A is for Asexual 川野芽生

A is for Asexual | 川野芽生

Kawano Megumi

#06

付き合うって何なんだ(後編)

 ところで、「付き合う」って何なんだろう、ということを前回から書いてきたけれど、私は「恋愛」に何か本質とか定義とか必要十分条件といったものがあるとは思っていなくて、むしろこの概念を空っぽの箱のように感じている。でもそれが空っぽの箱であるというだけでは、「恋愛」を理解するのには充分ではなくて、いや、私が「恋愛」を理解しなきゃいけない義理はないのだけど、「恋愛」を巡って多発する人間関係の事故を回避するために、その箱に人々が何を入れているのか、何が入っていると人々が思っているのかを知る必要があると感じていた。

 そしてそれは「人々が」どう思っているかであって、特定の個人がどう思っているのか、とは少し違っていた。特定の個人がどう思っているのか理解するには、その人と向き合って話をするのが一番のはずだ。それが、ほんとうに個人の考えであるのなら。けれど、人が「自分の考え」だと思っていない部分は、なかなか言葉にされない。その考えが他者にも当然共有されていると思っており、伝達の必要があるとは認識していないからでもあるし、そもそも意識の表に出てくることもないからでもある。だから、一人と一人が話しているはずの場面で、「みんなこう思ってるよ」というのが、しばしば明示的でないかたちで混入してくることになる。「みんなはどう思ってるのか?」を参照しないとわからない部分が、個人間のコミュニケーションにおいても無数にある。

 それは文字通りの「みんな」(=一人残らず、全員)では全くない。自分の考えが「みんな」と一致していると信じて疑わない人を複数並べたら、全員まるで違う観念を持っていた、というのはよくある話だ。けれど、完全に人それぞれだねというわけにもいかなくて、ある程度共有されている観念はあるようだ。少なくとも、「恋愛」の絡む人間関係上の摩擦に関して、第三者に口を揃えて「それはあなたが悪い」と言われることがしばしばであった 、という私の経験* に照らすとそうなのだろう。

 そのような前置きをしつつ 、「恋愛」とは、「付き合う」とは何だと考えられているのか?という話を続けたい。

 いろんな人に「付き合うって何? 友達とはどう違うの?」と聞いてみた時、「性的関係」と同じくらい多くの人が挙げていたのは、「唯一無二性」とか「独占」という要素だった。

 まず、「独占」について考えてみる。

 「独占欲が湧くのが恋愛だ」「他の人に取られたくないから付き合う」という説明をよく聞いた。

 うーん、分からない。

 なぜかというと、私は友達に対して独占欲を感じるからだ。友達の友達に嫉妬することもあるし、友人たちが自分の知らないところで遊んでいると寂しく感じることもある。

 でも、現実に相手を独占しようとは思わない。他者は独占できないし、してはいけないものだから。

 というか他者に独占欲を覚えるのもはじめてみたいな人たちが、私に対して「まだいい人に出会ってないだけだよ」「本当に人を好きになったらわかるよ」とか上から目線で言ってきてたんですか? 「恋愛」というパッケージを利用できる(相手が異性だったり、性的な関係を結ぶのに抵抗がなかったりする)人は堂々と相手を「独占」する契約を結べてイージーでいいね〜。でも他者をほんとうの意味で独占することなんてできないから、これからぼちぼち独占欲との付き合い方を学んでいきなよ。という気持ちになったものでした(これは嫌味であって、他者に独占欲を覚える方が偉いわけでも、独占欲がない方が優れているわけでもないことは承知の上です!)。

 なんで、恋愛なら他者を独占したり束縛したりしていいことになっているんだろう。友達関係だったら、独占欲をあらわにしたら引かれる(ことが多い)と思うんだけどな。

 私は、独占欲があると言っても、現実的には、友達にはなるべく自分以外の友達がいた方がいいと思う。いや、小学校五年生まで友達が一人もいなかった私としては、友達は多いほどいいという価値観には抗っておきたくて、友達がいらない人は友達いなくていいと思う。でも友達関係に価値を感じている人には、必要なだけ友達がいたらいいと思う。あなたが心地よくいられる関係や場がなるべくたくさんありますように。あるいは、心地よくいられることを阻害する関係や場からなるべく自由でいられますように。

 友達のそばに、いつだって私がいられて、必要なものをすべて差し出してあげられたらいいのかもしれないけど、それはできないから。私がいない時でもいつでも幸せでいてほしいし。

