上野昻志 新・黄昏映画館

『青春-苦-』(第2部)/『青春-帰-』(第3部)(ワン・ビン監督、2024年)

昨年公開された王兵(ワン・ビン)監督の『青春』に続く2作が完成し、ここに、延べ10時間に及ぶ、『青春』3部作が、その全貌を明らかにすることになった。

3部作構成といえば、王兵監督の第1作『鉄西区』(2003)を思い出す。あれは、1980年代には、100万の労働者が働いていたという瀋陽の工場が、90年代末にはすっかり寂れてしまった様子を、その周辺に生きる人々の姿とともに、「工場」「街」「鉄路」という3部構成によって描き出した作品だった。

それに対して、『青春』3部作は、浙江省織里(しょくり)に、1万8千もあるといわれる子供服を作る零細工場で働く青年たちの姿を、2014年から19年にかけて描いた作品である。いずれも、ミシンを動かし服を縫い付ける青年たちを写し出しているのだが、昨年公開された第1部では、仲の良さそうな男女が、どっちが早く仕上げたかを競っていたり、恋人同士が、周りを気にせず抱き合っていたりと、そこには、タイトルそのままの瑞々しい青春の息吹が感じられたのだ。

第2部となる『青春-苦-』でも、工場で働く若者のもとに、同郷の恋人が弁当を差入れに来たり、それを見た周りの連中が、彼女の歳を訊いたり、結婚はいつ? とからかい半分で問いかけるところなど、第1部と同様の青春らしい光景が見られるのだが、時とともに浮かび上がってくるのは、金銭の問題である。

どこの工場でも同じだが、そこで働く人は、自分が何着縫い付けたかを、毎日、帳簿につけている。何ヶ月か働いて帰省する時、それを社長に見せて、やっただけの仕事量に応じた給料が払われる。ところが、ワンシャンという男は、その肝腎の帳簿をなくしてしまったのだ。社長に交渉しても、帳簿なしでは給料は渡せないと一蹴される。一文無しでは、実家に帰省することはおろか、その日の食事代にも困る。まさに、苦だ。

また、ある工場では、誰かが殴られて倒れていると叫ぶ声が響いて、皆が声がした外廊下に駆け寄り下を眺めている。何事が起こったのか? その工場の社長が、支払いの催促に来た生地屋を殴って怪我をさせたのだ。しかも、社長は、そのあと蒸発してしまう。社長がいなくなったら、それまで働いていた給料はどうなるのか? 別の工場を経営している社長の兄に、支払ってもらう交渉をするか、皆は頭を抱えている。その後、どうなったかは出てこないが、おそらく、社長の兄に交渉しても、素気なく拒否されるだけだろうと想像される。

さらに別な工場では、社長が夜逃げしてしまったという。工員たちは、社長の部屋に行って調べたが、残されたパソコンの中身は全部抜き取られていた。こちらの社長は、仕立屋を殴って消えた社長より計画的だったらしい。役所に言ってもどうにもならないことは、日頃の経験から彼らはよく知っている。残されたミシンを売ってもたいした金にはなりそうもないが、それでも皆で分け合うかと頭を寄せ合ううちに、工場の大家には宿舎の電気を止められ、明日にでも出ていけと言われる。しかも、工員たちが語るには、社長が夜逃げしたり、売上金を持って姿を消したりすることは、他の工場でもあったという。

織里では、2011年に、「織里事件」と呼ばれる大規模な暴動があったという。ことの発端は、地元政府が一方的に零細企業に対する税金を、300元から600元に引き上げ、納税を拒んだ者を徴税担当者が乱打したことから、織里の零細経営者たちの怒りが爆発した。出稼ぎ労働者も加わって、数千人が公安当局と衝突し、多数の負傷者に死者も出たという事件である。

スーウェンという青年は、16、7歳の時に、この事件に巻き込まれたようで、その時、派出所で、二人の警官に首根っこを押さえられ、こめかみ目がけて膝蹴りを受けて気を失うような目に会ったと、友だちに語る。そして、捕まったら諦めたほうがいい、抵抗したら酷い目にあうと言い、「ニュースでは中国は偉大だというが、牢屋に入れば闇の深さがわかる。いくら金を稼いでも権力者にはかなわない」と呟く。

これぞ、ためにするイデオロギーなどではなく、中国社会の底辺に生きる者の、体験に基づく実感であろう。織里で働く若者たちの大部分は、そこまで酷い経験をしなくても、日常的に、賃金の支払いに頭を悩ませ、ひとたび社長が姿を消してしまえば、わずかな賃金にもありつけない。そんな彼らの存在は、富裕層や政財界に身を置く連中はもとより、北京などで然るべき仕事についている人たちからは、視界の外にあるのだ。

