A is for Asexual 川野芽生

A is for Asexual | 川野芽生

Kawano Megumi

#03

愛でホロコーストが止まるなら

 恋愛の話はとにかくつまらないので聞きたくない。

 現実の方で私に恋愛の話を振ってくるような人はもう絶滅したのだけど、残念ながら小説を読んだり映画を観たりしているときに、恋愛要素が入ってきてうんざりすることは多い。ジャンルが恋愛ものだったらはじめから読まないし観ないのだけど、「恋愛」はジャンルを超えてあらゆるところに出てくるから始末が悪いのだ。
 途中まで没入していても、主人公や主要登場人物が誰か(特に、同年代の異性)と親しくなりはじめたり、逆に出会い頭から反発しあったりしていると、「これは『恋愛』として描かれていってしまうのだろうか」という懸念が頭をもたげてきて、安心して鑑賞を続けられなくなることがよくある。
 現実だったら、「異性」とされる組み合わせの人が一緒にいるところを見たら恋愛関係だと断ずるなんてことは、当然だけどしない。だけど創作物には作り手の意図が張り巡らされていて、その意図に沿って登場人物が配置されているし、人と人の関係は、決められた道筋を通って、ひとつの方向に進んでいく、ことが多い(出会って、反発しあって、惹かれあって、関係を深めて、恋愛関係に至る、というように)。その意図がいろんなところに匂わされているので、「恋愛になっちゃうんだろうな」という懸念がゆうに終わったことは、悲しいことに数えるほどしかない。というか、その懸念が杞憂で済むのは、かなり自覚的に恋愛規範をひっくり返しに行っている作品に限るように思う。
 作り手の意図、と書いたけれど、創作物のすべてが意識的な、オリジナリティのある創作であるということはなくて、ある程度はパターンや「型」のようなものが(意識的にせよ、無意識にせよ)踏まえられているものだし、それが「惰性」になってしまっていることも多い。「愛」や「恋」は普遍的なものだと思われているから、どれだけパターン通りでも「陳腐」という批判を心配する必要がないのかもしれない。

 タイカ・ワイティティ監督による映画『ジョジョ・ラビット』(2019)を観た。
 ナチス政権下のドイツにおけるホロコーストを描いたコメディ映画で——と言うと奇妙に聞こえるかもしれない。でもこの映画は、しっかり笑えるコメディでありながら、ホロコーストを真剣に描いてもいる、良作だと思う。
 主人公の少年ジョジョのイマジナリー・フレンドがアドルフ・ヒトラーという設定からしてユニークだ。彼の目にしか見えないヒトラーが、自宅の台所でも森のキャンプ場でも熱烈にげきを飛ばす様には、笑っちゃうほど馬鹿馬鹿しいような、ぞっとするような、でも少年とイマジナリー・フレンドの交流として見ると妙に心温まるような、不思議な気持ちになる。それでいて、ジョジョのような幼い子供までもがナチスに傾倒してしまう心理や、異常なはずの状況に人がいかにたやすく飲み込まれてしまうかが伝わってくる。

