少し立ち入ったことをお聞きします
内田英治監督『ミッドナイトスワン』(2020)を筆者はまったく評価できなかった。主人公・凪沙(草彅剛)がタイの病院で性別適合手術を受けて帰国するものの、術後の経過が悪く、でもそれは本人の責任放棄が原因で、まるでバチが当たったかのように衰弱死していく描写に憤りを感じ、また『ベニスに死す』の滑稽なパロディのようなエンディングにも首をかしげざるを得なかったし、そのほかにも、西原さつきがせっかく脚本監修をつとめたはずが、新宿の描写をはじめとして疑問符のつくシーンのオンパレードだった。
とはいえ『ミッドナイトスワン』が公開された2020年9月から、翌21年7月の東海林毅監督『片袖の魚』、22年1月の飯塚花笑監督『フタリノセカイ』と劇場公開が続いた一連の期間は、日本映画において真摯なトランスジェンダー描写がようやく開始されたことで歴史のページに記述されるべきである。しかし事情は複雑であり、『フタリノセカイ』の場合は監督自身がFtoMトランスジェンダーであることを公表しているが、主人公のトランスジェンダー男性を演じたのは坂東龍汰だった。一方、『片袖の魚』ではトランスジェンダーのイシヅカユウ、広畑りかがメインキャストを演じることができた。
飯塚花笑にとって今回の新作『ブルーボーイ事件』は、前2作『フタリノセカイ』(2020)と『世界は僕らに気づかない』(2022)とは比べものにならない高バジェットの作品だろう。制作オフィス・シロウズ、配給は日活とKDDIという体制である。飯塚の監督作は『フタリノセカイ』と『世界は僕らに気づかない』しか見ていないが、正直なところ映画としては弱い点も多い。ただし前者の片山友希と坂東龍汰、後者の堀家一希とガウというふうに、特定の演者が突出的にすばらしい存在感を発揮する。飯塚作品のこの特質は高バジェットの今回もはたして健在だろうか。
『ブルーボーイ事件』は、性別適合手術をおこなった実在の産婦人科医が1965年に優生保護法違反で逮捕された事件を扱う。アバンタイトルの日活ロゴには1960年代当時のものを使用して、冒頭から雰囲気を盛り上げ、ブルーボーイの買春グループを警察が一斉検挙するシーンは、当時の新宿二丁目の街並みを、昭和の景観が残存する前橋市を中心とする群馬県の各地区を上手に改造して再現した。映画前半における美術・小坂健太郎、装飾・大谷直樹の仕事ぶりがすばらしい。弁護士事務所のオフィス、内廊下のセットデザインも出色である。ところが後半に至り、公判が進行するにつれて、こんどは芦澤明子の撮影、菰田大輔の照明、普嶋信一の編集が異様なテンションに持っていく。ミニマルな前2作以上にスタッフワークに支えられた作品と言っていい。
性別適合手術をおこなってきた医師・赤城先生(山中崇)の弁護を担当することになった弁護士・狩野卓(錦戸亮)は、証人台に3名のトランスジェンダー女性を召喚する。この裁判の核心は、性別適合手術の是非がスケープゴートだという点にある。東京オリンピックから大阪万博へという流れの中で、左翼運動の鎮圧と性風俗の浄化は政府にとって喫緊の課題だったのであり、戸籍上は男性であるかぎり、街中で堂々と春を売るブルーボーイたちを売春防止法で取り締まれないことが問題視された。検挙されたあと、すぐに釈放されたメイ(中村 中)が言う。
「そりゃ、骨折り損でお気の毒ですもの。法律上は男ですから、売春防止法じゃ捕まえられませんものね。ふふふ。それとも、法律でも変わったのかしら?」
しかし変わったのだ。法律の運用方針が。留置された赤城先生と面会した狩野弁護士のやりとり――
「捕まえられないなら、いっそのこと…」
「手術をした人間を捕まえてしまえと」
「おそらく。国を挙げて性転換手術をやめさせようとしている意図は明らかです。彼らはやる気になったらなんでもできます。曲解に近い優生保護法を持ち出してまで、性転換手術を違法だと認定させたいのでしょう」
赤城先生の役を演じた山中崇の芝居は異様なまでに抑制的で、この映画の中では問題の発生源であると同時に、台風の目のような静謐さとともに空虚の中心としてある。嵐を巻き起こすのはもっぱら狩野弁護士と時田検事(安井順平)のふたりであり、赤城先生という台風の目の周りで風神雷神の役割を演じる。この人物図配置のバランスこそ、飯塚花笑監督の演出の妙味なのかもしれない。
パロールの問題
