欠片かけらを探して
―――  日本映画の陋巷ろうこう

荻野洋一
Ogino Yoichi

小石を投げて、池を埋める

それにしても、やけに小石が多いな

 この映画に奇跡はない。奇跡の到来を期待していないと言うべきか。1行も書かれない芝居台本。白紙の手帳。人から人へと気ままに移動する指輪。記憶を消す泥酔。池があり、川があり、墓地があり、眠らぬままに迎えた薄明(サンライズ)がある。一度は池に投げ捨てられた指輪を探して、池の水底を浚(さら)いながらつぶやかれる「それにしても、やけに小石が多いな」というセリフ。奇跡を廃し、マスタープランを廃し、細部と細部を不可視の糸で縫い合わせていく。

 矢崎仁司監督の5年ぶり新作『早乙女カナコの場合は』の原作小説である柚木麻子の『早稲女(ワセジョ)、女、男』(2012刊、祥伝社)は、物語の主体となる女性たちを1章ごとにリレー形式でずらしていきながら、彼女たちの大学生活をポリフォニックに叙述していく心境小説である。シナリオライターたちは頭をひねって、この心境小説の落とすべき箇所を落とし、付け加えるべき箇所を付け加えた。

 中心となるのは、大学(原作では早大)に合格したばかりで田舎から出てきたカナコ(橋本愛)と、演劇サークル「チャリングクロス」(通称:チャリクロ、原作では早稲チャリ)の先輩、長津田(中川大志)の出会い、恋愛、そして腐れ縁だ。カナコがチャリクロの部室を初めて訪れた午後、長津田はカナコの手を取って踊り始める。するとどこからともなく愉快なワルツが奏でられ、この原初のワルツは物語をつうじて、カナコの内耳を支配し続ける。長津田はアウトロー気取りのいいかげんなお調子者だが憎みきれず、入学式当日の野外寸劇などを眺めると、心なしか若き日の唐十郎のような趣もたたえている。

 そのあとの3年間ずるずると付き合って、長津田にとっくに愛想を尽かしているカナコだが、彼女がどうしてもこの愚者の引力圏から離脱できないのは、原初のワルツが頭から離れないからだ。部室のドアには次のメモが貼り出されていた。

「死者を起こすには 強くノックすること」

 フランスの映画作家ジャン・ユスターシュ(1938-1981)が42歳でピストル自殺したとき、彼の部屋のドアに記されていたフレーズだ。大人の観客たちよ、苦笑するなかれ、これは未熟な大学生のしたこと。映画の宣伝資料によれば、「多様性の時代に合わせ、原作で重要な要素だった〈各大学のあるある〉をカットすることに決定。早稲田大学など大学名も出さないことに」なったらしいが、いかにも早大生のやりそうな振る舞いではある。「君、ユスターシュの映画、好きなの?」からワルツにつながってゆく。原作小説では、ワセジョ、ポンジョ、立教の女子、慶応の男子の生態がいわゆる〈あるある〉で楽しげに描き込まれており、いささか通俗的のきらいを免れていない。その点でたしかに映画版のほうは〈あるある〉の紋切り型を脱し、焦点が登場人物たちの裸形の個へと収斂しているのが良い。

『早乙女カナコの場合は』は1970年代の山根成之あるいは藤田敏八の青春映画の気風も継いでいるが、風俗描写ではなく叙述という点では山根、藤田よりも、3本のイタリア映画のあざやかなリレー形式の不連続性を思い起こすこともできる——ロベルト・ロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』(1950)、フェデリコ・フェリーニの『青春群像』(1953)、ルキーノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』(1960)を。カナコ→麻衣子(山田杏奈)→亜衣子(臼田あさ美)と女性たちのあいだで物語主体の地位がバトンタッチされつつ、ロンド(輪舞)もしくは遊園地のティーカップのように廻転しながら、画面の流れは空即是色(くうそくぜしき)へと向かっていく。

食事でもしながら、続きを話そうか?