 ジョジョは、優しい心の持ち主なのだけれど、人一倍臆病で、小柄で運動神経も鈍いので、友達は幼馴染のヨーキー一人だし、ヒトラー・ユーゲントの少年たちや教官たちには「臆病者のウサギ」(=ラビット)と馬鹿にされている。そんな彼だが、だからこそ、ヒトラーに傾倒してしまう。「国家」や「党」といった大きなものと自己を同一化させて、自分の小ささ、情けなさから逃避しようとしているのだろう。
 彼のそばにはいつも、彼にしか見えないヒトラーがいる。怖気づいているときには口角泡を飛ばして叱り飛ばし、失敗したときには激励してくれる。彼はヒトラーに認められたい。ナチス政権下で望まれるような、理想のドイツ人少年になりたい。
 ある社会の中で望まれる存在、理想とされる存在になりたいという気持ちは、(ナチス・ドイツほどわかりやすく歪んだ社会でなくても)危険なものだ。ジョジョは大人たちから教えられた通りに、ユダヤ人は邪悪な怪物だと信じ、「出会ったらぶっ殺してやる」と意気込む。それがナチス・ドイツでの「正しい」あり方だからだ。
 彼は特別に残酷なわけでも、邪悪なわけでもなく、ただただその社会で「正しい」とされる考え方を内面化しているだけだ。彼の心の中のヒトラーは、内面化された反ユダヤ主義がかたちをとったものなのだろう。
 一方、ジョジョの母親ロージーは、そんな一人息子に困惑し、持て余し気味の様子だ。「ドイツは負ける」とはっきり口にしたり、「あなたはまだ子供で、戦争だの政治だのにかかずらってる年じゃないの*」と諭そうとしたりしては、ジョジョと衝突する。この二人(そして、今は家にいない父親)が深い愛情で結ばれているのは確かなのだが、その間にナチスが亀裂を入れてしまっている。
 実は、彼女はジョジョにも秘密で、ナチスに対するレジスタンス活動に関わっていた。出征中と聞いていた父親も、本当はレジスタンス活動のため国外で身を隠していたのである。そしてロージーは、自宅でユダヤ人の少女エルサを匿っている。
 ある日、ジョジョはロージーの留守中に、エルサの存在を発見してしまう。ユダヤ人はせんめつしなければならないと信じている彼は、当然彼女を通報しようと考えるのだけれど、そうすれば母親も自分も、ユダヤ人を匿った犯罪者として逮捕されてしまう。心の中のヒトラーに鼓舞されながら、勇を振るってエルサを追い出そうと脅すも失敗、仕方なく彼女を懐柔しようと接触を図るうちに、ジョジョの内面には変化が生じてくる——
 のだけれど、実はこのあたりから私の心には嫌な予感が持ち上がってきていた。十歳の少年ジョジョと、十五歳の少女エルサ。この二人の関係を、というかエルサに対するジョジョの感情を、「恋愛」として描いていくのではないか、という予感だ。この年頃では五歳の差は大きいので、同年代とは言いかねるし、フィクションでは男の子の方が年上のパターンが多いので、すごく典型的、というわけではない組み合わせだけど、やはり「思春期の少年と少女」として出してきたなあ、という感じがするし、主人公の少年に対して大きな影響をもたらしそうな存在が少女の姿で出てくると、その「大きな影響」を与えるには「恋愛」をさせるのが一番手っ取り早いやり方だから。
 そして、その予感は外れない。ジョジョの気持ちが「恋」であることは、おでこに「恋」というスタンプを捺すかのようにわかりやすく描かれる。
