上野昻志 新・黄昏映画館

1. 喜劇 とんかつ一代(川島雄三監督、1963年)

連載を始めるに当たって

 

この6月に、『黄昏映画館 わが日本映画誌』という映画評論集を、国書刊行会から出した。『映画全文 1992~1997』という本をリトルモアから出したのが、1998年だから、ほぼ25年ぶりの刊行ということになる。今更ながら、自分の怠け者ぶりに、些か呆れる。といっても、その間、仕事をしていなかったわけではない。だいたい、仕事をしなかったら、とっくに干上がっていただろう。むろん、勤勉とは言い難いが、映画のことに限らず、注文があれば、そのつど、然るべき媒体に文章を書いてきた。ただ、それらをまとめようという意識が、希薄だったのだ。

そんなノーテンキなわたしに活を入れたのは、国書刊行会の樽本周馬である。いままで映画について書いた文章を、過去に遡ってまとめましょうと提案し、わたしが忘れていた文章(多々ある)も、八方手を尽くして拾い集め、関連するものは旧著からも引き出し、監督別に整理・編集して一本に仕上げたのだ。結果、1970年に書かれた文章から、最近のものまでを網羅した、1000ページ近い分厚い本になったのである。

それが出たのを機に、大阪のシネ・ヌーヴォという映画館の館主・景山理と支配人の山崎紀子が刊行記念上映会を企画し、6月25日から7月22日まで、わたしが選んだ20作品を上映してくれたのだ。さらに、それを受けて、年来の友人であるリトルモア社長の孫家邦が、ここに寄稿するよう道を開けてくれたのである。

本来、映画について書く欄なのに、些か長い前口上となったのは、1回目に取り上げる映画が、以上の経緯と関係があるためである。

 

かくして、第一回は、川島雄三監督の1963年の作品『喜劇とんかつ一代』ということに相成る。

なに? 新・黄昏映画館と名乗りながら、半世紀以上前の映画か、と呆れる人がいるかもしれない。が、映画に古いも新しいもない、というよりも、昨日できたばかりの新品でも、古色蒼然たるものもあれば、百年前の映画でも、見る度に新しいものもある、というのが映画であろう。ま、『喜劇とんかつ一代』は、そこまでいかなくても、いま見ても断然面白いことは請け合う。

実は、昔、この映画を見て、いろいろな人物が次々と現れるが、どこから出てきたのか判らない、それがもたらす躍動感に痺れながら、具体的に指摘することが出来なかった。そのため、前記の本に収めた川島雄三作品を論じた文章でも、触れられなかった。それが、シネ・ヌーヴォでやっと見ることができ、この映画を弾ませる川島の映画的な工夫が、ある程度つかめたのだ。

 

森繁久彌のとんかつの歌で始まる話は、一応、単純ではある。舞台は上野で、一方に、加東大介がコック長を務める青竜軒という老舗のレストランがあり、それが新しいビルに建て替えられるという話がとりあえずの主線をなすのに対して、一方に、森繁が開発したとんかつ専門店のとん久という店がある。森繁は、かつて加東大介のもとで西洋料理の修業をしていたが、独立して、とんかつ屋を始めたために、加東と絶縁状態になっている。さらに、クロレラを食品化する研究に没頭する三木のり平のクロレラ博士がいる。それらに、様々な人間たちが、血縁関係を軸に絡んでいくのだが、起承転結など屁の河童で進んでいくから、映画としての終わりはあるが、物語としての帰結はない。

キャストとして、まず3人の名を挙げたが、それ以外も、オール・スター総出演と言いたくなるほど豪華なのだ。目立って動く方から言うと、フランキー堺に、その恋人の団令子、りんごちゃんという芸者に扮する水谷良重(後・八重子)、森繁の妻が淡島千景で、加東の妻が木暮実千代、のり平の妻が池内淳子、さらに元屠殺人の山茶花究(これなど、いまじゃ設定不可だろうね)に、益田喜頓に都家かつ江に横山道代(後・道乃)、そして日本文化研究のため来日しているフランス人の岡田眞澄、果ては、当時の上野動物園園長の林寿郎まで登場するのだ。

1963年といえば、映画産業が斜陽化しつつあったが、これだけの顔ぶれが揃うのは、まさに、撮影所時代の掉尾を飾る賑わいといえよう。しかも、出場は少ない三人の妻たちを、決して刺身のつま扱いせず、ちゃんとそれぞれを生かす演出を、川島はしているのだ。

というようなことを踏まえたうえで、川島の、映画を弾ませる工夫に目を向けよう。

もっとも基本的と思われるのは、どんでん、と言うほうがそのダイナミックさが通じる、切り返しである。

切り返しで、すぐに思い浮かべるのは、小津安二郎作品だろうが、小津の場合は、向かい合って話す原節子と笠智衆を、一方の顔から他方のそれへと切り返すだけだ。たとえ両者の視線がまじ合わないにせよ。