3名の証人――メイ、アー子(イズミ・セクシー)、サチ(中川未悠)の性格分けはやや極端にステレオタイプ化されてはいたが、トランスジェンダーとしてのステイトメントが補完的に多面化されていた。狩野弁護士の尋問は初期においてはエラーばかりであり、そこから予想外の悲劇さえ生まれる。トランスジェンダーに関する認識は時代性を鑑みれば、狩野の失敗はきわめてリアルなもので、飯塚演出においては、狩野弁護士はヴァーチャルなわれわれなのである。学習を重ねながら狩野の尋問は核心を突くようになっていき、というよりも、核心を突くために黙って聞く姿勢に傾いていき、それにつれて、証言は性別適合手術の是非という当初のイシューを超越し、より大きなジェンダー論へと変容していく。
したがってこの映画は、1965年に起きたブルーボーイ事件に材を取りつつも、性同一障がいに対する生の構築をめぐるインタビュー映画となる。
「少し立ち入ったことをお聞きしますが、お気を悪くなさらないでください」
「はい」
「昭和39年、坂口さん(サチのこと)は赤城先生の執刀により、睾丸摘出と陰茎の切除手術をなさいましたね」
「…はい」
「近々、女性器の形成手術を予定されていた」
証人依頼をした狩野弁護士とサチの事務所での、初対面時のやりとりである。「少し立ち入ったことをお聞きしますが、お気を悪くなさらないで」などと狩野は予防線を張っているが、この慇懃な無礼さはわれわれ観客のポートレイトとしてある。証人尋問は稚拙なものからやがて成熟し、公判じたいが歴史の推移を表象する。長年にわたり映画評論家をつとめてきた不肖私の所見でもあるが、インタビューとは問われる者への問いであると同時に、問う者への問いでもある。1965年ブルーボーイ事件は結果的には、日本のジェンダー・アファーミング・ケア(本人の性自認に沿って心身を整える医療ケア)の歴史的観点からすれば大きな損失と後退を強いられた事件であるが、映画作家はその渦中に分け入り、フェルディナン・ドゥ・ソシュールの言う意味でのパロールとして提起したように思える。
パロール(parole)とは単純化して言えば、社会全体で日々運用される言語体系の規範と通念に則った上で発せられる、ある特定の言葉の具現化である。また、刑法上でパロールとは「仮釈放、仮出所(=release on bail)」を意味し、転じて「誓約」をも意味する。パロールのソシュール的な運用と刑法的な運用とが交錯するこのダブル・ミーニングこそ、『ブルーボーイ事件』を貫く原理たり得てはいまいか。
2022年レインボー・リール東京(東京国際レズビアン&ゲイ映画祭)で上映された『アグネスを語ること』(Framing Agnes/2022)もまたトランジェンダーをめぐるパロレーションの一例であり、監督のカナダ人チェイス・ジョイントは飯塚花笑と同じくFtoMのトランスジェンダー作家である。1958年におけるUCLAのトランスジェンダー対面調査の被験者たちの言動を、現代のトランスジェンダー文化人たちが、UCLAに保管されていた当時の発言記録を暗記して、インタビュー場面をフェイクドキュメンタリーとして再演するという、二重三重に仕掛けが施されていた。チェイス・ジョイントはこれを「framing(枠取り)」と名付けたわけであるが、彼の言う「framing」はパロールと同義であろう。このカナダの映画作家はそこに映画用語としてのフレーミング、つまり画面の構図を決めることを内包させたにちがいない。
『アグネスを語ること』のUCLAの研究者たちの役割を、『ブルーボーイ事件』では弁護士、検事、裁判官、さらには事件当事者や証人たちを追いかけ回して扇情的に報道する週刊誌記者たちが(集合的に、かつ日本的野蛮さで)務めている。しかしながら、飯塚花笑はマスコミの扇情主義に対して怒りをもって演出しているものの、後半にいたって、証人台に立って語るサチの背後に陣取っていた記者たちの嘲笑的な表情が、公判を追うごとに変化していっていることに気づいておきたい。菰田大輔の照明はまるで政治的アジテーション演劇のごとく、サチに強い照明を当てているために、背後の傍聴席はほとんどフェイドアウトしかかっているが、それでもわれわれ観客は、傍聴席にいつも来ている顔をだいたいのところ記憶できるから、これら「常連客」の姿勢変化には注目せざるを得ない。このライティングの明暗さえもが、日本のジェンダー史を告発的に示すパロールの一部を成している。
(ほとんどわれわれ観客に向かっているかのごとく)
サチの切り返しに暗めの照明でカメラを向けられたわれわれ現代人はどんな顔で彼女に相対し、どんなパロールを用意しうるのか。
P.S.