 たとえば、エルサを見つめるジョジョのお腹の中で、たくさんの蝶がざわざわと羽ばたくシーンがある。実写映画の中でここだけ蝶のアニメーションが挿入されていて、ちょっとやりすぎじゃないかと思う。この蝶が恋の胸騒ぎのアレゴリーであることは、その前のシーンからも明らか。「愛(love)」とは、「恋(romance)」とは何かジョジョに説いて聞かせるロージーが、「人を好きになったら、その時は自分でわかるよ。感じるから。それは痛み。お腹の中がちょうちょでいっぱいになったみたいな」と言うのだ。
 エルサと出会って間もない頃から、ジョジョの恋心のきざしは見えている。エルサが婚約者の話をすると、ジョジョはすぐに「バカ彼氏と一緒にフランスに逃げるならご自由に」といった反応をするのだけれど、それが無自覚な嫉妬の裏返しであることがわかるし、その後も彼は会ったこともない婚約者に執拗な敵意を燃やして二人の仲を割こうと拙い策略を巡らしたり、それがエルサを悲しませたように見えると後悔して、二人の仲を取り持とうとしたりする。恋心から来る嫉妬と、同じく恋心から来る相手への思いやりの間で葛藤する、というのは、恋愛の描き方として典型的だと思う。
 ……今、私はジョジョの反応が嫉妬の裏返しだと書いたけれど、ほんとうはこんなことを書きたくない。というのも、恋愛の話を聞かされて「興味ないなー」と心から思っても、それを表に出すと「そんなこと言っちゃって、ほんとうは興味あるんでしょ」とか、「大丈夫だよ、モテるって!」とか見当違いなことを言われて、「恋に憧れる気持ちを隠している」か「モテないひがみを隠している」ということになってしまう、という経験を散々してきたから。別に恋愛をしている人たちにわざわざ「あなたのやっていることはくだらない」と言いに行ったわけでもなく、「恋愛に興味がない人なんていない」とぐいぐい押し付けてこられるから「その話には興味がない」と表明しただけで、そうなる。だからそういう解釈を映画の登場人物に対して施すのは嫌なのだけど、まあジョジョの反応の仕方は過剰で不自然で、本心に反していることが容易にわかるように描かれているので、そのように読み取るしかない。不本意。
 さて、ジョジョはエルサに対する恋心に目覚め、それとともに、彼女をゲシュタポ(秘密警察)に突き出そうなどとは思えなくなる。愛する母の刑死や、ナチス将校ながら人情味あふれるキャプテン・Kとの交流なども経つつ、彼は一人でエルサを守りながら戦時下を生き抜こうとする。現実にユダヤ人に出会ったことはなかったときには、大人に言われる通りユダヤ人を邪悪な怪物だと思っていたけれど、エルサに出会い、惹かれていく中で、ユダヤ人も“ごく普通の人間”であることを理解し、“人間対人間”として向き合うようになるのだ(人間、という言葉の用い方については、後で書きます)。そうなるとヒトラーの教えとのが生じてきてしまう。彼はついにイマジナリー・フレンドのヒトラーと訣別する。つまり、ヒトラーの洗脳が解けて、反ユダヤ主義やファシズムから抜け出すことができる。そして、ジョジョとエルサは生きて終戦を迎える。
 うーん、一見いい話だけど、いい話、なのか? 私はかなりもやもやしながらエンディングを迎える。
 男と女が出てきたら異性愛展開になるのが当たり前、という異性愛規範や、人と人が親しくなっていったらその最高潮は恋愛でしかありえないし、他者との出会いが人を変えるほどのものになるとしたらそれは恋愛でしかありえない、という恋愛至上主義、を感じるけれど、問題はそれだけではなく、この映画のテーマそのものに関わるところにあるような気がする。本当にこの映画はこれでよかったのか?