 しかしそうすると、他者を独占する契約を結べる人は、自分が独占される覚悟もあるということなのかな、いつでも相手のそばに駆け付けられる自信があるのかなと思ったこともあって、考えてみると私は自分が誰か一人だけのものになる気は全然ないのだった。お互いに、独占したいしされたい、と思っている人同士が独占契約を結ぶこと自体は、合意の上なら問題ないのかもしれない。覚悟あるなあ。

 いや、どうかなあ。やっぱり恋愛関係や婚姻関係がDVやモラハラ等の暴力の温床になる率って他の関係に比べて如実に高い感じがするし、その理由の一端は、「相手を独占することが許されている(むしろ推奨されている)」という認識にあるんじゃないかな。独占契約自体が悪いとは言わないけど、「(感染症予防のため)性的関係を結ぶ相手を限定する」とか、「(家事や育児といった大きなプロジェクトを運営するパートナーの場合)リソースの分散を防ぐため、他に家庭を持たない」とか、何のために何を独占するのか明確にした方がよくて、他者の人格まるごと独占できると誤解してしまうとトキシックな関係になりやすいんじゃないのかな、と思う。

 

 その「独占」をもっと抽象化すると「唯一無二性」になるのかもしれない。

 「恋人は一人だけだ、それが友達とは異なる」という返答をよくもらった。「友達は何百人もいるけど、恋人は一人しかいないでしょ?」と言われたこともある。何百人もいるのは「友達」じゃなくて「Facebookの友達」じゃない?と思った(口に出した)。

 しかし「恋人は一人」というのは別に誰にとっても当然のことというわけではない。ポリアモリー** の人が現実に存在しているということは、「人数が一人に限られる」こと以外に「恋愛」を他の関係から区別する要素が当人たちにはあるはずだ。

 ところで、「ポリアモリーの人」と「単なる浮気性の人」を区別する際に、「ポリアモリーの人に求められる誠実さ」のひとつとして、「自分がポリアモリーであることを隠さず、きちんと交際相手に伝える」ことが挙げられることが多く、それはそうなんだろうけど、それならモノアモリー*** の人も「特に言及しなければモノアモリーであるのが当然である」と思わずに「私はモノアモリーであり、自分の交際相手にも同時に一人としか交際しないことを求める」ということを誠実に伝えておいた方がいいんじゃないかな、と思う。パラレルワールドの私がアロロマンティックだったら、「付き合ってほしいと言われたから了承したが、他の人と付き合ってはいけない なんて聞いていない」と主張していたはずだ。

 ポリアモリーが多数派の社会だったら、「自分がモノアモリーであることを隠して交際して、後になってから『自分以外の人と交際しないでほしい』と言い出すなんて不誠実」と言われていたと思う。あるいは、「恋人は一生涯に一人だけ」という規範のある社会だったら、「恋人と別れたので別の人と付き合う」という行為はおそるべき不誠実だと見なされるだろう。

 けれど、私が引っかかっているのは、実は「恋人は同時に一人までとされている」という部分ですらない。ポリアモリーの人は、複数の人と交際する際には、隠すことなくすべての交際相手の同意を取ることが必要とされている、と聞く。「友達」だったら、そういうことは基本的に起きない。誰かと新しく友人関係を築く際に、今いる友人全員の承認を得る必要があるとか、新しい友人に今いる友人全員について知っておいてもらう必要があるとかいった話は聞いたことがない。だからやっぱり、恋人が複数存在する場合でも、「唯一無二性」のような要素は変わらず存在するのだ。ここでいったん、「唯一無二性」ではなく「排他性」という言葉を使ってみるが、恋愛関係における排他性というのは、人数のことではない、のだと思う。

 あるいは、たとえば「恋人」という名前をつけた関係を持つ相手は一人だけだったとして、「恋人」でも「友人」でもないオリジナルの名前をつけた関係を他の人と築くとする。名前のついた関係ひとつにつき、相手は一人だけとする。「もちろん、恋人はあなた一人だよ。◯◯君は私のたった一人のザジズゼゾで、××さんは唯一無二のパピプペポなんだ。△△ちゃんはかけがえのない大切なラリルレロだよ」と言った場合、なんかわからないけど、私は恋人からも 周囲の人からも 非難を受ける可能性が高い気がする。「恋愛関係」の排他性の話をする時、明示的には「性的パートナー」の排他性——つまり、性的な関係を持つ相手が同時に一人だけであること——によって説明する人が体感では多いけれど、性的関係を持つ相手を「恋人」に限定したとしても、ザジズゼゾやパピプペポの存在を、「恋人」の唯一無二性への侵害だと直観的に感じる人は(前述したような説明をする人にも)多そうだ。少なくとも、ザジズゼゾやパピプペポのことを恋人である人にちゃんと説明して了解を取りなさいよ、とは言われる気がする。

