のうちに思っていた。自分が教わっている先生が親の知り合い、というケースも多々あった。先生が声を荒げていわゆる「説教」をしているとき、「ああ本気で感情的になって怒っているわけではなく、〈説教〉という時間を主催しているんだな」と、良いのか悪いのか分からない、どちらかといえばきっと2周目の意味で悪い方の受け入れをした上で、主催者の意図を尊重した振る舞いを心掛けていた。

 10代までの期間は、私や私たちvs.学校と先生、という対立構造を内面化することで〈私〉が磨かれると思う。ただしここで磨かれる〈私〉とは本当の〈私〉というよりもっと簡易的な〈私っぽいもの〉に近い。身近な共通の仮想敵を設定することによって、周囲の人間を同じ目的を持った仲間だと脳に認識させ、仲間らの多数決に流されることで決断を避けて不安定な心を安定しているかのように錯覚させる。基本的には学校と先生を敵や壁のように見立てて、そこに穴を開ける、ぶち壊すという安全な反骨精神によって簡易的な〈私〉、つまり〈私っぽいもの〉が形成されていく。しかし私は先述したような環境と思考だったため、私たちが壁と決めつけている存在もまた人間なんだよな、という意識に基づいていた。だから、壁をとにかく壊せばいい、というムードに乗れなかった。壁でいてくれている人間たちをそうと知らずに壊すべき対象として一面的に見ることは、ある意味信頼の証だと思う。私はその壁を信頼しなかった。私にとって学校はやわらかいものだった。壁の内と外を上空から観測する鳥のような目線で、壁の内側で同世代らと同じように直情的に振る舞う自分であろうと試みた。外部や他者に向かう期待にも似た自己主張は全て「ごっこ」で、本当だ、と信じられるものは自分の内側と世界が触覚を経由せずにやり取りする領域での出来事に限られていった。

 

 先生、と呼ばれることがある。「ジェロニモ短歌賞」という短歌のライブイベントを主催しているからプレバトにおける夏井いつきさんを「夏井先生」と呼ぶようなニュアンスでそう呼ばれたり、ラジオでの振る舞いが達観しているように見えてそう呼ばれたり、同世代を敢えて先生と呼ぶことに面白味を見出した人にそう呼ばれたり。呼ばれるたびに私は先生ではありませんよと否定したくなるが、そのようなからかいのニュアンスをいきなり挫くのは風情がないかとも思い、はい先生です、と乗っかってみることもある。人を先生と呼ぶこと、それは遠ざけたいけれどそこに置いておきたい、という感情だと思う。壁の向こう側に、わざと勾配をつけて距離をとりながら、しかしその存在を個人として認める。それはもしかしたら寂しい。けれど私の家族環境からすると、収まるべきところに収まった、と納得もする。先生は先に生きると書く。つまり先に死ぬ。私が家族から受け取った「先生」という人格の傘を、いざというときに捨ててみたい。

 

水の中に入って笑顔をこちらに向けている子ども。頭に緑色の水泳帽をかぶっている。水泳帽の名前を書くところに「すずき わたる」の「わたる」の上から「ひさし」と濃く上書きされている。
名前を上書きしてお下がりの水泳帽を使う

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