欠片かけらを探して
―――  日本映画の陋巷ろうこう

荻野洋一
Ogino Yoichi

日記、カーテン、そよ風、朝の光

消滅する人/到着する人

 坂本悠花里監督の長編デビュー作『白の花実』では、映画史の新旧ふたつの系譜がある地点でぶつかり合って、相互浸透作用にさらされる。その地点とは、どうやら関東近郊の山間部で運営されているミッション系の全寮制女子中学校である。ファーストシーン、薄明のなか、展望台のらせん階段を上がってきたらしい少女の後ろ姿がある。そして2番目のシーンでは、この学校に編入してくるらしい別の少女が自動車の後部座席で不貞腐れている姿。彼女の父が運転する車が発進し、斜面を登っていく。

 展望台に上がる少女。車で斜面を上がる少女。この両者はいったん「上がる」という同一の矢印に収まっているかに見えて、やがて正反対の運命を辿ることになる。女子生徒・莉花りか(蒼戸虹子にこ)が展望台から飛び降り自殺し、共同体に喪失と空洞が生じることによって物語が始動する。この時点では『白の花実』が黒沢清以後の映画史を生き始めたように思える。事実、編入してきた杏菜あんな美絽みろ)と数ヶ月にわたって同室で過ごした莉花は、死後も杏菜の胸中に取り憑いて、自身の生の代行者として杏菜を指名するのである。導師グルの死を無垢な代行者が図らずもカバーし、その代行行為が不可逆的なメタモルフォーズを生成する、という物語構造を黒沢清がなんど反復してきたことか。

『白の花実』では莉花の霊が鬼火となって幻出し、光り輝く球体が杏菜に憑依する。しかしこれはホラーという方向に向かわず、ジョルジュ・フランジュ監督『白い少女』(1958)やアレクサンドル・アストリュック監督『恋ざんげ』(1952)といった幻想文学に隣接した怪奇映画の芳香を発しており、美術装飾、小道具、衣裳、ヘアメイクに至るまで坂本悠花里監督と各部門スタッフのこだわりと美意識が貫かれて、その無国籍的な怪奇幻想性は現代日本映画にあって異端的な魅力を放っている。

 誰かが消滅する、あるいは構成者が欠員となるという事態は、その前提として別の誰かの訪問、到着が誘発したものではないか。『白の花実』にあっては莉花の自殺の数ヶ月前に、杏菜が到着している。その順序はまさに、アストリュック『恋ざんげ』の青年将校(ジャン=クロード・パスカル)が地方のブルジョワ邸宅に到着し、その家の令嬢(アヌーク・エーメ)と密事を重ねるように、あるいはジャン・エプシュタイン監督『アッシャー家の末裔』(1928)の貴族の城館に親友(シャルル・ラミー)が訪ねることが死者蘇生譚の開始合図となったように、またあるいはF・W・ムルナウ監督『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)の不動産勤務の青年(グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム)がトランシルヴァニアの伯爵の城館を訪問することで吸血鬼伝説のスイッチが図らずも入ってしまったように、このような怪奇幻想の映画史的カノンをオーセンティックに墨守してもいるわけである。

 以上のようにこの『白の花実』は、グルの消滅と無垢な代行者への憑依という黒沢清的モダンホラーの構造と、城館なり大邸宅なりの建造物への不意の訪問が陰惨な怪奇幻想を惹起するというゴシックホラーのカノンとが、嘘のような自然さをもって、あるいは不自然なほどのオートマティズムをもって合流し、ある期間は同居し、相互浸透していくさまを、『ピクニックatハンギング・ロック』(1975)や『ヴァージン・スーサイズ』(1999)のガーリーな意匠も活用しながら現出させている点で、きわめて貴重な映画となったように思う。

「霊と私」の切り返しの不在

 ガーリーな意匠とミッション系ボーディングスクールの閉鎖生活がかもし出す不可思議な世界観は、きわめて人工的なものである。物語の序盤における杏菜の母・麻衣子(河井青葉)のセリフ「この学校が最後だから。ここでだめなら本当にもう行くところないからね」という念押しは、この女子中学校が単なる名門校という位置付けではなく、問題を抱えて他校で見放されたエリート家庭の令嬢にとっての駆け込み寺のような機能を有していることが想像できる。

