A is for Asexual 川野芽生

A is for Asexual | 川野芽生

Kawano Megumi

#00

イントロダクション

「最近はコンプライアンス研修とか色々受けるんだけどさ、ほら、LGBTとかいうの?」
 カフェで向かいの席に座った男性が言う。
 私は仕事の面接を受けているところだ。
 相手は私を緊張させまいと気を遣ってくれているのだろう、ざっくばらんに雑談を振ってくる。
「あれもなんかややこしくてさ、最近はLGBTQとか、LGBT+とかあるらしいよ」
 私はにっこり笑って、「LGBTQ “A” っていうのもありますよ」と答える。
 私がそのAです、と言ったら不採用になるのかな、と思いながら。

 Aはアセクシュアル(Asexual)のA。
 アセクシュアルというのは、「どの性別の人にも性的指向が向かわない人」、もっと噛み砕いて言うと、「どの性別の人とも性的なことをしたいという気持ちを持たない人」のことだ。
 なお、「どの性別の人にも恋愛感情が湧かない人」のことをアロマンティックと言い、私はアロマンティックでもある。
 他者に対して恋愛感情を持つことと、性的な感情を持つことが一致している人からすると、「その二つって分けられるの?」と感じるかもしれないけれど、その二つは実は独立の事象である。少なくとも、人によっては。

 私は「恋愛」をしたことがない。「恋愛」というのが何を指すのかは、いまいちわからないところもある――というか、実は人によって違うのだろうと思うが、相手の性別を問わず、誰とも「恋人」という関係になることに同意したことはないし、そうしたいと思ったこともない。他者に恋愛感情――というのが何を指すのかいまいちわからないところもあるのだが――を持ったこともない。
 性的な関係についてもそうだ。誰とも性的な関係を持ったことはないし、持ちたいと思ったこともない。性的な行為、と呼ばれるものには幅があると思うけれど、性的なニュアンスを伴う行為(たとえば、キスとか?)を他者としたこともない。他者から一方的な性的加害を受けた場合を除いて、だけれど。他者に性的な魅力――というのが何を指すのかいまいちわからないところもあるのだが――を覚えたりしたこともない。

「本当に好きな人にまだ出会っていないだけだよ」。これは、「恋愛に興味がない」と表明した時によく言われる台詞だ。
 なぜ、そんなことを言われなくてはならないのだろう? 誰かを「本当に好き」になったら恋愛や性愛という形を取らなくてはならないのだろうか? 私の、他者への感情は、恋愛や性愛という形を取らない限り、「本当」ではないのだろうか? そもそもおまえは私の何を知っているんだ、という気持ちになる。
 人と人との関係のあり方は、ひとつひとつすべて違うはずで、恋愛や性愛といった枠を当てはめる必要などないはずだ。「恋愛という形を取らないなら、あなたの愛は本物ではない」などと言うのは、あまりにも失礼だ。
 この発言には、他者への感情や関係には序列があって、その中では「(性愛込みの)恋愛」が至上のものであり、友情や博愛といったものより重要だ、という価値観が表れている。「友達以上恋人未満」とか、「友達止まり」といった言葉からも、恋愛は友情より上、という風潮がひしひしと感じられる。
「本当に好きな人にまだ出会っていないだけ」――この台詞からは、「恋愛をしない人は未熟であり、人生経験が足りない」という見下しの目線が感じられる。人は、精神的にも肉体的にも順調に成熟すれば、恋をし、性行為をするのが当たり前であり、また逆に、恋と性愛を通して真に成長するのだと、しばしば考えられているのだ。恋愛や性愛をしたくならないのは子供だからであり、また無理にでも恋愛や性愛をしない限り、永遠に子供のままだ、と。 
 そういう目で見られていると、もう、何を言っても通じない。反論しようとしても、相手の言うことを素直に受け容れられないのは私が未熟で幼稚だからで、世の中みんながやっている「恋愛」を自分はやらないと突っ張るなんて、反抗期が終わっていないか、自分はみんなとは違うという思春期の病が長引いているだけだと思われてしまう。長いものに巻かれないのも、「子供」の証、というわけだ。
 そういう発言から分かることは他にもある。人が、恋愛や性愛をしない、あるいはしたくならないことなどあり得ない、と思われているということだ。肉体的に成熟すれば性欲が生まれ、性欲があれば他者と性的関係を持つことを欲し、それは恋愛感情を伴って一対一の排他的な人間関係になるのが当然。あるいは逆に、精神的に成熟すれば「恋愛」という形で他者に惹かれるものであり、愛する相手とは性的な関係を持ちたいと欲する、あるいは相手のその欲求を受け入れたい気持ちになるのが当然。そういう「人として自然な欲求」を持たない人間などいないというのが、一般的な考えなのである。だから、「恋愛や性愛に興味がない」と言うと、「そんなはずはない」としきりに言われるのだ。あなたはまだ分かっていないだけ、と。私たちの方がよく分かっている、と。
 おまえは、おまえが思っているような人間ではない、と言われ続けるのは苦しかった。おまえはおまえがそうありたいと願っているようには生きられない。おまえは必ず変わる。おまえが今思っているのは全部「本当」ではない、と。

