上野昻志 新・黄昏映画館

21.『ラジオ下神白―あのとき あのまちの音楽から いまここへ』(小森はるか監督・撮影・編集、2023年)

久しぶりに、歌の力に惹かれた。改めて、人間にとって歌とは何か、と想いを巡らした。それも、プロの歌手がうたう歌ではない。まったくの素人がうたう歌に、である。何故なのか?

主なる舞台となるのは、いわき市にある福島県復興公営住宅「下神白(しもかじろ)団地」だ。ここには、2011年の東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、浪江、双葉、大熊、富岡の4町から避難してきた200世帯の人たちが暮らしている(その後、4町以外の町から避難した人や、台風で被災した人たちも入居しているという)。

「ラジオ下神白」というのは、文化活動家のアサダワタルが、2016年から始めたアート・プロジェクトで、具体的には、東京から通いながら、現地のスタッフと協力して、団地で暮らす人に、それまで住んでいた町の思い出や、なじみ深い音楽についての話を聞き、その語りと音楽をラジオ番組ふうに編集し、CDに焼いて各戸に届けるのだという。

小森はるかは、2018年末から、アサダワタルたちの活動日に合わせて、仙台からいわき市に行って撮影を始めたというが、すでに2年近く活動を続けてきただけに、アサダたちが、すっかり住民と打ち解けている様子がうかがえる。それぞれの部屋に上がり込んで、収録したCDを流して話し込んだり、部屋の主が取っておいたカセットを取り出して、そこに収められた歌について尋ねたりしているのだ。

この団地では、集会所が開かれるときは、カラオケでうたう人たちがいる。そこで声張り上げて元気にうたっていた、いみ子さんという女性は、歌をうたってる時は、嫌なことは全部忘れる、でも、帰ってくると一人で寂しく、なんで先に逝っちゃんたんだと、写真(亡くなった伴侶の)にぶつぶつ言ったりしたことがあると言う。彼女は、被災してから5、6か所も避難所を転々としていたようだが、その頃は歌を忘れていた。でも、今は、食べることよりもうたうことのほうが大事で、夢の中でも、うたっている夢を見て、思わず声を出していることもあると、明るく笑うのだ。そんな彼女の十八番は、「宗右衛門町ブルース」である。

わたしは、このドキュメンタリーで初めて知ったのだが、アサダワタルは、音楽家でもある。というか、もともと音楽家だから、このようなプロジェクトを企画・実行したということなのかもしれない。

そんな彼は、2019年に、東京で、「伴奏型支援バンド」なるものを作る。この年のクリスマスに開く「歌声喫茶 みなさんの思い出の曲をみんなで歌いましょう」という催しで、色々な人がうたうのに、生演奏で伴奏しようというのだ。アサダ自身はドラム担当だが、他の人たちは、彼の呼びかけで集まったようだ。そのなかには、被災者の支援はしたいが、どうやったらいいかわからなかったのが、バンドで演奏することなら出来ると思って参加したという人もいる。

彼は、バンドのメンバーに、カラオケでは、目の前に歌詞が流れ、曲はそれに合わせて進んでいくが、なかには、その進行からずれる人もいる。伴奏は、それに合わせることが出来るか、といった意味のことをメンバーに問いかけたりする。

その一方で、団地訪問を続けるのだが、けい子さんという人の90歳の誕生日を祝って、アサダたちが彼女の部屋を訪れた時の光景が印象深い。アサダが「ラジオ下神白」からのプレゼントと言って、はちみつなどを渡したあと、メンバーの一人がラジカセに録っていた「青い山脈」の前奏が流れ出すと、けい子さんは、ソファから滑り落ち、曲に合わせて手拍子をうつのだ。

どこで聴いたのか、という問には、憶えていないけど、素敵な歌だと思ったと答えるけい子さんに、アサダが、けい子さんから出てくる唯一の日本人の曲だから、と言うところに、彼女の趣味・嗜好が窺えるが、そのあと問わず語りに語った言葉が、とりわけ印象深い。

わたしらの生活、今の時代と違って、かわいそうな時代だったんだよ。これもダメ、あれもダメで、学校時代、敵国の学問というか、会話なんか絶対に御法度! だから、卒業して、外国語を習いたいと思って、東京に出て、進駐軍の家族がいたから、子どもたちと接触したら、お話も上手にできるかなと思って、ベビーシッターの手伝いに入った、と言うのである。