ところが、『喜劇とんかつ一代』では、もっとダイナミックなのだ。その典型と思われるシーンは、以下のようになっている。

人のいないと思われる事務所で、電話が鳴っている。と、電話の後ろにあるソファから手が伸びて、受話器を掴み、ついで団令子が顔を出して電話に応答して受話器を置く。と、カメラが反対側に回る。そのソファには、フランキーが団令子と抱き合っているのである。つまり、どんでんで、見える世界が一変するのだ。

これには、セット(美術=小野友滋)も、撮影(岡崎宏三)も、然るべき技術を発揮しているのだろうが、それを仕掛けたのは、川島の演出だろう。いずれにせよ、カメラを切り返すことで、見える景色が変わるという試みを、川島は、おそらく面白がって、随所でやるのだ。

たとえば、森繁のとん久では、店から二階に上がる階段が素通しのらせん状になっている。そこに訪ねてきた山茶花究を二階でもてなす場面では、件の曲がり階段を、とんかつの皿を載せたお盆を持った森繁に山茶花が続く。そこを店側から捉えた二人のやりとりを、途中で切り返し、二人の向こうに店で立ち働く女たちを見せる。ただし、ここでは、元の職業柄か、異常に潔癖症の山茶花が、喋りつつ上がる森繁の唾がとんかつに飛ぶのを嫌がって、いちいち、かつを除けるという小芝居を披露するのが主眼だろうが、そこでも、どちらからも素通しで見える曲がり階段を作り、下から上に上がるというそれだけの間に、カメラを切り返すというのは、監督の尋常でないこだわり故であろう。

このような細部を挙げていくとキリがないので、もっとダイナミックな動きを見てみよう。

わたしが、唖然としたのは、ガンコ親父の加東大介が、自宅で、息子のフランキーを怒って蹴飛ばすシーンだ。その瞬間、フランキーは、廊下から転げ落ちるのだが、勢いあまって、隣の家の屋根まで吹っ飛ぶのである。呆れると同時に、屋根瓦にこちら向きで座っているフランキーを見たら、笑うしかない。

それと逆に、見ていてハラハラさせられたのは、どこのビル工事現場で撮ったのか、とにかく設定としては、青竜軒が建て替え中のビルということだろうが、フランキーは、設計についてあれこれと指示を出しながら、いつの間にか、上に引き上げる鉄骨に座っている。鉄骨を支えるのは一本のロープだ。それが、前後を見ることもなく喋り続けるフランキーを乗せたまま、二階、三階と徐々に吊り上げられていく。最後は、四階ぐらいまで行ったのではないか。普通なら、人間など絶対に乗せない鉄骨に人を乗せて吊り上げるなどという暴挙を、平気でやらせる監督も監督なら、やる役者も役者だ。

そんなフランキーの動に対して、静というか、さり気ない所作と起ち居振る舞いで眼を引くのが、三木のり平である。彼は、クロレラを未来の食材として生かすために、妻の池内淳子と共に、ひたすらクロレラ料理を作り、食べている。

そこに、何処からか突然現れたりんごちゃん(彼女は、いつでもそうなのだ)が、自分を大事にする旦那を選ぶために、のり平に、按摩に扮して、男の本音を引き出すための電気装置を、新式のマッサージ器と思わせて探ってほしいと頼み込む。すると、のり平は、それらしく黒メガネに白衣をまとって、大仰な機械装置を座敷に持ち込み、増田喜頓の全身に電極を挿みこんだりするのだ。

この身軽な変身ぶりこそ、三木のり平の真骨頂であろう。そして、文字通りの身軽さを見せるのは、彼が、フランキーに、赤ん坊のように抱き付き、抱っこ状態でぶらさがる姿である。それも一度ならず、二度までも。

と、まあ、このように書いていてはキリがないから、この辺で止めるが、一言言い添えると、ここでは、とりあえず脇に回った女たちが、いずれも生き生きとしていることである。りんごちゃんや、森繁の勝気な女房の淡島千景もそうだが、代表格は、団令子だ。山茶花究の娘で(その悪口を聞いた究が、危うく、加東大介を、豚殺しで鍛えた腕で殴ろうとする一場もある)フランキーの恋人である彼女は、彼が横山道代と見合いをすることになっても、自分は自分とばかりに、いささかも動じないのだ。

ともあれ、結局、何がどう落ち着くのか、話は宙づりのまま、とん久の店で一同が、とんかつ食べた脂ぎった唇で接吻しようよ、という、とんかつの歌を大合唱する終幕で、なんとも言えぬしあわせな気持になるのだ。

こんな気分、最近の映画では絶えてないな。

 

 

  • 「喜劇 とんかつ一代」
  • DVD発売中
  • 2,750円(税抜価格 2,500円)
  • 発売・販売元:東宝
  • ©1963TOHO CO.,LTD.

 

近時偶感

この国では、いつからか、人が死ぬと、いい人だったという習いがある。たとえ、腹の中でクソと思っていても。それで平和が保たれるというわけだ。だが、私人ならともかく、公人に、それでいいのか? 公人、まして政治権力者の場合、彼がやったことは、法としても、生きている者を縛る。その功罪を問わないのは、自身の未来を放棄するに等しい。それでいいのか、と問うても、いいよ、という大合唱に消されてしまう、今日この頃。