欠片かけらを探して
―――  日本映画の陋巷ろうこう

荻野洋一
Ogino Yoichi

ルノワールとは何か?

伯爵令嬢のポートレイト

『ルノワール』というタイトルはいったいどこから来たのか? 日本国内の観客ばかりでなく国際的にもこの映画について最初に疑問の持たれる事柄であることはまちがいない。印象派の大画家のことを指しているのか。それともその二男の映画作家を指しているのか。どのみちこの強烈すぎる固有名詞が平然とタイトルとして投げ出されている事態に対して、少しでもまともな感性を持ち合わせた者なら誰でも困惑と動揺を隠すことなど決してできはしまい。

 11歳の主人公・沖田フキ(鈴木唯)が末期癌の父(リリー・フランキー)を見舞った病院のロビーで、西洋絵画のレプリカを展示販売する老人と二言三言交わすシーンがあり、そこではキャアン・ダンヴェール伯爵家の8歳になる令嬢が横向きで描かれたポートレイトが話題になっていることから、『ルノワール』とはオーギュストのことであることがひとまず判明し、人はその時点でいささか拍子抜けするとともに、胸を撫で下ろしもするだろう。もしこのタイトルの指示対象が二男のジャンであったならば、触ってはいけない神経過敏な箇所に手を伸ばしてしまった罪と罰で、この映画はいっきに崩壊の危機に瀕していただろうからである。

 前作『PLAN 75』(2022)に次いでこれが長編2作目となる早川千絵監督にとって、リスクを伴ったタイトルになったかと思われるが、監督自身はインタビューの中でタイトルについて、「理由づけや説明といったものからなるべく離れる形で作りたいという思いがあった」とし、「劇中のルノワールの絵は、ストーリーに深く関与しているわけではないですし、重要なモチーフということでもありません」と断っている。それはちょうど、彼女がENBUゼミナールの卒業制作で作り、ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞した短編『ナイアガラ』(2014)において、カナダと合衆国を隔てる滝の名前が指示対象の曖昧なまま推移していったことと似ている。

 小学生の少女が、空洞化した家庭システムから飛び出し、危険な彷徨へ掻き立てられる、と聞けば、人はただちに相米慎二の『お引越し』(1993)を思い出すだろう。『お引越し』のレンコ(田畑智子)と『ルノワール』の沖田フキは、背格好はおろか、ヘアスタイルまで似通っており、また『ルノワール』が1980年代後半を舞台としていることから、時代背景も共通している。

『ルノワール』の大きな特徴は、この物語が2020年代の現在から見据えたとおぼしき回顧の視点で眺められていることにある。完全な自伝というわけではないが、早川千絵監督は「自分が子どもだった頃の気持ちを思い出して、世界がどう見えていたか、どう感じていたかを表現したい」と明言している。これが長編第2作であるため、筆者はろくに調べもせずに若手監督だと思い込んでいたのだが、WOWOWで契約スタッフとして働きながら30代半ばでENBUゼミナールに通い始め、その卒業制作『ナイアガラ』で映画作家として初めて認知されてからすでに11年の歳月が経過している以上、『PLAN 75』『ルノワール』の作家がすでに新人離れした世界観と独自の手法を確立し、成熟した存在であることは、この2本の長編が雄弁に物語っている。

映画作家の誕生

 『お引越し』のレンコが家出することによって「他者」としての風景(京都、琵琶湖)と同化していくのに対して、『ルノワール』のフキは両親(石田ひかり、リリー・フランキー)の影響圏から隔絶されつつ、なるべくこれまでの世界とは無縁な人々を自分のまわりに招喚し、それによってみずからをたやすく見定めがたい存在に仕立てていく。同じマンションの住人(河合優実)、母の不倫相手(中島歩)、テレクラ[注:昭和期に流行した出会い系の伝言ダイヤル]で知り合った自称大学生(坂東龍汰)といった未知の大人たちと取り結ぶ刹那的な関係性は、テレパシー、催眠術ごっこ、心理合戦が介在し、複雑さとアンバランスさをもって築かれている。