 付き合いの長い、ごく親しい人から、「人に対して性的な気持ちが湧かないっていうのは、自分にはどうしても理解できない。決して眠くならない人を見ている気分になる」と言われたこともある。
 それくらい、アセクシュアル/アロマンティックというのは、あり得ない、存在しないと思われがちな指向であり、セクシュアル・マイノリティの中でも、今のところまだ認知が進んでいないもののひとつだ。
 だから正直なところ、LGBTという略称には違和感がある。LGBTというのは、広義にはセクシュアル・マイノリティおよびジェンダー・マイノリティ全般を指すけれど、狭義にはレズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシュアル(B)、トランスジェンダー(T)のこと。数あるセクシュアル・マイノリティ(またはジェンダー・マイノリティ)の中で、比較的よく知られている(=マジョリティである)カテゴリの頭文字を並べて全体を代表させるのはおかしなことだ。結局その括りの中で、マイノリティは不可視化されてしまう。
 最近はそこに “A” も仲間入りするようになってきたけれど、マイノリティの中のマイノリティからマイノリティの中のマジョリティに出世できたらいい、という問題ではない。まだ取り残されているマイノリティは無数にあって、全部並べたらアルファベット全部でも足りないだろう。だから、LGBTとかLGBTQAといった言葉はあまり使いたくない。
 と、いう話を、面接をした教授にはできなかったけれど。

 恋愛に興味がない、と言うと、相手の中で「誰のことも好きにならない」と変換されてしまうこともよくある。誰のことも好きにならない、誰のことも愛さない、と。
 他者に興味がない、とか、淡白だ、と思われることも。
「アセクシュアル」という概念が前より少し知られるようになって、そういったステレオタイプも固定されてきたように感じる(「アロマンティック」という概念はまだあまり普及していない)。アセクシュアルというのは、他者に興味がなく、ドライでクールで淡白で、他者の気持ちが分からない、ちょっと植物か鉱物みたいな人、というイメージ。もっと言うと、心が冷たい人、とか、寂しい生き方、というジャッジがされることもある。
 まず言っておきたいのは、他者に興味がなかろうが、人間を愛さなかろうが、それの何が悪いのか、ということだ。冷たいとか寂しいとか勝手に評価されるいわれはない。他者を愛することは別に偉いことでも何でもない。親切で礼儀正しくさえあればいい。
「誰のことも愛さないような人間『なんか』じゃない」「アセクシュアルだって『ちゃんと』誰かを愛せる」などとは言わない。それは、「愛」にコミットしない人を排除し、見下す言葉だからだ。「恋愛」や「性愛」に排除されてきたのに、そんなことはしたくない。
 でも、アセクシュアルに対するそういうステレオタイプ自体、正しくはない。恋愛や性愛に関心がある人々と同じように、関心がない人々にも、色々な性格がある。淡白な人もそうでない人もおり、陽気な人も物静かな人も、社交的な人も内向的な人もいる。
 愛にも色んな愛がある。私は友人やきょうだい、親、恩師や知人のことを愛しているし、ぬいぐるみや人形とも仲良しだし、薔薇の花やかなへびや海や冬の空気や竜が好きだ。博愛主義者なので、すべての人間や、生物や、無生物の幸福を願っているし、文学と言葉を愛している。私にとってはそれは大事なことで、ないことにされたくない。「本当の愛」じゃないなんて言われたくない。

