『ルート29』(森井勇佑監督、2024年)
まず、背後に石垣が見える堀端で、少年少女の群れが映る。そこを拡声機片手の教師が、自由行動だが班ごとに行動するように、と注意を呼びかけるのが、左から右への横移動で映される。カメラが、立っている一人の女子を捉えて止まる。彼女は、右に身を翻したかと思うと、石垣を背にした木の下に座る男子のもとに歩み寄り、タバコを吸う格好をみせ、走っていく。二人の男子も、町の通りを駆ける少女のあとを追い、建物の隙間に辿り着くと、3人はタバコに火をつけようとする。と、一陣の風が吹いて火をつけられず、建物の壁に寄りかかったピンク色の服の女の陰に身を寄せる。手前の道を、少年とも少女とも見える子がローラースケートで通り過ぎる。それを見たのか、3人の中学生の向こうに立っていた女が走り出す。あとになって、その走り出したピンクの服の女が、本作の主人公、のり子(綾瀬はるか)であることを知る。
冒頭のこの部分、実際は、わずか数分の推移だが、振り返って言葉にすると、こうなる。物語の導入としては、ずいぶん凝った作りだが、最初に映る公園が、姫路城のお堀端だと知っていれば、物語の場所設定としては意味があるものの、そこで群れ集う少年少女も、通りを駆けてきて建物の陰でタバコを吸う3人組も、以後の物語とは関係ない。
1970年代までの監督だったら、まず、挿入部で、ここまで凝らないだろう。仮にやったとしても、会社から、切られたのではないか。物語の経済原則からして無駄だ、さっさと始めろ、と。実際、三隅研次のような名手は、会社の意向などに関係なく、これ以上の簡潔さはないというくらい素早く物語を進めていたのだ。
だからといって、わたしは別に、昔の映画にこと寄せて、これを批判しようと思っているわけではない。森井監督は、のり子とハル、2人の主人公を、どのように登場させるか、考えを巡らせたうえで、この一連を冒頭に設定したのだろう。そこには、以降も群れ集う少年少女たちを出したいとか、そのなかで、人と人をつなぐタバコも出したいといった思いがあったのかもしれない。
実際、物語の中盤では、牧場の家畜小屋で一夜を過ごしたのり子とハルが、大男の心遣いで置かれた傘をさして道を行くとき、色とりどりの傘をさす小さな子供たちの群れと行き交うし、のり子の姉が登場するシーンでは、まず、小学校の教室内で動き回る子供たちを捉えていた。
一方、タバコは、鳥取で清掃員をするのり子が、精神科病棟の庭にいるとき、白衣の女性から、タバコ持っていますかと声をかけられ、彼女にタバコを分けて、2人が吸ったことで、件の女性から、姫路にいる娘を連れてきて欲しいと頼まれ、写真を渡されるのだ。
また、のり子とハルが初めて互いの顔を見つめ合うきっかけは、のり子が、逆さに咥えたタバコに火をつけ、慌てて足で踏み消したことによる。さらに、ハルとのり子+逆さになった車から引き出された老人の3人が、トンネルを避けて入り込んだ山中の川縁で、「人間の社会から逃れたい」と旅をする親子と出会った一連では、のり子がタバコを咥えると、父(高良健吾)も1本貰って吸うのだ。タバコを介して親密な空気が流れる。いまでは、タバコは、その害だけが強調され、吸える場所も限られるが、本作では、人と人の出会いをつなぐ重要な働きをしている。
話を戻せば、姫路の商店街でハルを見つけ、そのあとを追って、森の中に秘密基地らしいものを作っているハルに近づいたのり子とハルが顔を見合わせる場面が素晴らしい。きっかけは、すでに記したように、のり子がタバコを踏み消し、その音に気づいたハルが、のり子を見るのだが、そこで、2人の顔を交互に写すショットと、それについで、交わされる2人の声、そして、のり子の写真を持った手が伸ばされ、ハルの手がそれを受け取る、2本の手が交差するショットが美しい。そのとき、のり子は、ハルに、あなたをお母さんの所に運んでいくと繰り返すのだが、この「運ぶ」という物に対するような言葉は、それからの、ハルが、のり子をトンボと呼んだことから始まる道中で、徐々に変わっていくだろう。