 時が流れて4年生になったカナコは大手出版社への就職を決めるが、アウトロー気取りの長津田に言わせれば、「インターンシップでもぐり込んで2年間もこき使われて、今ごろ内定もらってもちっともすごくねえだろ。紙の本の未来なんて真っ暗。死ぬほど苦労してわざわざ泥舟の業界を選ぶことじたい無意味」ということになる。

 もっとも、そんな元カレの辛口評なんて無毒な戯言にすぎない。『早乙女カナコの場合は』で最も重く響いてしまう男性の言葉は、大学OBの先輩社員・洋一(中村蒼)がオフィスでカナコに投げかけるものである。

カナコ「(卒業論文を洋一に下読みしてもらったあと)ル=グウィンのエッセーで、どうして子どもの本にはいろいろな動物が登場するのかと……」

洋一「カナコちゃん」

カナコ「はい?」

洋一「今夜、時間ある? 食事でもしながら続きを話そうか?」

カナコ「……はい、ありがとうございます」

 就職内定者の女子学生アルバイトをつかまえて、同じ大学のOBとはいえ先輩社員がディナーに誘い、卒論のアドバイスをするよという発言に、私たち観客は思わず緊張で身体をこわばらせる。なぜなら立場的にカナコには上司の提案に対して「はい、ありがとうございます」という返答以外の選択肢が塞がれているのが現状だからである。この職場はまだ年下の女性アルバイトに対してニュートラルな「早乙女さん」ではなくファーストネームを「ちゃん」付けで呼んだりするのだろうか。男性アルバイトは「オサムちゃん」とは呼ばれず、単なる「田中」「佐藤」にすぎないだろうに。さらに洋一は、小説家・有森樹李(のん)の新作のゲラ原稿を、カナコがこの小説家に私淑することを承知した上で手渡し、彼女に宣伝プランの意見を求めたりする。夢や使命感が他者(の思いやり?)によってロックされた状態と言っていい。しかしカナコが煩悶しながらも、かろうじてロック解除を自力でおこなっていく描写もまたリアルかつ力強く、卒論下読みの際に抱いた観客の緊張はやがて解かれていきもする。

 橋本愛とのん(能年玲奈)の共演は、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』(2013)から始まる濃密な縁によるもので、のん主演の『私をくいとめて』(2020、大九明子監督)の終盤にイタリアで再会する親友どうしを演じて以来、三たびの共演となった。橋本愛は、カナコという努力家で有能でありながらも生硬な主人公を、まるで自分自身のごとく演じた。橋本愛はカナコそのものであり、ここにおいて彼女の俳優人生がある結実を見せたように思える。

 長津田と別れたばかりのカナコは、彼の新しい恋人になるチャリクロの後輩・麻衣子(山田杏奈)と、池のほとりで待ち合わせる。本文冒頭で記した洋一のセリフ「それにしても、やけに小石が多いな」の理由がここでつまびらかに語られる。

麻衣子「長津田先輩が脚本とか考えるとき、よくこの池に来ると言ってたから」

カナコ「長津田、よくスランプだって、石投げてたよ」

麻衣子「そうなんですか」

カナコ「長津田のスランプの石でこの池、埋まっちゃうよ」

 この池は、無造作に女や男が小石を放り投げ、指輪が捨てられたかと思うと、時としてフリーマーケット会場に変身して、不用品となった家具やヘルメットが手放され、あまつさえ愛の宣言舞台ともなる。池は脳であり、水鏡であり、世界の中心なのである。空即是色。一見すると虚無に見える池は、濁水をたたえて無形の中に小石、指輪、欲望、喜怒哀楽を飲み込み、いっぽうで人間のほうこそこの濁水に流れ着き、移り変わり、しばし佇んだかと思うと、あっという間にいなくなってしまう。池の前で人はつねに一見客であり、また百代の過客でもある。