「アセクシュアル/アロマンティックで苦労することは何?」と聞かれることがある。
 アセクシュアル/アロマンティックであるが故に苦労したことなど、ひとつもない。
 心ない言葉を投げかけられることも、恋愛をするように圧力をかけられることも、恋愛の話を誰もが共有できる話題であるかのように振られることも、他者の性的な侵襲に傷付いてもそれを「潔癖さ」のせいにされてしまうことも、自分は本当はアセクシュアル/アロマンティックではなく、未熟なだけなのだろうかと悩んでしまうことも――アセクシュアル/アロマンティックだから経験したことではない。
 アセクシュアル/アロマンティックに無理解な社会だから経験したことだ。
 それが、私が今この文章を書いている理由だ。

 でも、「世の中にはこんな変わった人たちもいるんです、知って、配慮して下さい」と言いたいのではない。
 私(たち)のことを知る前に、あなたはあなた自身のことを知る必要がある。

 私はとにかく、恋愛の話を振られるたびに、恋愛に興味がないので、と答え続けていたのだが、そうすると「本当に好きな人にまだ出会っていないだけだよ」といった心ないことを言われるだけでなく、「論破」しようとされることも多かった。
 相手は執拗に食い下がってきて、恋愛/性愛が人間にとって「自然」で「不可欠」なものであることを、私に認めさせようとするのだ。私がそれに反論すると、相手はナーバスになることもしばしばだった。
 どうしてそんなに必死になるのだろう。その人にとって恋愛や性愛が大事なものだから、という域を超えているように思えた。
 恋愛/性愛をしない人もいる、ということが、どうしてそんなに認められない――あってはならないことになるのだろう。
 それは、「恋愛/性愛は誰でもがする、自然なもの」と信じることによって、封じ込めてきたものがあったからなのでは、と私には思えた。
「誰にとっても当たり前で、自然なこと」と思い込まなければやっていられないようなこと、他の選択肢があったなら選ばなかったようなこと、深く考えずにやり過ごすしかないようなことがあるのではないか、と。

 そんな人たちの中には、自分では気付いていないけれどアセクシュアルやアロマンティックだったという人もいたかもしれない。恋愛や性愛をしない、という選択肢を持つことができず、無理矢理規範に自分を押し込めながら、みんなこうなんだから、と思おうとしていた人。
 あるいは、アセクシュアルやアロマンティックにはあてはまらなくても、既存の恋愛/性愛の制度に馴染めないものを持ち、それでも無理矢理その制度の形に自分を嵌め込んでいた人。

 私の話は、あなた自身の話とどこかで交差するかもしれない。それはあなたの知らなかったあなたかもしれない。
 あるいは私の話はあなたにとってどこまでも他者のものかもしれない。自分が何者であるかを知るには、他者の存在が必要だ。自分がなぜそれを「する」のか、「しない」人の話を聞いてはじめて分かることもあるだろう。
 あなたが他者に対して無理解だとしたら、無理解なあなた自身に対してあなたは無理解なのだ。
 あなたはあなた自身のことを知る必要があるし、その権利がある。

 この文章を読んでいるあなたは、アセクシュアル/アロマンティック当事者かもしれない。私とあなたは違う人間だから、この文章の内容がすべてあなたにあてはまることはないだろうけれど、一人ではないということがあなたの役に立つならば、一人ではないと言いたい。一人でもいい、とも。
 あなたは、今まで自分に合う概念が見つからなかったけれど、この文章の中でそれを見つける人かもしれない。それを自分のアイデンティティにするか、しないかはあなたの自由だけれど、知ることで息がしやすくなることはあるから、そうなればいいと思う。
 あなたは、はっきりマイノリティと言えるような性質は持たないけれど、この社会の制度や規範の中で自由に生きられない感じがしたり、何とも言えないもどかしさを覚えたりしているかもしれない。制度や規範を、変えたいと思ってもいいと知ることがあなたの助けになるかもしれない。
 あなたは、この社会の中で何の不満も感じていない人かもしれない。それなら、あなたのために作られたかのようなこの社会が、何を犠牲にして成り立っているのか、知っておいた方がいい。

 この社会の片隅に、私(たち)のための小さな居場所を作って、そこに私(たち)が存在するのを許してください、とお願いする気は、私にはない。
 この社会そのものが、変わる必要があるのだから。
 そのためにまずは、語る必要がある。私など存在しないとされてきた言説の空間をこじ開けて、私の言葉を語る必要がある。