 学校の描写は坂本悠花里監督の遊戯心が発揮されているのかもしれない。ネイビーの制服にネイビーのリボンはともかくとして、黄色のタイツを全生徒が揃って着用しているのは異様な光景である。黄色を基調としつつ、白、黒、湖畔での舞踊研修ではピンクのタイツまで着用され、カラータイツへのあられもないフェティシズムが、真面目くさったプロテスタント教育のもとでなんの問題もなく推進されているさまは、ある種の風刺喜劇の域へと、たとえばコンメーディア・デッラールテ(16世紀イタリアで流行した仮面即興劇)におけるアルルカンやパンタローネが履いていたタイツ衣裳の領域へと、足を踏み入れているのではないか。タイツ姿の生徒たちが花びら模様の形で、舞踊教室の床に寝転んで折り重なっているカットは、隠しようもないフェティシズムのなせる所業である。

 「怒ってる、幽霊が」

 学校見学のために初めて杏菜が訪ねてきた日、3年生を受け持つ澤井先生(門脇麦)が彼女に舞踊教室を見学させる。学年でダンスの最も上手な莉花が指名され、模擬演技を始めるが、杏菜は演台の壁に引き寄せられ、莉花の演技そっちのけで白壁を凝視し、その場にいる人々から不審がられる。その時、杏菜が言い放つ。「怒ってる、幽霊が」。すると舞踊教室のドアがバタンと激しい勢いで閉じられ、生徒たちが悲鳴をあげる。どうやら杏菜には強い霊感があるようだ。

 しかし幽霊の怒りの理由はよくわからない。数ヶ月後に自殺したのち鬼火となって杏菜に憑依する莉花にしても、彼女の自殺原因も、憑依の意図も、結局のところ謎のままである。莉花の父・幸男(吉原光夫)による性的虐待疑惑が告発されたりもするのだが、それは曖昧な不発に終わ ってしまう。物語の中心が杏菜+莉花の関係から、杏菜+しおり[莉花の幼なじみで学年のリーダー格](池端杏慈あんじ)の関係へと移行し、擬似的な三角関係の形成と不信払拭までの物語に発展していく。

 栞「杏菜ってさ、本当に幽霊が見えるの?」

 杏菜「うん」

 栞「どんなふうに?」

 杏菜「たとえば、そこにもいるんだけど、そこにいるのは黒いもやのようなもの。ここから離れられなくて、寂しそうにしてる」

 莉花の霊は杏菜を自身の代行者として指名しはするものの、杏菜の心身を全面的に乗っ取るわけではなく、生前の日記を杏菜の荷物の中に忍ばせて、そこに記載された自身のテクストを杏菜に代弁させることで、ぽつりぽつりと五月雨式に生前の心情を吐露するだけである。そんな杏菜の〈口寄せ〉じみた行為を栞はペテン呼ばわりし、友情の再構築を拒絶するのである。レストランで催された実家一族の会食で、栞は余興として、というかここにいる出席者全員との交流を避けるようにしてチャイコフスキーの『白鳥の湖』第2幕から「情景」を、ピアノ演奏する。

『白鳥の湖』。死への欲動は以前から潜在的には共有されていた、ということになるだろうか。しかし栞の立場からすれば「なぜ自分に取り憑かないのか」「なぜ不出来な新参者にすぎない杏菜を選んだのか」という問題から逃れられないわけである。霊性の媒介者となったこの3人を能楽に当てはめるなら、莉花がシテ、杏菜がアド、栞がワキという役回りとなる。日本の芸能は能楽をつうじてつねに幽霊と幽霊の嘆きに相槌を打つ訪ね人の物語を語ってきたわけで、『白の花実』は現代能楽映画なのだと言える。

 残された名前付きリボン。日記。白のレースカーテン。そよ風。まだらに動き続けるレースの影。杏菜の言うように、それは「たとえば、そこにいる」と言うほかはないものである。物事の中心部分が次第に明らかになっていくという動きはいっさい見せずに、黒い靄なり、光の玉なり、たとえば、たとえば、たとえば…と痕跡トレセや、記号シーニュや、欠片フラグマンをそのつどそのつど数珠のようにつなげて指し示していく以外に、これといった方策がないものなのである。

『吸血鬼ノスフェラトゥ』も『アッシャー家の末裔』も、主人公が訪問する城館なり邸宅の全貌がまがまがしい風景ショットとして現れていた。ところが『白の花実』には学校の全体ショットが存在しない。もちろんロケーション上の制約や予算面の問題が建築物の全体ショットを作者に禁じたということを想像するのはたやすい。趣のある学校の廊下、階段、舞踊教室、チャペル、講堂、寄宿部屋、花に囲まれた庭の通路、湖畔、都会との往来のための山道、そして莉花が飛び降りた展望台。そうした舞台装置が充実した断片として提示されるいっぽうで、その舞台となる空間をきれいに把握させる引きのショットや建物全体をうつす風景ショットが、この映画からいっさい除外されているのは、単なる偶然ではない。「生きてって言われた気がして」とやっとのことで絞り出されるように密かに呟かれる心情が、断片の散逸によって体現される。