姫路から鳥取に向かうルート29を行く2人の旅が、本当に始まるのは、のり子が、無断借用してきた清掃会社の車を盗られてしまってからだ。
盗ったのは、赤い帽子に赤い服の女(伊佐山ひろ子)だ。きっかけは、ハルとトンボが入ったドライブ・インでの出会いだが、ここで最初に目につくのは、薄暗い店のカウンターに立つ女を正面から撮ったショットである。暗いので、その顔もあまりはっきり見えないのだが、カメラは、やや引き気味ながら正面から写している。2頭の犬をつれて店に入ってきた赤い帽子の女が座ったところも、正面からのショットだ。
さらに、店の女の、犬は外でお願いします、という言葉に、ハイと答えながら、平然と無視する赤い帽子の女は、ハルとトンボの席に寄ってきてから、延々と犬の話をするのだが、この間、話す帽子の女と聞くのり子を写すショットも正面からの切り返しだ。
本作の撮影監督・飯岡幸子は、正面からのショットに拘る。というよりは、この映画の画面作りのポイントに正面からのショットを選んだということかもしれない。正面からのショットは、対象のアクションを止める。それは、移動をベースとするロードムービーにおいて、移動の主体たる人間を、一瞬、際立てる句読点のような働きをしているのではないか。
ともあれ、赤い帽子の女は、病院に連れて行ったら逃げ出した、もう1頭の犬を探すのを手伝って欲しいと、2人の車に乗り込む。そして、この辺にいそうな臭いがすると言って、車を止めさせ、ハルとのり子が、林のなかで見つけた黄色いボールを蹴って遊んでいるのを見ると、車に乗り込み、運転しながら、のり子のリュックサックやノートを窓から投げ捨てて行ってしまうのだ。
かくして、2人は着の身着のままで29号線を歩いていくしかなくなり(それでも、のり子はタバコだけは持っている)、奇妙な出会いを重ねていくことになる。
道を並んで歩く2人を正面から後退移動で撮ったショットについで現れるのは、道の真ん中にひっくり返っている車である。ハルが、車の中に座っていた老人に、オーイと声をかけながら棒でつつく。のり子が車から引き出すと、出された老人(大西力)は突っ立ったまま。ハルが、その尻を棒で突いたりするが、2人が歩き出すと、あとについてくる。
3人がトンネルの入り口で立ち止まり、そこから伸びる暗い道を見やるが、ハルが、こっちがいいと山の中に入って行くのに、老人=じいじもついていく。しばしトンネルの闇に眼が放せないトンボ(その顔のアップ)も、遅れて山に入って行くが、2人を見失って迷う。
先に、タバコに絡んで書いた、人間の社会から逃れたいという旅の親子連れとの川縁での出会いは、ハルの先導によるのだ。そのハルが、川に入って見やると、釣りをしている少年(原田琥乃佑)が見返す。少年が、お父さん、人間がおる、と岸辺に向かい声をかけるが、このハルと少年の川のなかでの出会いを撮ったショットは強く印象に残る。また、父が、人間の社会から離れて旅をする想いを語りながら、ビン詰めのオイル煮のような鱒を3人に振舞ったり、少年とハルが川に石を投げたりといった束の間の交流のあと、父と子の2人と、こちらの3人が、向かい合って別れを告げ、ついで2人を見送る3人を正面から撮ったショットも忘れがたい。