この、けい子さんが2019年に90歳だとすると、生まれたのは、1929年、昭和4年ということになる。その勘定でいくと、1941年、昭和16年「大東亜戦争」が始まった年には、12歳で、敗戦の1945年には16歳ということになる。中学から高校という多感な時代は、まさに敵性言語など御法度、もしかしたら彼女は勤労動員に駆り出されていたかもしれない。そんな日々のなかでも、彼女は、外国の文化や言葉にひそかな憧れを抱いていたのだろう。それだけに、卒業すると、すぐに東京に出てきて、なんとか英語を身に着けたいと、進駐軍の家庭にベビー・シッターとして入ったのだ。けい子さんは、今も元気で、アサダたちが帰る時は、駐車場まで降りて彼らを見送ったりするが、若かったときは、さぞや活発に行動する女性だったのだろう。

「青い山脈」は、当時のそんな彼女の心を捉えたのだ。それは、あの時代を生きた人々にとって、重苦しく人を押さえつける時代が終わって、ようやく解放されたと実感させたのであろう。昭和の終わりの年に、NHKが「昭和の歌 心に残るベスト200曲」を選んだ時に、「青い山脈」が1位になったことにも、その記憶が生きていたといえよう。だが、それ以後、時代は変転していく。だから、こう話したあと、けい子さんが、今の時代って幸せなのかな、今の子どもたちって、幸せなのかな、と漏らした言葉には、なんとも複雑な思いが残る。

アサダワタルのラジオ下神白第5集「変化と連なり さよならのかわりに」を告知する、「下神白団地から元の町に戻られた方、別の町に転居された住民さんの声を収録しました」という声が流れたあと、スタッフが訪れる、きよしさんという、元は漁師の人とのやりとりを捉えたシーンは、このプロジェクトのありかたをよく示していて興味深い。

彼は、ここで3年間暮らしていたが、間もなく会津の施設に移る。一人暮らしが難しくなったのであろう。彼は、現役の時に行ったブラジルやパナマ運河の話をするが、そんな彼に、スタッフは、彼を撮った写真を集めたアルバムや、彼が話したことを収めたCDを渡して、施設に行ったら、そのCDを配って、自分のことを知ってもらったらいいと言うのだ。同様のことは、下神白を離れる他の人に対してもしているのだろうが、その人との交流の記録を、これからの生活に向けて手渡そうとする、その行き届いた姿勢に感心する。

このあと、クリスマスの「歌声喫茶」に向けて練習を重ねるバンドの様子が映るが、そこでアサダが、どういう順序で歌ってもらうか、メンバーと相談しながら曲順を決めていくところが面白い。彼は、そこでの歌と同時に、誰がうたうかということを念頭に順番を考えているのだ。すると、メンバーの女性から、いきなり、みんなで一緒にうたって下さいといっても、難しいだろうという意見も出て、結局、いまは別の町に住む夫妻がうたうことになる「喝采」がトップになり、以下、順番が決まっていく。

そして、2019年12月23日、下神白団地に隣接する、いわき市の災害公営住宅・永崎団地で「歌声喫茶」が開催される。冒頭、二人の女性の、「ラジオ下神白プレゼンツ、クリスマス歌声喫茶 みなさんの思い出の曲を一緒に歌いましょう」という開会宣言があり、ついで、「この日のためにスペシャル・バンドを結成しました」と、バンドのメンバーが紹介され、アサダが伴奏型支援バンド結成に到る経緯を説明して、歌が始まる。

そのとき、誰がうたうかと紹介するとともに、歌詞が書かれた大きな紙が掲げられるので、うろ覚えの人もそれを見てうたうことが出来る。そして始まると、みんな、一緒にうたうのだ。この光景に胸が熱くなる。

会が引けたあと、一人の老女(けい子さんとは別の)が、「青い山脈」のとき、涙が出て止まらなかったと言うのだが、それぞれの歌に、それぞれの想いを掻き立てられるのが、よくわかる。画面を通して見ていたわたしにしても、終わってから、「喝采」やら「君といつまでも」など、あれこれの歌の断片がアタマの中で鳴り響いていたのだから。