 フキの周囲には苦悩する大人たちばかりが集まってきたが、ひとりだけ同級生の少女(高梨琴乃)も登場する。英語塾で知り合い、高級住宅に住むこの少女の家庭環境に問題ありと見抜いたフキは、悪意をもってこの家庭に波風を立てて崩壊へ導く。しばらくして、母親の郷里である青森県へ転居するからお別れだという少女は、フキのことを(少なくとも表面上は)恨んでいないばかりか、記念にティアラをフキにプレゼントする。この同級生少女が潜在的には家庭の崩壊を望んでいたことが、まざまざと示されたシーンである。フキはこのティアラを、テレクラの自称大学生と待ち合わせる際に頭部に着用していくことになる。

 自称大学生はフキを自宅に引き入れて、事に及ぼうとする。きわめて危険な描写であるが、インティマシー・コーディネーターの西山ももこ氏が付いて撮影が進められた。フキ役の鈴木唯に対してはもちろん、加害者を演じる坂東龍汰にとってもストレスのかかるシーンであると西山氏は説明し、入念な配慮をしながらの作業となった。

 製作から20年の歳月ののち、今年(2025年)に初めて日本公開が実現したグレッグ・アラキ監督の『ミステリアス・スキン』(2004)の例が思い出される。同作は少年野球のコーチがチームの少年ふたりに性加害を犯し、この子たちが精神的ショックのために成人後も後遺症に苦しむという内容の作品であるが、少年ふたりが被害を受けるシーンは、この子らを演じる子役には性的描写であることがわからないカット割のもとに撮影されたのだという。

 インティマシー・コーディネーターによる入念な配慮があったとしても、『ルノワール』においてフキが自称大学生の自宅に招かれるシーンが、きわめて危険なシーンであることには変わりがない。ではなぜ、リスクを冒してこのシーンが撮影されたのか? それは、本文冒頭で取り沙汰してきた『ルノワール』というタイトルと関連があるように思われる。「理由づけや説明といったものからなるべく離れる形で作りたいという思いがあった」と述べる監督だが、次のようにも語っている。

 「80年代当時、ルノワールをはじめとした印象派の絵がすごく流行していて、きらびやかな額装を施したレプリカを販売する新聞広告をよく見かけました。(中略)そういう西洋に憧れる気持ちや偽物を飾って満足してしまうような精神があの時代の日本を象徴している気がして、そんな社会の空気感の中で過ごした子ども時代への感慨がこのタイトルにこめられている、というのが後付けの理由です(笑)」

 『ルノワール』には、バブル社会に浮かれる滑稽な日本人像、さらには自身の自己形成に対しても客観的なまなざしが堅持されている。前作『PLAN 75』では不寛容な現代社会に対する憤りが率直に語られており、「自己責任」という無責任なタームがやたらと使われる現代の空気を「優しい顔をした暴力」(監督談)として捉えていた。『PLAN 75』に引き続き、今作でも浦田秀穂による冷徹な撮影は、この「優しい顔をした暴力」の優しい顔の裏面を引き剥がす。『お引越し』と同様に、少女のひと夏の経験として語られつつも、顔の皮を剥がす浦田秀穂チームの撮影は、容赦のない外科手術のようだ。

 白状すると、筆者は『PLAN 75』公開当時、この作品をそれほど高く評価しなかった。姨捨山の薄情さを描写する近未来SFとしては、リチャード・フライシャー監督の『ソイレント・グリーン』(1973)がすでに存在し、同作の終盤におけるエドワード・G・ロビンソンの安楽死シーンの鮮烈さ、残酷でありながらも美しさもたたえてしまうあのシーンに比べれば、いかなる価値も付加しえていないと当時は判断したのである。

 『PLAN 75』で倍賞千恵子とたかお鷹の演じたふたりの老人が同じ日に安楽死センターに向かう描写は、浦田秀穂チームの卓抜な撮影にもかかわらず、エドワード・G・ロビンソンの足元にも及ばないのは確かだ。しかし、『ナイアガラ』から始まり、『ルノワール』にいたるフィルモグラフィーから伝わるのは、早川千絵という映画作家の、社会に対する毅然としたまなざし、批判精神である。「私が映画を作りたいと思い始めたのは、まさにフキの年齢の頃だった」と映画作家は語る。「数十年蓄積していたさまざまなイメージを吐き出す形で脚本を書き始めました」。つまり、『ルノワール』とは映画作家の誕生の物語である。