 この映画のテーマを一言で表すなら、「平和」とか「反差別」とか「人権」とか「反体制」とかではなくて、「愛」なんだろうな、と思う。
 二人の年上の女性、エルサとロージーは、いずれもジョジョに「愛」を説いて聞かせる。ジョジョが「彼女なんか作ってる暇はないんだ」と言うと、エルサは「今にわかるよ。他のことは何も考えられなくなる。いつの日かある人と出会って、その人をもう一度抱きしめることだけを夢見て日々を過ごすようになる、それが愛というもの」と言う。
 同様に、「恋なんかしてる時間はないよ。今は戦時中だ」と言うジョジョに、ロージーは「いいえ、いつだってロマンスのための時間はある。あなたもいつか特別な人に出会うんだよ」と言う。「愛は世界で一番強い」とも。
 「愛なんて」と言うジョジョが、人生の先輩であるエルサとロージーの言う通り、愛に目覚めて変わっていく。
 正直、子供に対して年上の人が「あなたも必ず恋をする」「今はわからなくても、必ずわかるようになる」と言うのは虐待だとすら私は思うのだけど(子供/大人とか年下/年上でなくてもきわめて不適切だと思う)。私が何度も投げかけられてほんとうにきつかった言葉です。

 でも、虐殺や差別や人権侵害を止めるのは、「愛」なんだろうか。
「愛」が博愛や人類愛——すべての人間や生き物の幸福を平等に真摯に願う気持ちだとするなら、そうなのだろう(多少の留保は必要だが)。
 けれど、この映画の「愛」は、「恋愛」のことだ。ロージーは「愛(love)」と「恋(romance)」という言葉を区別なく用いているし、エルサの「その人をもう一度抱きしめることだけを夢見て日々を過ごすようになる、それが愛というもの」という言葉からは、「愛」が恋愛を指すこと、それが身体的な接触を欲する心と何の齟齬もなく一致することがわかる。
 ロージーは夫とともにレジスタンス活動をしている。彼女が夫に成り代わって語る場面には、「昔レッド・サロンでロージーと踊ったのを思い出すよ」という台詞があり、二人の若い日のロマンスがちらりと見える。他の場面でも、ロージーは「昔はこの川辺も恋人たちでいっぱいで、歌と踊りと恋があったの」と語っていて、「踊り」と「恋」を結びつけている。川辺を埋める「恋人たち」のうちに彼らもいたのだろう。夫婦であり、レジスタンス活動の同士である彼らの存在は、ロマンスの延長線上に人類愛があることを暗示している。
 エルサの婚約者も「レジスタンス活動をしている」と語られる。実際には彼はもう亡くなっているのだけど、レジスタンス活動をしていたことは事実なのだろう。愛し合う者たちは、共にホロコーストに立ち向かう。「愛」を知っているから。
 一方、途中までのジョジョ、ヒトラーに心酔しているジョジョは、「愛」などすべきものだと思っている様子だ。恋の話に顔をしかめることは、ジョジョの幼さの印として描かれている。自分の気持ちが自分でわからずに、本当はエルサが好きなのに意地悪をしてしまうジョジョ。「愛は世界で一番強い」と言われて、「世界一強いのはミサイルだ。次がダイナマイトで、その次が筋肉」と言い返すジョジョ。その様子は、背伸びしてはいるがいかにも子供っぽい(嫌だなあ、恋愛をしたことがないとか恋愛に興味がないとか言うと、同年代の人からも「子供」だと思われて見下されてばかりだったことを、否応なく思い出してしまう)。恋愛への無関心とヒトラーに対する心酔は、ともに幼さゆえのこととして描かれているから、そのふたつがこの映画では結びつけられていると指摘しても、意外なことには思えないかもしれない。
 でも、そのふたつは「幼さ」を経由しなくても、もっと本質的な関係があるように描かれていると私は思う。「恋なんかしてる時間はないよ。今は戦時中だ」とジョジョは言う。彼にとっての最優先事項は、国家であり戦争であって、個人の幸福追求ではない。一方、愛の尊さを説くロージーは、「命は贈り物。祝福しなきゃ。踊って、神様に感謝を伝えなきゃ」「ダンスは自由な人間のすること。すべてからの解放」と言う。彼女が重視するのは、「幸福」であり「喜び」であり「自由」なのだ。
 「愛」とは根源的に「生きる喜び」そのものであり、それに反対する者は個人を抑圧する全体主義者、ということなのだろう。ジョジョ自身は全体主義者というよりはそれを模倣しているだけだけれど、その背後に浮かび上がる全体主義者像はそのようなものだ。今まで触れてきた様々なフィクションの中で、愛を知らない冷酷な独裁者、といった人物が繰り返し出てきて、そのたび苦い気持ちになってきたのを思い出す。
 けれど、「愛」や「恋」が人生の喜びに直結しない人だって当然ながらいるのだ。恋愛に興味がないことを表明すると、全体主義者とまでは思われなくても、ドライで冷たいとか、よくて「ストイック」「禁欲的」と思われる程度だった。恋愛に関わりを持たない方が私には幸福なんだと理解してくれる人はほとんどいなかった。いや、恋愛に関わりを持たない者が幸福でありうることなど、想定されていなかった。だけど、 「幸福」のあり方をひとつに定めるような考え方こそ、自由の反対であり、全体主義的じゃないか、と私は思う。
 私はずっとその全体主義に苦しめられてきた。
 恋愛をしない人はこの社会では少数であり、ナチスの構成員やその支持者たちが皆恋愛をしたことがなかったとはとても思えない。むしろその逆だ。大半の人が「愛」を知っていた。その上でユダヤ人を迫害していた。自分の愛する人々を守り、そのために、そこに入らない人々、「人間」と見なさない人々を切り捨てていた。