そのあと、誰とも知れぬ女性の声で、「私が復興支援でボランティアに行った時は、いつもやりきれなさを持って帰って来たんですよ。伴奏型支援で一番変わったことは、一方向に手を伸ばすということじゃなくて、なんかお互い手を握りあう感じで……」と述懐するのが聞こえたが、それこそ、このラジオ下神白という支援の本質を表しているだろう。そこには、支援する者と支援される者が、一方通行ではなく、同じ地平で相互に交流する関係がある。それを結ぶのが歌なのだ。

 

  • 『ラジオ下神白―あのとき あのまちの音楽から いまここへ』
  • 4月27日(土)よりポレポレ東中野ほかにて全国順次公開
  • 監督・撮影・編集:小森はるか
  • 出演:下神白団地の住民さん、アサダワタル、榊 裕美、鈴木詩織、江尻浩二郎、伴奏型支援バンド(池崎浩士・鶴田真菜・野崎真理子・小杉真実・岡野恵未子・上原久栄)ほか
  • 2023/日本/70分
  • © KOMORI Haruka + Radio Shimo-Kajiro
  • 公式ウェブサイト:
    https://www.radioshimokajiromovie.com/
  • twitter(X):@shimokajiro
近時偶感

『ラジオ下神白』を見ていたら、東京電力の福島第一原子力発電所のことを思い出したが、あそこでは、昨年の10月、汚染水から大半の放射性物質を取り除く「多核種除去設備(ALPS)」の洗浄中に、高濃度の汚染廃液が飛び散って、浴びた作業員2人が入院した。さらに12月には、2号機に併設する設備で働いていた作業員が、これまた顔に放射性物質をつけるという事故があった。
 今年になってからも、2月7日には、汚染水の浄化設備を洗浄中、建屋の外に汚染水5.5トンが漏れたという。原因は、閉じるべき弁が開いた状態で作業員に引き渡され、ちゃんと確認しなかったためという。
 原子力規制委員会の山中伸介委員長は、定例の記者会見で「油断が一つの要因かと思う」と語ったようだが、オイオイ、油断かよ!と言いたくなる。あれほどの事故を起こしながら、東京電力という会社の体質は変わらないようだ。直接、被爆するのは現場の作業員で、トップは、ご心配をおかけしましたとアタマを下げるだけ。だが、こういう体質は、東電だけでなく、電力会社に共通するのではないか、という気がしないでもない。
 1991年には、中部電力の浜岡原発で臨界事故が起きたが、国に報告せず、明るみに出たのは、2007年3月。そう言えば、2ヶ月前のこの欄にも書いたが、北陸電力では、1999年に、志賀原発で臨界事故を起こしたが、日誌を改ざんして隠蔽し、これまた、明るみに出たのは、2007年のことだ。
 こうしておおやけになったのは、放射性物質が空中に飛散する臨界事故という、それこそ人命に関わる重大事故だけで、この間に福島第一原発で起きたような事故は、他でもあったかもしれないのだ。それもバレなきゃ黙っているのが電力会社じゃないか、と思う。そこには、オレたちは、電力という社会の根幹に関わるエネルギーを供給している会社で、そこらの並の企業と違うんだという尊大な思い込みがあるんじゃないかと、勘ぐりたくなる。
 そういう個別の事故は別にしても、福島第一原発の後処理だけでも、何十年かかるかわからないのに、キシダは、何の見通しもなく、原発再稼働を進めているが、その間にも、核のゴミ、つまり高レベルの放射性廃棄物は溜まるばかり。それを地中深くに埋める地層処分をやるといって、北海道が候補地に挙がっているようだが、ひとたび地震が起これば、地割れ、液状化が起こる、この地震列島で、10万年もの間、地中に閉じ込めておくことが出来るのか!? 
 10万年先のことなど、オラ知らねぇ、というのが、目先の利益しかアタマにない政治家や、経済産業省や財界、電力会社などが手をつなぐ原子力ムラの連中だろうが、その一方で、彼らは、自然エネルギーによる電力の開発・推進に足枷をつけて抑え込もうとしているのだから、何をかいわんやだ。