 11歳の少女が、テレビ番組の超能力者を凝視し、テレパシーや催眠術に熱中し、大人たちへ心理合戦を仕かけ、現代社会の思想と行動、登場人物の言葉、といったイメージの断片を採取していく。潜在的にすでにフキは映画を作り始めているのだ。病室で死にゆく父親の衰えた顔、肉体、声を採取し、病院の1階ロビーでは伯爵令嬢のポートレイトに目を留めて、販売員の老人に名前を尋ねる。老人は「イレーヌだよ」と答える。レプリカのイレーヌ、偽物のイレーヌを、バブル経済に浮かれきった見舞客たちは、数千円か数万円かを支払って、買い求めてしまうのだろうか? じっさいフキも例に漏れず、映画の後半で、オーギュスト・ルノワール作『イレーヌ・キャアン・ダンヴェール嬢』(1880)の複製画を自宅の壁に掲げることになる。父の遺影の代わりに、可憐な令嬢のポートレイトが家にやってくる。批判的な観察者としての映画作家自身もまた、偽物のイレーヌが垂れ流すシミュラークルの一消費者にすぎないことが、ここで喝破される。

 一見すると落ち着き払った冷徹な画面、冷酷かつ孤独な描写、行動の裏に見え隠れする計算、そして軌道修正する人々の焦燥――長編2作目とはいえ、早川千絵という映画作家の手つきはすでにベテランの域に達している。電車の座席で向かい合うフキと母・詩子(石田ひかり)の姿はあまりにも『お引越し』の田畑智子と桜田淳子に酷似してはいるが、ここには、ある地点から引き返すことを思い直した人間の、疲弊していながらも美しい姿が写されている。

 『PLAN 75』の磯村勇斗が、安楽死センターに置いてきた伯父(たかお鷹)のもとに戻ろうと思い直し、運転する車を引き返すように。安楽死スイッチの不具合によって命拾いした倍賞千恵子がセンターを脱出し、田舎道を逃げてきて、楽園のシミュラークルに囲まれて死んでいった『ソイレント・グリーン』のエドワード・G・ロビンソンの無念を肩代わりして本物の日の出を眺めるように。

 夫の病死という事柄ばかりでなく、職場において部下に対するパワーハラスメントの加害者でもあった詩子が、まずは娘のフキと向かい合うことから何事かを再開させようと思いつめている。そんな光景を、走行する電車での向かい合わせという具体的イメージとして現出させること。これは、絵画にも、音楽にも、小説にも、演劇にすらできない、映画だけが成し遂げうる作業である。そして疲弊した母と見つめ合うとき、フキはすでに映画作家への道を歩いているのである。

『ルノワール』

6月20日(金)新宿ピカデリー他
全国ロードショー
脚本・監督:早川千絵
出演:鈴木唯 石田ひかり 中島歩 
河合優実 坂東龍汰 リリー・フランキー
© 2025「RENOIR」製作委員会 / International Partners
配給:ハピネットファントム・スタジオ

今月のThe Best

芸道もの

 