ただ、そんな彼らも、春節には、それぞれの実家へと帰省していくが、その様子を描いたのが、第3部の『青春-帰-』である。

 

『青春-帰-』では、それまで工場で働いていた青年たちが帰省していく様子と、帰って行った実家でのことが描かれる。織里の工場で働く人たちは安徽省出身者が多いようだが、これは、浙江省と比較的近いからだろう。彼らの場合は、帰省もさほど面倒はなさそうだが、雲南省などから働きに来ている人たちは、帰省するのに4日もかかるという。

たとえば、ミンイェンとフェイの夫婦は、雲南省魯甸(ろでん)の実家を目指して汽車に乗るが、車内はぎゅうぎゅう詰めの満員で、通路に座り、仮眠をむさぼるしかない。そんな状態で、汽車の旅が何日かかるのか知らないが、ともあれ、最寄り(?)の駅で降りると、乗り合いのワゴン車で家路を辿る。だが、雪が残るその道が凄い。1車線の狭い道路で、片側が崖になっている箇所もある。対向車が来ると、曲がり角などで余地のある場所までバックして、なんとかすれ違ってやり過ごすのだ。

そうして辿り着いたフェイの実家では、待ち構えた父親は病気になったと言い、最近の出来事を語る。庭先に置いていた建材が建設業者に盗まれたので、苦情を言いに行ったら、逆にフェイの母親が警察に連行されたというのだ。警察は、個人の言うことより、業者のほうを優先するらしい。派出所の所長は、後で処理すると母親を帰したようだが、彼らの元に、建材が返ってきた形跡はない。また母親は、夫の治療代で、去年、フェイが出稼ぎで稼いだ金が全部無くなったと嘆くが、フェイは、今年は稼げなかったと浮かぬ顔をしている。

妻のミンイェンの実家は、フェイの家からさほど遠くないところにあるようだが、そこに到る坂道には、まだ残雪に覆われている。

そこで、湯を沸かすコンロを前に彼女が語る言葉が耳に残る。帰省の汽車の仲で、フェイと抱き合うようにしていた彼女とは打って変わった暗い面持ちで、「これからどうやって生きていけばいいのか、こんなふうにして日々を過ごしても意味がない。わたしみたいな人間は、1人の暮らしが一番合っていいるのかもしれない……」。彼女は、子どもが産めない身体らしい。それで相手の(フェイの)両親が結婚に反対していたが、「フェイの気持が強かったから、わたしもその気になったけど、本当は、最初から会うべきじゃなかった。もう、全部手遅れだけど……」と。

ミンイェンは、織里の工場でフェイと一緒にいるときとは違い、実家に戻ったことで、思わず、心の底にわだかまった想いを言葉にしたのかもしれない。

だが、画面に、雲南省魯甸岩頭村という文字が現れると、空気は一変する。空は、あくまでも青く、道には雪が残っているものの、周囲の山の斜面には、もう雪はない。その高地の村で、ジュンウェイとシャンリェンの結婚式の模様が描かれる。花が飾られた車が止まると、スーツ姿のジュンウェイとウェディングドレスのシャンリェンが降り立つ。周りは、村人や子どもたちで一杯だ。二人が歩き出すと、周りから、花婿は花嫁を負ぶっていくんだ、というような声がかかる。最初は、照れ笑いをしていたジュンウェイも、周りの声が大きくなるうちに、シャンリェンを負ぶって、実家に向かって歩き出す。それを囃し立てながら、二人を囲んだ群衆もついていく。主役のふたり以上に、周りに集まった若者や子供たちのほうがお祭り気分ではしゃぎまわり、爆竹を鳴らすやら、互いの頭に何かをかけたりの大騒ぎ。昔からの習慣なのか、このあとは、子どもたちも交えた村を挙げての宴会が開かれるようだ。

そんな結婚式のお祭り騒ぎとは違って、2016年の春節に安徽省望江(ぼうこう)の村では、財神の祭りが行われていた。金運の神様と言われる財神の等身大の人形を、丸太を4本組んだ簡単な神輿に載せ、鐘や太鼓に送られて、村を練り歩き、家の前に行く。軒先には、供え物を載せた台が置かれている。その前に神輿が立つと、家の中から人が出てきて、跪く。彼らも、織里で働いているらしい。さらに財神を載せた神輿が行く先々で、爆竹が鳴り、花火が打ち上げられる。昔ながらの祭りの空気が感じられる。

