「曲を作りませんか」。ドトールで恐る恐る言われる。シンガーソングライターのにゃんぞぬデシさんと米澤森人さん。うわあ、はい、ぜひ。たしかそんな感じに答えたと思う。びっくりした、嬉しいというのはもちろん、いつかこうなると思っていた、と予感に近い感情があった。現実が私に追いついてきた。現実はいつもこんなふうに予感のリプレイだと思う。
歌詞を書く。歌詞を書こうとする自分に自分が重なってきて、自分が2人現れる。全身がコピペされた二人羽織のような、どっちの意思でどっちの体が動いているのか絶妙に判別できない揺らぎがある。何からどのように始めよう。分からない。けれど、短歌に近いのではないか、と想像する。短歌をつくるときに世界を持ってくるエリアの、池のようなもの。その池を覗き込む気持ちで自分のことを探す。
小学校低学年のとき、土曜日の朝。布団に横になったまま、親と相部屋だった寝室のテレビを見ていた。テレビに対して自分が垂直に向かい合っている。画面に映るものをほとんど無意識のうちに90°傾けて捉え直す。ポンキッキーズ。雪山が映っている。映像の中を右から左に、日本らしい鳥が雪原を横切って飛んでいく。「大空と大地の中で」(松山千春)が流れている。
果てしない大空と 広い大地のその中で
いつの日か幸せを 自分の腕でつかむよう
テレビから聞こえる。その瞬間、あっ、と思う。そこに地球がある。そういう感じ。自分が今暮らしているのも地球だと言われているけれど、その歌と画面の向こうにも地球がある。鏡に映る自分の顔の、いいなあと思う部分を撫でようとするとうっすら対象に触れ損ねるように、歌と画面の奥の地球に触れてみたいけれどきっと自由に逃げていく、と察する。けれどその逃げていく様が命っぽくて嬉しい。端的に言えば、いい歌だ、と思ったのである。
この歌を何回も聴きたい。親に頼んで、人生で初めてCDを買ってもらった。「松山千春グレイテスト・ヒッツ」。家にあったラジカセにCDを流し込む。再生する。1曲目に「大空と大地の中で」が流れる。イントロ。ふくよかな伴奏の中でピアノが足踏みのようにリズムを作る。あのとき聴いた歌詞が来る。これだ。これだったんだ。おおおおお、と思っている間に曲は進む。ラジカセは再生する前と変わらない色、大きさでそこにある。それが逆に不思議に思う。この音楽のすばらしさ。それを感じて形が変わるはず。でも元のまま。変わらない景色の不思議さを諦めるように目をつぶる。暗くなった視界の中で手を伸ばした先がきっとやわらかい。地球だ。やっぱりこの曲には地球がある。
小学校3年生のとき、野球チームに入った。遠征に行くときは一度小学校に集合して、車を出してくれる親御さんの車にそれぞれ相乗りして向かう。この、自分の親ではない大人の車に乗る、というのが好きだった。車内の雰囲気がその車種や運転者によって異なっていて、車が大きいから人気、帰りにコンビニに寄ってくれるから人気、などそれぞれの親御さんのキャラクターが少なからず反映された、無いようである評価基準が生まれていった。
あるとき、チームメイトのAくんのお父さんの車に乗って遠征に行った。その車で流れていたのがスピッツだった。ガムとかを置く、運転席と助手席の間の箱のような台のような位置にCDケースが置かれている。スピッツの、青い貝殻のアルバム。Aくんは「青い車」が好きだと言った。私はそれまでスピッツといえば「空も飛べるはず」か「ロビンソン」か「チェリー」くらいしか知らなかった。カーステレオに表示されるアルバムの曲名をスキップしていって「青い車」を再生する。おおお。海だ。イントロが流れて、海だと思った。今乗っている車は遠征先の別の地域の小学校に向かっているのだけれど、曲を聴いていたら車が海を宛先とした手紙のように風に運ばれた。速さがよかった。「空も飛べるはず」と「ロビンソン」と「チェリー」でしかスピッツを掴めていなかったから、この速さもあるんだ、この速さもいいなあ、と思った。
こちら側の手作業によって「青い車」を1曲目として始まったアルバムの中で、私は「渚」が好きになった。多分私はボーカルが伸びやかに歌う後ろで楽器が細かく鳴っている曲が好きなのかもしれないと、後に思う。なんというか、曲がこっちを向きすぎていないのが好きだった。思え思え思え、としてきていない感じ。曲は曲でどこかを見つめていて、こちらの表情を覗き込んでこない。でもその曲が持っている感情の幅が、きっと分かる、と絶妙に心地よかった。特に遠征の、Aくんのお父さんの車の中で聴くのが好きだった。行きも良いし、帰りはもっと良い。自分が今移動している時間の先で、この曲のような瞬間に出会えるのではないか。そういう予感が身体の疲労を空想へのアシストに変換してくれた。
可愛い君が好きなもの ちょっと老いぼれてるピアノ
スピッツの「スパイダー」の歌詞の最初をAくんが真似して歌う。「ちょっと」で音が上がるところを裏声にせず地声で一生懸命に着いていく。歌詞の意味は分からない。けれどAくんが歌ってくれて気持ちいい。分からない意味をきっと誰かが分かっていて、その分かっている眼差しに同乗することが私たちの大人びたい気持ちを満たした。
音楽のことで思い出す苦酸っぱ甘い記憶がある。中学生のとき、テレビのCMで「Million Films」(コブクロ)が流れていて地球だ、と思った。なんていい曲なんだ、ということだ。地元のTSUTAYAに行って頭の中でコブクロコブクロコブクロコブクロ……と唱えながら棚を探す。すると1枚のアルバムが目に入る。「5296」。アーティスト名がコブクロのCDはそれしか置いていない。裏面に小さく収録曲が書いてある。「蕾」。おお。「君という名の翼」。おお。知らない曲も多かったけれどベストアルバムっぽいし、何せ今ここにはこの「5296」しかコブクロを聴く方法はないからと思って借りる。聴きたかった「Million Films」は記載によると入っていない。でもどうしてか、入ってる、と思った。この店にこれしかないコブクロのアルバムには、記載という常識を超えて「Million Films」が入っているのだ、だってあんなにいい曲なのだから。家に帰ってCDを聴く。もちろん「Million Films」は入っていない。なんでだよ……。真剣な温度でがっかりした。本当の本当に入っていると信じていたのだ。結局後日もう一度、いや何度もTSUTAYAに行って「Million Films」のCDに遭遇できる機会を待ってレンタルした。まったく……と思いながら聴いても「Million Films」は地球に手を伸ばすようにすばらしく、最後は嬉しい気持ちになった。1曲を聴くために何回もTSUTAYAに行くという経験はもうしたくないしもうできない。そこにあったから借りた「5296」の「コイン」「どんな空でも」「君色」「Diary」。どう出会い直しても好きになっていた。偶然の音楽で構成された私の10代をながく誇りたい。
自分の曲の歌詞ができて、いやできてというか、化石がそのポーズで化石になることを知らないような、これのみが正解ってことはないだろうけど一旦ここで停止してスクショします、みたいな気持ちで書き上げて、提出する。私が書いた歌詞におふたりが曲を付けてくださってそれが音楽になる。すべてが偶然なのにこれしかない。「トマトのジュース」。そうなることが決まっていたかのように偶然聴いてくれたとき、それが生まれたことになる。


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