月1回の連載《欠片を探して》の作品選びは私の大きな楽しみになっている。一番迷ったのは2月と今回の5月である。
結果的に『早乙女カナコの場合は』評を書いた2月は、もともと『ファーストキス 1ST KISS』を、塚原あゆ子監督の前作『グランメゾン・パリ』、前々作『ラストマイル』と併せて批判的に論じるつもりだった。しかし、リトルモアと相談した結果、始めたばかりの連載を第2回にしてネガティヴな論調に傾かせるよりも、応援すべき作家を応援していこうということになり、『早乙女カナコの場合は』を顕揚することで落ち着いた。批評にとって客観性よりも党派性の方が重要であるという、尊敬する上野昻志氏の考え方にこれからも倣っていこうと思う。『ファーストキス 1ST KISS』については他媒体で書ける機会があるといいですねとリトルモアから言われた矢先、リアルサウンドから『ファーストキス 1ST KISS』評の原稿依頼が来たのは自分としては渡りに船、二兎を得るじつにありがたいタイミングだった。
今月は『ルノワール』にするか『国宝』にするか、執筆当日まで迷っていたが、『PLAN 75』をそれほど評価できなかったはずの自分に評価上の変化をもたらしてくれた『ルノワール』に決めてから書き始めたら、するするとあっというまに書き終わってしまった。
李相日監督については初期作品のころからその作風の力強さを認めつつも、違和を禁じ得なかったこと、また、製作現場での監督のパワハラ報道に対し、その不審を払拭するだけの材料を私自身が持ち合わせず、当惑した状態であることを考慮し、『国宝』評を書くことを断念した。
しかしながら、『国宝』については魅了された点も少なくないことを、この欄で付記しておきたい。歌舞伎上演シーンがそのつど、何かの異変もしくは兆候が生じる事件現場のような扱いとして用意され続けるシナリオ(原作も?)はまったく好きになれなかったが、役者陣がすばらしい。W主演の吉沢亮、横浜流星の顔がとにかく美しく、映画の大きな魅力は顔にあるという素朴すぎる事実に改めて気づかされる。高畑充希、寺島しのぶ、森七菜、見上愛といった女性陣よりも男性陣が光ってしまうのは歌舞伎界という題材から致し方ないことであり、また映画が視覚的スペクタクルであり続ける以上、ルッキズム批判はこの場合まったく見当違いである。
『国宝』は、日本映画史にとって久しぶりの本格的な芸道ものである。成瀬巳喜男の『鶴八鶴次郎』(1938)、『歌行燈』(1943)、『流れる』(1956)や、島津保次郎『春琴抄 お琴と佐助』(1935)、溝口健二『残菊物語』(1939)、『歌麿をめぐる五人の女』(1946)など、映画ファンなら誰しも好みの芸道ものをおのおの持っているはずだ。私の1番はやはり『残菊物語』、2番に千葉泰樹の『生きている画像』(1948)といったところか。『残菊物語』が芸道ものの第一級品となった理由は、この作品が花柳章太郎の演じる歌舞伎役者の芸道ものである以上に、その妻を演じた森赫子かくこを、夫の芸道に対する的確な批評家として描き、この作品がむしろ森赫子の批評家としての芸道ものになりかわり、しかも夫を凝視する妻の視線をほとんど斜め後ろからしか撮らないという、恐ろしいほどの底光を見せていたためである。
今回の『国宝』を芸道ものとして支えていたのは、女形の大御所を演じた田中泯であるように思う。田中泯の所作、声質のフラジャイルさ、秘めた欲望の発露は、いつにも増してすばらしかった。『残菊物語』における森赫子ほどではないが、田中泯は吉沢亮、横浜流星にとっての目利きの批評家としても振る舞っていた。田中泯が晩年を落ちぶれた荒屋あばらやで過ごしているという描写は、ひょっとすると『残菊物語』の森赫子へのひそかなオマージュなのではないか。
ただし、吉沢亮、横浜流星の描きがわんぱく坊主のライバル関係として生涯続いていくというシナリオは、じつにつまらないものだ。私がこの映画のシナリオライターだったならば、このふたりの主人公もろともバイセクシュアルにするだろう。このふたりをホモソーシャルな関係に終始させず、歳を追うにしたがって相互にリビドーと愛憎が高まっていくようにしたら、どれほどの傑作になったことだろう。
私にしてみれば、中国映画の芸道ものの名作とされている『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993/陳 凱 歌チェン・カイコー監督)における張 國 榮レスリー・チャン張 豊 毅チャン・フォンイーへ寄せられた思慕ですら、じつのところ物足りないのである。『国宝』の吉沢亮と横浜流星には、張國榮と張豊毅を超える官能性を垂らし込んでほしかった。あのふたりが単なるわんぱく仲良しのまま物語が進んでいくから、両者のあいだで揺れる高畑充希の人間像が中途半端に終わってしまったのである。
吉沢亮が幼い娘のいる前でお稲荷さんに拝みつつ、芸の成就のためならあとは何もいらないという「悪魔の取引」をパパはしたんだよと娘に説明してやるシーンの酷薄さは、なかなかに強い印象をもたらしていた。芸道ものとは、イギリスの芸道ものの最高傑作であるパウエル=プレスバーガー『赤い靴』(1948)を思い出せば明らかなように、「悪魔の取引」によって芸を極める「外道げどうもの」でもあるからである。このような外道と関わったがゆえに、吉沢亮の幼い娘が長じて瀧内公美となって父と再会した時の父娘のカットバックが良いのである。吉沢亮、横浜流星のふたりが良かっただけに、この『国宝』が『さらば、わが愛/覇王別姫』をしのぐアジア映画の傑作になる契機をみすみす逃してしまったのは、まことに惜しまれることであった。