だが、そんな祭りがあっても、春節が終われば、若者たちは、織里の工場に戻っていく。

第1部にも出てきたシャオウェイと恋人のイーチュンも戻ってきて、働けそうな工場を探しているが、不景気で倒産した織物工場も多いらしい。ここは、ミシンが古いな、などと言って、なかなか適当な工場が見つからない。イーチュンが、姉さんの所に行ったらどうか、などというが、シャオウェイは、難色を示す。で、二人はどうするのか、と思っていると、カットが替わり、ランニング姿で煙草を咥えたシャオウェイが、猛烈な勢いでミシンを操作している姿が映る。どうやら、仕事先が見つかったらしい。

誰もが、それぞれ様々な問題を抱えながらも、こうしてまた、労働に明け暮れる1年が始まるのだ。

 

王兵は、監督第1作の『鉄西区』以来、中国の歴史に刻まれながら、なかば忘れられた事象や人々を、なんら主観的なメッセージを交えることなく、淡々と描き出してきた。そこでは、どこの誰にカメラを向けるのかという、王兵自身の選択の的確さと、撮影そのものの力によって、常に対象を生き生きと浮かび上がらせてきたのだ。それは、『青春』3部作においても変わらないが、ここでは、中国社会を下支えしながらも、視界の外に置かれた若者たちの現在を見事に活写したのである。



*本連載では第1部『青春』も取り上げました→22.『青春』(ワン・ビン監督、2023年)


  • 『青春-苦-』(第2部)/『青春-帰-』(第3部)
  • 監督:王兵(ワン・ビン)
  • 全国順次公開中
  • https://shonen.yujidan.com/
  • 配給・ムヴィオラ
  • 2024年/『苦』226 分・『帰』152 分/フランス =ルクセンブルク=オランダ
  • © 2023 Gladys Glover – House on Fire – CS Production – ARTE France Cinéma – Les Films Fauves – Volya Films – WANG bing
近時偶感

間もなく、5月35日がやってくる。と、書いたりすると、今の日本じゃ、ナニ惚けたこと言ってるんだ、とあきれ顔をされるかもしれない。だけど、中国のネットなどに書き込んだりしたら、即、削除されるに決まっている。5月35日は、5月31日+4日だから、6月4日を指す隠語なのだ。すなわち、1989年の6月4日を暗示する。この日、何が起こったか? これも日本じゃほとんど忘れられているだろうが、天安門事件である。
 1989年の4月15日に、改革派の胡耀邦元総書記が亡くなると、翌日、学生たちが天安門広場で追悼集会を開いた。その数日後には、10万人をこす学生や市民が集まって、胡耀邦を悼み、民主化を求めるデモをするようになった。
 これに対し、政府は、5月19日、北京市に戒厳令を布告する。この布告に反対した趙紫陽総書記は、鄧小平ら保守派の長老から、総書記を解任され、以後、2005年に亡くなるまで、自宅で軟禁されることになる。
 当然というべきか、それが逆に、広場に集まった人々の怒りを掻き立て、北京市内で100万人をこえるデモとなる。5月30日には、美術系の学生がアメリカの自由の女神を模して作った「民主の女神」像まで持ちだされる事態となった。
 そして、6月4日、地方の人民解放軍部隊を中心にした装甲車が天安門広場に進撃し、デモ隊を制圧するようになるのだ。以後、この天安門事件に関する情報は、徹底的に消去・封印されることになる。それでも、この事件を忘れまいとしてひねり出されたのが、5月35日という隠語なのだ。だが、むろん、政府当局も敏感で、この隠語を抹殺しようとする。同じような隠語で、8の二乗もダメ。8×8=64だから。たった、この2文字に対して、権力側がいかに過敏かを示す、ほとんど滑稽とも言える事件があった。
 2023年10月1日、杭州市で開かれたアジア競技大会の女子100mハードルで優勝した選手が、同輩と抱き合うという、こういうところでよくある光景を捉えた映像が、テレビ放映の時、消し去られたというのだ。何故か? 優勝者の背番号が6で、抱き合った相手の番号が4だったから。
 こんな話を知ると、つくづく中国というのは、文字の国だなと改めて思う。なんとか隠語で、6月4日を思いださせようとする側もそうなら、それを蚤取り眼で消し去ろうとする側も、同じように文字にこだわるのだ。もともと、皇帝の名前の文字を、その時代の人は、諱(いみな)として使わないようにしてきた、この国の歴史は、いまも生きているのだ。
 トランプ大統領は、中国からの留学生に対し、そのSNSの履歴を調べ、思想傾向をチェックするようだが、2000年を超える文字の獄を経験してきた中国に追いつけるかね?