 映画の中で、親ナチス派の人々は、ユダヤ人は人間ではないと思っている。ヒトラー・ユーゲントの教官は、ユダヤ人は角や鱗を持つ化け物だと子供たちに説く。ジョジョはそれを頭から信じ込んでいる。
 はじめエルサを家から追い出そうとして失敗したジョジョは、家にユダヤ人が潜んでいるこの状況を有効活用しようと考えた結果、彼女からユダヤ人の特徴を聞き出し、ユダヤ人の見分け方の本を書こうと思い立つ。それを見透かしたエルサは、「ユダヤ人はドイツ人に似ている。でも私たちは人間」と言い放ち、またジョジョの持つ怪物としてのユダヤ人イメージに沿って荒唐無稽な作り話をしてみせ、彼を揶揄からかう。ユダヤ人は金に取り憑かれた悪魔、頭には角が生えていて、夜になると天井からぶら下がって眠る、動物に変身する能力を持ち、人の心が読めて――。揶揄われているとも気付かずに、ジョジョは熱心にその話を書き留める。
 最初の方に、ジョジョと幼馴染のヨーキーが「ユダヤ人をどうやって見分けたらいい?」「頭を触って角がないか確かめる。それに奴らは芽キャベツの臭いがする」という話をしている場面がある。後半で、ヨーキーはジョジョに「先月、森の中に隠れていたのを捕まったユダヤ人を見たよ。正直、なんでこんなに大騒ぎしてるんだかわからなかった。全然怖くなくて、なんか普通(normal)に見えた」と話す。この変化は、ジョジョ自身の内面の変化を映し出している。ユダヤ人は怪物ではなくて、「ノーマル」な存在なのだ。
「ノーマル」か「アブノーマル」か。そんな考え方でいいんだろうか。よくはなくて、ヨーキー自身、終盤のシーンで「ユダヤ人なんかより心配なことがあるよ。ロシア人がどこかそのへんにいるんだ。あいつらは最悪だよ。赤ん坊を食べるし犬と交尾するんだ」と、ユダヤ人に対する偏見をそのままロシア人に移し替えたようなことを言っている。
 私は前に、ジョジョはユダヤ人も“普通の人間”であると気付いていく、と書いた。でも、「普通の人間であることに気付く」なんて何の意味もない言葉だと思う。誰かが「人間である」と言うとき、そこには必ず「人間ではない」と切り捨てられる存在がいる。人間か人間でないか、という区分は、結局のところ権利や生命を尊重すべき存在かそうでないか、という意味で、その境界は恣意的に変更される。
 もしヒトラー・ユーゲントの教官の言うように、角や鱗のある人間がいたら、あるいはエルサの語るように天井からぶら下がって眠る人間がいたら、迫害は、虐殺は正当化されるか? されるわけがない。髪の色や目の色、肌の色による差別が許されないのと同じように。
 また、人間以外の存在に対する人間の搾取や虐待が正当化されうるか、と言ったら全くそんなはずがない。
 「人間」と「人間でないもの」、あるいは「正常な人間」と「そうでないもの」の間に線を引き、後者はじゅうりんしてよいものと定めることをやめない限り、同じことが繰り返される。

 この映画では(そしてこの社会の支配的な価値観では)、恋をしない者は単に幼いだけだ。恋をし、愛を知った者なら、差別や迫害になど与せず、他者の生命と幸福を尊重する。差別も迫害も、その「ノーマル」から外れた者が行うのだ。
 それは、「正常な人間」が何であるかを決定し、そこから外れた存在を悪魔化する考えだ。「ユダヤ人は人間ではなく悪魔である」と教えたナチスと変わらないんじゃないのか、それは?
 ホロコーストの標的となったのは、人種的少数者だけでなく、性的少数者や身体・精神障害者も多数含まれていたというのに?