出会いと別れ。だが、それが、生と死のあわいに触れるように感じさせるのは、それまで一言も発しなかったじいじが、山を下りて湖に行き会うと、カヌーに乗りたいと言って、ブルーのカヌーを漕ぎ出してからの展開である。ハルとトンボも黄色いカヌーに乗るのだが、2人に背を向けたじいじが漕いでいく彼方から、幾艘もの赤いカヌーが現れ、じいじが行くのを迎えるのだ。それに別れの手を振るハル。この一連では、ブルーと黄色に赤のカヌー、それらを浮かべる湖の青という色彩が際立つが、同時に、森井監督の前作『こちらあみ子』(2022)を観ている人は、ここで、あみ子が、死者たちの乗る船を幻視するシーンを思い出すだろう。
湖の水を介して死と触れあったハルとトンボを、生の側に引き戻すのは、雨だ。土砂降りの雨に追われて2人は牧場の家畜小屋に行き着くが、その間に、赤い帽子の女から逃げたという3頭目の犬が、木の陰で雨を避けているのが、チラリと映る。
ここまでは、清掃員をしていたのり子が、もうすぐ死にますという女に頼まれ、姫路にいるハルという少女を、鳥取まで「運ぶ」べく始まった旅が、いつの間にか、ハルの気まぐれな動きに誘われ、この世界の外れに生きる他者との出会いへと導かれてきたのだが、鳥取に近づいたところで、トンボならぬのり子が、小学校の教師をしている姉のもとを訪れたことで、空気が変わる。
久し振りに出会ったのり子たちへの歓迎のためか、下手なピアノを披露し、そのために近所から苦情を言われたりもする姉(河井青葉)。彼女が住む部屋は、カーテンやランプシェードなども趣味良く整えられている。それは、人間社会から逃れて旅する親子とも、生死のあわいに消えるじいじとも対極にある暮らしといえるだろう。いや、それでいながら、姉は、教師としての自分に疑問を持ち、自身をも扱いかねている悩みを、妹に向かって語り続けるのだが、それ自体が、この人間社会を生きる当たり前の人間らしい想いだ。だから彼女は、テレビのニュースが、行方不明になったハルのことを告げると、即座に警察に電話しようとする。
それを、説明することもなく断ち切ったのり子は、ハルとともに出ていく。同行二人。だが、それも、ハルが喫茶店のトイレの窓から抜け出して、町をうろついたことから、一端は途切れる。ハルは、古びた時計店で、恐竜の骨を削って針を作ったという腕時計を、店主のおばあ(渡辺美佐子)から石を代価に手に入れたりするが、トンボは、ハルを探して、赤い月に見とれる町の人々の間を走り回わる。
道で会った時計店のおばあが、大丈夫、会えますと言った通り、トンボが、道路に並べられた小石を見つけ、そのあとを伝って走ると、ハルがいた。立ち尽くすトンボを見て、ハルは言う、泣いてるん? だが、慎み深いカメラは、涙に濡れたトンボの顔を写すようなはしたないことはしない。
ホテルのツインベッドに並んだトンボとハル。そこで、ハルは、お母さんに会うのが怖くなったと、その思い出を語り、ハルに訊ねられたのり子は、母は中学生の時に亡くなり、いまでは、声も憶えてないと言う。
それまで、同行する2人の前には、のり子の姉も含め、常に、他人がいた。それが、目的地を目前にして、ハルが、姫路にいたときと同じように、1人で動き回った挙げ句、改めて出会い、2人だけの時を過ごす。
ハルは、母に会ったらトンボのことを話すと言うのだが、ここに到って、ハルのなかで、トンボ=のり子は同格の友となったのである。それが、独りであることに慣れたのり子においても同じであることは、このあとの鳥取砂丘での2人の語らいのなかで明らかになる。
であれば、ここから先を辿ることは、わたしの任ではない。この日本映画では稀な、豊かな彩りに満ちたロードムービーの帰着はどうあれ、観る人それぞれが、そこから受けとった想いを噛みしめればいいのだ。