 「友達」や「親友」の存在について、「恋人」に了承を取るべきだと主張する人は少ないと思う。その「友達」や「親友」が恋愛対象の性別である場合には、恋愛関係とのコンフリクトを起こしうるから了承を取るべきだと考える人の割合はぐっと上がるけれど、それはその相手が「友達」「親友」だからではなく、「友達」「親友」というのは建前で、実質的には「恋人」候補なのではないかと疑っているからのように思われる。

 現実には、恋人が友達に嫉妬することも、友達が恋人に嫉妬することもあると思うけれど、それが恋人/友達として「当然の権利」だと主張して自分に分があると考える人は少ない。でも、どこかしらで(交際前に話し合っていなくても)「恋人として当然の権利」だと思っているラインがあるようだ。

 その「当然の権利」の中に、「恋人という関係の特別性、唯一無二性」というか、「『唯一無二性』の『排他性』」みたいなものが含まれているのじゃないかと思う。「かけがえのない、唯一無二の関係」として名前をつけた関係が「恋人」以外にたくさんあったりしたら、「恋人」の「恋人」性が損なわれると考える人が多そうだからだ。

 

 もう少し仮定を進めて、私の恋人(※いない)が私のザジズゼゾ(※いない)の存在を認めてくれていたとして、「ごめん、その日はザジズゼゾとの予定があるから」とか、「うーん、ザジズゼゾにも聞いてみないとな」と私が連発していたら、「恋人よりザジズゼゾの方が大事なのか?」と怒り出す可能性は結構高い。程度の差こそあれ、「恋愛関係は他の関係より優先されて当然である」という考えは、持っている人が多い感じがする。「え、付き合う時にそんな約束はしなかったよ」と私が反論したとして、「それは屁理屈だ、付き合うなら当然のことだ」と言われそうだ。

 優先順位の高さ、というのも、だから、「付き合う」と言うときの内容に含まれる場合が多いっぽい。 

 ここは人によってある程度分かれるところではある。明示的に「他の何よりも恋人を優先しろ」と要求される場合それはDVだから別れた方がいい、という風潮は現代にはあると思う。あるいは、「自分の友達が何につけても恋人を優先するので、自分は軽んじられているように感じる」と口にしたら、共感されこそすれ、非難は浴びないと思う。つまり、現実には「友人より恋人を優先する」人は多いけれど、規範として「そうすべきである」という考えが共有されているかどうかはコミュニティごとに異なる。だけどこれも微妙なところで、「自分の恋人が何につけても友達を優先するので、自分は軽んじられているように感じる」という悩みを持っている人がいたら、「別れろ」と言う人と「恋人に自分のことを尊重してくれるように伝えて話し合え」と言う人がまあ半々くらいはいそうだけど、「自分の友達が恋人を優先する」と悩む人に対しては「その友達とは距離を置け、友達をやめろ」と言う人の方が多いのではないか、「友達に自分のことも尊重してほしいと伝えて話し合え」という意見は他者を過度にコントロールしようとするものと感じる人が多いのではないか 、という気がする。

 恋人であれ友人であれ、他者との関係のことだから、露骨に「あなたとの関係より他の人との関係の方を優先する」という態度を取ったり口にしたりしたら、まあ当然嫌な気がしますよね、という以上の何かがやっぱりあるなと思う。

 

 つまるところ、「恋愛」の「唯一無二性」というのは——そして、「恋愛」の「恋愛」性 というのは、他の関係から差別化されているということなのではないだろうか。「友達」や「知り合い」とは違う特別な関係であるということに意味があって、その差別化の手段として、「その相手とのみ性的関係を結ぶ」とか、「一人に限定する」とか、「他の関係よりも優先する」などが(そのうちのひとつないし複数が)採用されているということなんじゃないかと思う。

 そして私は、特定の関係を他の関係から差別化したいとは思わないのだな、と気が付く。

 ある関係を「他の関係とは違って、特別であり、唯一無二である」と見なすことは、他の関係を「特別ではない、唯一無二ではない」と見なすことだ。けれど私は、他者との関係はひとつひとつすべて異なり、交換不可能だと思う。唯一無二ではない関係はないし、唯一無二ではない他者はいない。