 だから人はその場にいるあいだだけでもワルツを踊り、ロンドを奏でてかりそめの円環をかたちづくり、虚無からのがれようとする。死者を起こすために、強くノックする。そしてこのかりそめのパーティの最終舞台は遊園地。乗り物に乗せられ、人が猛スピードで運ばれていく。一見客であり、また百代の過客でもある自分たちが、あっという間にその場から退場させられることに気づかぬ速さで。彼らが運ばれていく眼下で、カナコは走る、逃げる、自分の足で。おのれの不定形な欲望は、まだ水鏡には写っていないのだと言わんばかりに。カナコよ、逃げろ!

『早乙女カナコの場合は』

2025年3月14日(金)
新宿ピカデリーほか全国公開
監督:矢崎仁司
原作:柚木麻子『早稲女、女、男』
出演:橋本愛、中川大志、山田杏奈、
根矢涼香、久保田紗友、平井亜門、
吉岡睦雄 、草野康太、のん、臼田あさ美、中村蒼
Ⓒ2015 柚木麻子/祥伝社 Ⓒ2025「早乙女カナコの場合は」製作委員会

今月のThe Best

吾輩は借りてきた猫である

 埼玉県のベッドタウンに転居してちょうど2ヶ月が過ぎた。依然としてホーム感に乏しい。吾輩は借りてきた猫である。この街に友だちは一人もいないし、できる気もしない。それでせめて新居だけは自分仕様に染め上げたい。その一心で不用品の処分、いわゆる断捨離というものにいそしむ日々である。しかしながら東京都心から離れたことによってスペースがすこしは広くなったため、意外と蔵書には手をつけていない。年末に若くして急逝した超書評家の永田希さん(🙏合掌)の著書『積読こそが完全な読書術である』と『再読だけが創造的な読書術である』に倣うなら、可能なかぎりは未読書も既読書も積んでおこうかという算段である。
 かつてYohji Yamamotoのアシスタントスタッフがインタビューで語っていたのは、うちの作る服は異常に丈夫だから、おそらく着る人が死ぬよりも長持ちするだろう、とのこと。私はしばらく前から、私の所持品と自分自身の推定寿命を比較する癖がついている。みなさんも残された時間の中で、美味なディナーの口悦に興じる回数、読める本の冊数を逆算的に想像される方も少なからずおられることだろう。
 文筆家の五所純子さんがどこかの雑誌で、「断捨離とか10着コーデとか生前整理とかがピンとこない」と話していて、それもまた然りと首肯する。欲望の強靭さ、対象に対するみっともないまでの執着心こそが創造の源泉だとするなら、ミニマリストのすっきりとした心境は大いに警戒すべきかもしれない。とはいえ私は、ミニマリストたちが片づけの様子を写したYouTube動画を見るのも嫌いではないし、一流の天ぷら屋に入って座席に腰を下ろした瞬間に背筋をすぅとつたうミニマリスト的研ぎ澄まされには、何にも代え難いものがあることも否定できない。
 次は編集者の中村大吾さん。彼によれば濱口竜介監督『ハッピーアワー』(2015)に登場する文芸誌の編集者の自宅、「あれでは本が少なすぎる」とのことだ。また、この作品は神戸を舞台とするが、「同人誌やタウン誌ならともかく、関西に文壇は存在しない」とも。なるほどと思う。じっさい私自身、映画やドラマの登場人物たちの本棚がいつもすっきりし過ぎていることにいつも苛立ちを覚えてきた。よほどの無頼派気取り、ミニマリスト気取りでなければ、作家や芸術家の本棚があんなにすっきりしているわけはないのである。
 結局のところ、吾輩は断捨離をしたいのか、したくないのか。断捨離をこわごわおこないながら、未決の虜囚として吾輩も吾輩の所持品もそのへんに漂泊しているのが現状である。