補注:これを書いたあとで、本作の決定稿を見たら、始まりは、ごく尋常に、鳥取での、診察室で医師の説明を受けるのり子から、清掃員としての仕事をしている様子、そのうえで、精神科病棟の庭でのタバコを介して受けた、ハルの母からの依頼へと、時間を追った順序で展開しているのだ。実際の映画の冒頭シーンと同じことは、そのあとの姫路で出てくる。とすると、監督は、編集段階で、冒頭シーンを入れ替えたのかもしれない。
- 『ルート29』
- 監督・脚本:森井勇佑
- 原作:中尾太一『ルート29、解放』(書肆 子午線)
- 撮影:飯岡幸子/照明:秋山恵二郎/録音:髙須賀健吾/美術:大原清孝
- 出演:綾瀬はるか 大沢一菜 市川実日子 高良健吾 河井⻘葉
- TOHO シネマズ日比谷ほか全国公開中
- 2024|日本|カラー|ヨーロッパ・ビスタ|5.1ch|120 分
- ©2024「ルート29」製作委員会
近時偶感
もしトラが、本トラになって帰ってきた。その歴史的、思想的背景については、会田弘継の『それでもなぜ、トランプは支持されるのか』(東洋経済新報社)が明らかにしているが、それでも、移民は犬や猫を喰っているなどというデタラメを、したり顔で語る男が支持されるのかと、アメリカという国に首を捻りたくなる。
べつだん、バイデン時代が良かったなんて思わないが、トランプ大統領になれば、世界中で摩擦が起こるだろうことは、想像がつく。それは、彼が選んだ閣僚を見てもわかる。なかでも、最低だなと思ったのは、エリス・ステファニクという下院議員を国連大使に選んだことだ。
彼女は、米国内の大学で起きた、イスラエルのガザへの無差別攻撃に反対するデモに対して、「反ユダヤ主義だ」と決めつけ、「反ユダヤ主義で腐敗することを許している組織に資金を提供し続けることに興味はない」と言って、国連への資金提供の見直しを主張したのだ(朝日新聞・11月12日夕刊)。
学生たちが問題にしているのは、ガザで4万人を超える死者を出しながらも、なお攻撃を続けることに対する反対で、ネタニヤフのイスラエル政府への批判であっても、ユダヤ人に対する攻撃ではない。実際、イスラエル国内でも、停戦を求めるデモが起こっている。それを「反ユダヤ主義」と一括りにして、国連の人道支援を止めさせようとしているのだ。
そんな人間が国連大使として出てくれば、ネタニヤフは、諸手を挙げて歓迎し、彼が現在進めている、パレスチナ人を根絶やしにしようとするジェノサイドに拍車をかけるに違いない。実情を無視して、「反ユダヤ主義」と言ってしまえば、アラブやアフリカ諸国は別にして、ヨーロッパ諸国は、みずからのユダヤ人差別に対するトラウマで、公然と、イスラエルに反対することをしなくなるだろう。なんともはや、である。
トランプの返り咲きに較べれば、日本の選挙など、コップの中の嵐以下、木枯らしでしかないが、それでも、アタマにくることがある。
日本保守党代表の、百田某は、自身のユーチューブ番組で、少子化対策をめぐって、「25歳を超えて独身の場合、生涯結婚できない法律に」とか、「(女性は)30(歳)超えたら、子宮を摘出する、とか」発言していたというのだ(朝日新聞・11月10日朝刊)。なんという下劣な物言いかと、一瞬、目を疑った。本人は、SFだとかなんとか弁明しているようだが、女性差別とかなんとかいう以前に、このようなことを口にすること自体、この人物の思考回路の愚劣さを現している。これが、ただの物書きの言い草なら、バカ! 己をわきまえよ、ぐらいですむかもしれないが、そんな男が代表を務める保守党に投票し、3人も当選させた人たちがいるということに、呆れて言葉もない。