追伸として筆者は、サチの婚約者・若村篤彦を演じた前原滉と、彼の田舎の母親を演じた梅沢昌代のふたりの演技には感情をひたすら揺さぶられたことを付言しておきたい。篤彦はサチを女性として愛し抜いているが、彼は足が不自由である。「空襲の時に親の不注意であんな体にしてしまった」と吐露する母は、「あの子は田舎では良い思い出なんかない。せめて東京生活ではどうかよろしく」とサチに懇願する。
その欠損ゆえに愛を最も純粋化しうる精神のモデルとして、筆者は木下惠介監督の最もクィアな作品として評価される『惜春鳥』(1959)で、山本豊三が演じた馬杉彰を思い出した。馬杉の父親役・宮口精二にも梅沢昌代の「親の不注意で〜」


『ブルーボーイ事件』
11月14日(金)より全国公開
監督:飯塚花笑
脚本:三浦毎生 加藤結子 飯塚花笑
出演:中川未悠 前原 滉 中村 中 イズミ・セクシー 真田怜臣 六川裕史 泰平
/山中 崇 安井順平/錦戸 亮
制作プロダクション:オフィス・シロウズ
配給・宣伝::日活/KDDI
©️2025『ブルーボーイ事件』製作委員会
106 分/カラー/アメリカンビスタ
今月のThe Best
ムガリッツ
配給会社ギャガさんのお仕事でドキュメンタリー映画『ムガリッツ』の先行試写会イベントに登壇する機会をいただいた。「ムガリッツ(Mugaritz)」とはバスク地方サン・セバスティアンの郊外にあるレストランの名前で、なんとこのレストラン、毎年11月から3月までのあいだは休業して新メニュー開発にたっぷり時間をかけるのだ。日本でもかつては一流の河豚屋や鮟鱇屋がシーズンオフの夏場は閉めていたものだが、さすがに半年の休業は長すぎる。しかも少人数ではなく、映像で見るかぎり少なくとも10人以上のスタッフを抱えている。これでどうやって経営を維持できているのか不思議でならない。
登壇イベントのお相手を務めてくださったのは、「世界のベストレストラン50」の日本人唯一のテイストハンターKeisui Suzukiさん。この方はじっさいに「ムガリッツ」で食事をしたことがある。彼は当時のメモを見ながら、どういう料理が出て、どういう味がしたのかを話してくださった。ただし私としては、食べ手とではなく、作り手とこの作品について語り合いたかったのが正直なところではある。ミーティングで話し合われていた内容について、あれはどういう意味で言っているのか? とか、厨房でのあの作業はいったい何のためにおこなっているのか? とか、画面で起きていたディテールについて微に入り細に入り聞き出したいことがたくさんあったから。
映画はオープニングで前衛的な木管楽器が鳴る中、まだ薄暗い峠道を下りてくるシェフ、アンドニ・ルイス・アドゥリスの後ろ姿から始まる。やがて視線の先に一軒家レストランにすでにポツンと照明が灯っているのが見えてくる。まだ薄暗いとはいえ、これが早朝ではないことを私は知っている。メニュー開発の始まった11月のバスク地方というと、夜が明けるのはかなり遅い。山間部では午前8時ごろでもまだ暗い日もある。もう15年ほど前になるけれども、私はWOWOWの発注で、その名も『バスク』というドキュメンタリー番組の構成・演出を務めたことがあるから、この地域のことはそれなりに心得ているつもりだ。
最初のミーティングでアドゥリス・シェフから「今年のテーマは “目に見えぬもの” にしよう」と提案があると、すぐさま研究開発チームのメンバー、サーシャ・コレアが「いいと思う。目に見えないのは、まるで発酵のように隠されているから」と応じる。料理というものは通常、器の上に実在し、目で見て楽しみ、香りを楽しみ、口に入れて楽しむ、そういう五感を駆使して享受する芸術だと私は思っていた。ところが藪から棒に“目に見えぬもの” とは、いくら鬼才として世界から評価されている人とはいえ、悪ノリにも限度というものがあるだろう。じっさい、その後にスタッフたちが試作する、料理と言えるかどうかすら怪しい物体が次々に仕上がってくるのを見ていると、ここが飲食店の厨房ではなく、コンセプチュアルアートのアトリエにしか見えないのである。
私は「ムガリッツ」を訪れたことはないが、アドゥリスが修行したレストラン「マルティン・ベラサテギ(Martín Berasategui)」でランチは食べたことがある。「アル・ブィリ(El Bulli)」以降のスペイン料理界で前衛的トレンドとなった「分子ガストロノミー」の影響も感じさせつつ、見た目に美しく、非常においしかった。しかし弟子のアドゥリスは過激派として活動している。
「問題を探せば、解決策が見つかる。それが創造性への道だ」
「遊ぶために遊ぶこと(Jugar por jugar)」
「詩のような美しい風景の中に、突如として庭にある老女の遺体写真が現れたらどうだ」
「この店ではルーベンス、ゴッホではなく、ロスコ、ポロックと出会う。するともはや快楽主義には浸れないとわかる。思考を挑発する絵画だから」
「すべてを既知のもので固めようとする人に我慢がならない。好きな歌、好きな料理、友だち以外は会いたくない、好きな旅行先はここ、というふうな。しかし、本当に好きな料理をまだ試していないかも。最高の友人にまだ出会っていないかも。本当に好きな本はまだ書かれていないかも」
イベントの最中、観客のみなさんに「ムガリッツ」に行ってみたいか? を挙手してもらった。挙手した人はかなり少なかった。みなさん、ゴッホだけ見たいのかな。私は喜び勇んでマーク・ロスコもジャクソン・ポロックも見に行くだろう。