 恋なんかしたことがなくても、他者が蹂躙されているときに心を痛めることはできる。差別に与しないことができる。迫害に対して立ち向かうことができる。そう私は言いたい。

 ところで、この映画で性的少数者が全く無視されているかといえばそうではなくて、キャプテン・Kはゲイなんじゃないかと思う。そう思わせるのはほんの一瞬のシーンだ。部下のフィンケル(いつも一緒にいる)の失態に対して声を荒らげたあとで「怒鳴ってすまなかった」と謝罪するシーンで、向き合った二人が一瞬だけ黙って見つめ合う。一瞬だけど、わざわざ入れたなと考えるには十分な長さだ。しかも、ジョジョがいることに気付いてキャプテン・Kはちょっと慌てた顔をし、フィンケルはやや大袈裟に顔を背けて去る。
 キャプテン・Kを演じているサム・ロックウェルは、その二年前にサスペンス映画『スリー・ビルボード』にジェイソン・ディクソンという警官役で出演している。このディクソンが、キャプテン・Kとかなり似ている役どころだ。彼は粗野でマッチョで横暴で、市民に暴力を振るう、はじめは嫌な奴としか見えない警官なのだけど、実はアメリカ南部の田舎町の警察組織というホモソーシャルな環境の中、ゲイであることを隠すために殊更にマッチョに振る舞っていることがわかってくる。彼は次第に、正義感にあつく情に脆いところを見せ、主人公の味方となり犯罪調査に本気になる。
 キャプテン・Kも、はじめは粗野で横暴に見えるが、どうにも情けなく憎めない人物として描かれる。彼はナチスという組織の中にいながら、ナチスによるユダヤ人狩りのことをうんざりした様子で口にするし、ジョジョの家にゲシュタポの捜査が入った際には助けに来て、エルサがユダヤ人だと気付かないふりをして匿う。最後には、ドイツを制圧したアメリカ軍にジョジョが捕まった際、一芝居打って彼を助け、自分は銃殺される。もしかしたら監督は、『スリー・ビルボード』を踏まえて、サム・ロックウェルにクローゼットのゲイを演じさせたのかもしれない。彼がゲイだとすれば、キャプテン・Kの人物像には納得がいく。
 と、思ったら実際、監督がキャプテン・Kを「ナチスに幻滅したゲイの将校」だと語っていたという、サム・ロックウェルのインタビュー記事を見つけた(https://www.banger.jp/movie/26481/)。
 そうなると、この映画の主要登場人物には、本当にナチスを支持していると言える者は実は一人もいないことになる。「主要」というところを外しても、かなりコミカルに戯画化された、ヒトラー・ユーゲントの女性教官と、一度しか出て来ないゲシュタポ隊員くらいではないだろうか。「あんたはナチじゃない、ジョジョ。鉤十字が好きで、変な制服を着たがって、クラブの一員になりたがってる、ただの十歳の子供」とエルサは言う。ジョジョは大人の真似事をしているが、彼の両親は反ナチだし、ナチスの将校も実はむしろナチスに迫害される側。
 この映画では、ヒトラーはジョジョの心の中にしかいない。みんな実はいい人で、悪人なんかいない、というのがこの映画の特徴で、もしかしたら最大の難点なのかもしれない。誰か一人の悪人のせいにしろという話ではない。根っからの悪人なんかいないとしても、みんな人を愛する心を持っていても、それでもホロコーストは起きたのだ、というところから考え直さないといけないように思う。

 おわりに。実は、この映画の納得行かない点のひとつに、イマジナリー・フレンドの描き方がある。人間でないものといえば、イマジナリー・フレンドも人間ならざる存在だ。
 ジョジョは最後、イマジナリー・フレンドのヒトラーを窓から蹴り出す。それは自己の中のファシズムに訣別を告げることの象徴ではあろうけれど、ジョジョが初めての恋を経験する過程の末に置かれたこの描写は、「生身の他者と触れ合うこと」と「空想上の友人と親しむこと」の対比のように見える。幼い少年が、空想上の友人にそそのかされてファシズムに傾倒し、生身の少女に恋をしてファシズムから脱却する、そういう構図になってしまう。
 別に友達がイマジナリーだっていいじゃないかと思う。生身の恋人や友人がいなくたってファシストになるわけではない。というか、生身の人間がいないとファシズムは成立しないのでは、と思う。
 別の決着をつけてほしかったなあ、と私は思う。現実のヒトラーはこの場面までに自殺しており、戦場と化した街の中でヨーキーからそのことを知らされたジョジョはショックを受ける。自分たちをこんな状況へ導いておいて、皆を見捨てて一人で死へ逃げ込むなんて、と幻滅しているように見える。
 私は夢想する。その後、自身のイマジナリー・フレンドと対峙したジョジョが、「ヒトラーは死んだはずだ」と告げる場面を。「それなのに、どうしておまえはまだいるんだ? おまえ、ヒトラーじゃないな?」するとイマジナリー・フレンドの形が崩れていき、何かに——人間でない生き物の姿か、不定形の何かになる。はじめからイマジナリー・フレンドは、ヒトラーその人ではなかった。ジョジョが望む姿を取っていただけで。ジョジョはその後もイマジナリー・フレンドを大切にし続ける。そういうストーリーを。

*映画の台詞は原文より拙訳。

※タイカ・ワイティティ監督は昨年十月、パレスチナの人々に対するイスラエルによるジェノサイドが激化する中で、イスラエルを支持するハリウッド関係者らの公開書簡にサインしている。それは容認しがたい行いであると考えていることを付記しておく。