 それは「絵の具で描いたような青い色」としてのみ指し示していかざるを得ないものであり、聞こえたり聞こえなかったりする白鳥のため息として感知するほかはない。莉花の霊である光の玉と杏菜は相互浸透しながら全身で対峙し、見つめ合っているのに、この両者の切り返しがないのは、欠片への偏執、断片の散逸によってしか感知し得ない魂の交感だからである。

『白の花実』

監督・脚本·編集:坂本悠花里
出演:美絽 池端杏慈 蒼戸虹子
河井青葉 岩瀬亮 山村崇子 
門脇麦
製作・配給:ビターズ・エンド
©️2025 BITTERS END/CHIAROSCURO
110分/カラー/DCP/ビスタ

今月のThe Best

霊感

 

『白の花実』の主人公・杏菜は強い霊感をどうやら常時持っているようだ。

私もかつては少し霊感を有していた。杏菜のような透視クレールヴォワヤンス(心霊体験を視覚的に認識すること)の能力はついぞ獲得できなかったものの、念聴クレールオディヤンス(霊の存在を聴覚的に認識すること)が生じていた。杏菜が「莉花、なんで死んだの? なんで何も言ってくれなかったの?」と霊にさかんに訴えかけていることからもわかるように、彼女も念視シコメトリー(物体の残留思念を読み取ること)の能力までは獲得し得なかったようである。

私の霊感は最初、執拗なラップ音で始まった。思春期のころだったか、一軒家の2階寝室で眠っていると、深夜に誰かが階段を激しく駆け上がったり駆け下りたりするゴトゴトゴトという音がなんども反復する。あまりの恐怖ゆえ、布団をかぶって震えていた。そして、金縛りの時に起こる視聴覚のパニック。プールで両耳に水が詰まってしまった時のボワァという幻聴ブールドヌモン。中央区の日本橋中洲のマンションでは、浴室やトイレに入っている時にキッチンや居間から話し声が聞こえる。さらに居間にいると、寝室から自分自身のくしゃみが聞こえる。

2000年代初頭に尾瀬の燧ヶ岳ひうちがだけにドキュメンタリー番組のロケーション撮影で登った時、雨にたたられ、やっとの思いで山頂に達しようとした直前、突如として山頂から大勢の女性たちの話し声が聞こえはじめ、「え、こんな悪天候の中、あんなに大勢の女性がこの難所を登り切れたのだろうか?」と不審に思いながら山頂に出てみると、誰もいない。この現象はロケ隊の他のスタッフも認識したが、「まあ、山だし、こういうこともあるでしょ」で一同済ませてしまった。

新宿区の市谷薬王寺町のマンションでは、部屋にいると、透明で目には見えないものの、ヒスノイズ(サー、シューという高い周波数のようなホワイトノイズ)のかたまりが数十センチ四方の蚊柱かばしら(昆虫が公園や雑木林などで集まって小宇宙を形成すること)の形状となって、こちらに近づいてきたり、少し離れて、壁の四隅に滞留したりする。いちどそのヒスノイズのかたまりに向かって「何が言いたいの? 何か訴えかけているの?」と声に出して問いかけてみたことがある。かたまりは無反応で壁の四隅に引きこもる。つまり私にはついぞ念視能力はそなわらなかったことになる。このヒスノイズのかたまりに恐怖はほとんど感じなかった。無言の同居人のような印象があり、祖先の霊なのだろうかと推測したこともあったが、身元はわからずじまいである。

ここ1年以上、念聴が生じなくなってしまい、私から霊感は消失したのではないかと思われる。時折、睡眠中に念聴の夢を見る程度である。

今回見ることのできた『白の花実』は、久しぶりに霊感の記憶を呼び覚ましてくれた。ひょっとすると坂本悠花里監督も霊感の持ち主なのだろうか。もしそうなら、トークショーでそのことを説明してくださると参考になる。私自身の霊感の記憶をこうして文章として残せたのは、まことに良い機会だった。そのきっかけを与えてくれた映画『白の花実』に感謝する。