 あるものと他のものを差別化するというのは、別の見方をすると、それらを同じ平面上に並べるということであって、その時点でそれらは比較可能な、あるいは交換可能な項目であるということになる。たとえば(モノアモリーの人が)恋人は一人であり、それゆえに唯一無二だと語る時、それは逆なのではないか、と私には感じられて仕方なかったのだ。つまり、「一人」と限定する時、「一人」という枠が先にあって、相手は複数の選択肢の中から選択して代入されうるものとなる(実際には他の候補が存在しなかったとしても)。一人でも二人でも百人でも同じで、取捨選択が可能となった時、唯一無二性は本質的に損なわれるのではないか。ほんとうに唯一無二であるということは、ほかにどんな関係があり、どんな他者がいようと、その唯一無二性が失われることはない、ということなのではないか。ひとつひとつの関係は、全部違う次元にあって、比べることも交換することもできないはずなのに、この関係が一番大事だとか、この関係だけは他の関係と違うのだとか見なした時、すべてが交換可能な項目に貶められてしまう。そのように私には思われる。

 私が他者と恋愛関係になりたいと思わない、(たとえ、「性的関係」といった要素がクリアされていても)「恋愛」というラベルを他者との関係に貼りたいとは思わないのは、そのためなのだろう。

 

 無論、だから関係に「恋愛」というラベルを貼ることを拒絶するなら、「友達」というラベルをも拒絶するのが筋なのではないか、という論は成り立つし、それは正しいと思う。数年前まで、私は「友達」という概念も廃止して、すべてのひとを「ひと」と呼んでいた。しかし今は「友達」という呼称を復活させている。相手との関係に心地よさを感じていることを示したり、もっと親しくなりたいという意思を示したりするのに、「ひと」ではどうも不足だったからだ。

 だから、「恋愛」という呼称を使用する人も、その名で呼ぶことによって実現したい在り方があり、実際的な必要性を持ってそうしているのだろう。名付けというのは意思表示の側面を持ち、事実の記述であると同時に行動でもある(事実確認的発話と行為遂行的発話、という言い方をしてもいい)。名付けによって切り分けられた時に死んでしまうものがあるとしても。言語使用とはそういうものだと言われれば、そうだ。

 「恋愛」という名付けによって実現したい在り方、というのはそれもまた人により場合によるけれど、「恋愛」という空っぽな箱に     収められがちなものとしては、今まで検討してきた「性的関係」「独占性/排他性」が見られる。だから、それらを重視する人は「恋愛」という概念を採用する動機がある場合が多いのだろう。

 厄介なのは、「恋愛」をその箱に収められるものによって語る語りと、箱自体から語る語りが併存しており、その区別がなされない——つまり「恋というのは性的関係を持ちたいという気持ちのことだ」といった語りと「恋というのは相手を大事に思い、特別に思う気持ちのことだ」といった語りが混在し、「相手を大事に思い、特別に思うならそれは恋で、恋である以上は性的関係を持ちたいと思うはずだ」、というふうに論理がスライドしていってしまうということだ。そのようにして、本質的な結びつきはないはずの「性的関係」や「独占性/排他性」と「特別さ/唯一無二性」とが、まるでイコールのように見なされてしまっている。性的関係を伴う独占的な関係がイコール他の関係とは異なる特筆すべき関係である(他の関係はそうではない)ということにはならないし、唯一無二の関係は必ず性的関係を伴う独占的なものになるべきであるということもないにもかかわらず。

 そして、私にとって苦しいのは、「恋愛」の箱に収められがちな「性的関係」にも「独占性/排他性」にも価値を見出さない私には、「恋愛」という概念を採用する実際的な必要性がないにもかかわらず、それゆえにこそ、「恋愛」が純粋に概念的なものとして、純粋に「唯一無二の関係」の謂として浮かび上がってきてしまうことがある、という点なのかもしれない。つまり、他者を唯一無二の存在と思うなら、なぜそれを「恋愛」の箱に入れないのか、と迫られることがあるという点だ。しかし私はそれを「恋愛」と名付ける必要性を感じないために、名付けによって損なわれるものをどうしても呑み込むことができないのだ。

 

 結論。私は形而下的な観点からも形而上的な観点からも——つまるところ、実際的な必要性の観点からも、抽象的な理念からいっても——、「恋愛」という概念とはかなり相性が悪い。

 こんなに相性の悪いものについてこんなに頭を悩ませなくてはならないなんて、恋愛伴侶規範は恐ろしいものである。

 

* 詳しくは#4「関係性の最上級?」参照。

** ポリアモリー……同時に複数の相手と恋愛関係を持つ、あるいはそうしたいと思うこと。あるいはそのような人。

*** モノアモリー……同時に一人の相手とのみ恋愛関係を持つこと、あるいはそのような人。