『旅と日々』(三宅唱監督、2025年)
忘れた頃にやってくるのは、地震や雷、要するに自然災害だが、不肖、ウエノの場合は、なんだろう。7月以来、3ヶ月も怠けていたと言われ、自分でも今更ながら呆れている。8月は、とにかく暑かった! のは、誰しも同じか。イヤ、本人は、色々手を付けながら、どうも面白くない、では、あれはどうか、などと、アタマの中がゴチャゴチャしているうちに、かくも時間が経ってしまったのです。老い先長くもないのに、この体たらくでは、どうしようもない。心を入れ替えてパソコンに向かいますので、改めて、よろしくお願いいたします。
三宅唱監督の『旅と日々』についての評は、短いながら、朝日新聞に寄稿したので、そこで書けなかったことで、気になっていたことを書く。
まず、つげ義春の「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を題材にしたこの映画の主役を、シム・ウンギョン演じる脚本家にしたことについて。
つげ作品を題材にした映画は、原作の構造を踏まえて、語り手を登場させることが少なくない。たとえば、竹中直人監督・主演の『無能の人』(1991年)などは、作者を投影させた漫画家、それも描かない漫画家を主人公にしている。また、原作に手を加えず、そのまま生かす方向で作られた石井輝男監督の『ゲンセンカン主人』(1993年)や『ねじ式』(1998年)でも、原作者を投影させた語り手を前面に出している。
その点で、『旅と日々』は、原作者とは関わりのない女性の脚本家を主人公にしている。しかも、韓国の女優であるシム・ウンギョンを起用した。これは、これまでのつげ義春のマンガを題材にした映画が、いずれも原作名をタイトルしてきたことと一線を画し、脚本家としての仕事と、その結果に飽き足らず旅に出る主人公を描いた物語にしようとしたことから選ばれたものであろう。そのことが、きわめて効果的に現れているのが、冒頭の、シム・ウンギョン演じる李が、紙に文字を書きつける場面である。そこに現れるのは、ハングルなのだ。彼女の出自からすれば当然のことなのだが、それでも、日本語の文字と異なる文字が画面に現れたこと自体に、一瞬、虚を突かれる。文字それ自体が際立つのだ。
むろん、それは、書かれたハングルに対する「女が車の後部座席で眼を覚ます」という日本語の字幕によって覆われてしまうのだが、にもかかわらず、文字が書かれたということ自体が浮き立つ。そして、次の瞬間、書かれた言葉通りの映像がスクリーンに現れるのだが、そこから、まず、文字=言葉があり、それにより映画が開かれるというように、映画そのものの始まりが、強く印象づけられるのだ。
だが、何故、そのように映画の始まりを強調したのか? と問うより早く、こちらは、後部座席で眼を覚ました女(河合優実)を乗せて動きだした車の窓越しに見える、急峻な崖から海へと下る美しい風景に眼を奪われ、ついで、砂浜に群れる人たちを捉えた俯瞰ショットから、波際に近い砂地に座る若い男(高田万作)に焦点が絞られたところで、映画の始まりは意識から遠のき、物語の中に入ってしまうのだ。



改めて、言葉から映画が始まることを示した冒頭を思いだすのは、車に乗っていた若い女が、あちこち歩き回った挙句、砂浜に座っていた若い男と出会ってからの顛末を描いた「海辺の叙景」が、映画として閉じられた時なのだ。
シム・ウンギョン演じる脚本家の李が、紙に文字を書きつけたことから始まったのは、この映画内映画だったのだと。三宅唱監督は、周到かつさりげなく、そう組み立てていたのだ。だが、そこで深読みすれば、あの冒頭は、映画内映画の始まりを印すと同時に、より一般的に、映画なるものの始まりは、まず、言葉によると暗示したかったのではないかとも思う。
だが、では何故、「海辺の叙景」は、映画内映画として作られねばならなかったのか? それは、この原作が、のちに展開する「ほんやら洞のべんさん」などとは違って、海辺で初めて出会った男女二人の話に終始する、それ以外の語り手が存在しない、世界が閉じられた作品だったからである。
劇中の、大学の講堂で、この映画が公開された時、佐野史郎演じる教授が感想を述べたりしたあと、脚本家の李が、「私にはあまり才能がない」と言うのも、女性に物語の主導権を持たせる以外、原作に手を入れる余地がなかったからであろう。
だが、冒頭で、言葉から映画が始まると示したことは、そこに留まらずに、言葉そのものの問題として、脚本家の李を捉えているのだ。
1人になって机の前に座る李のうちに去来するのは、以下のような思いだ……「言葉から遠いところで、そのままずっと佇んでいたい」のに、「いつも必ず言葉に掴まってしまう」、「初めて日本に来た時は、周囲は謎や恐怖に満ちていたが……そんな新鮮だったモノや感情も、今は言葉に追いつかれてしまった」「私は言葉の檻の中にいる」。
「私は言葉の檻の中にいる」という、この自覚は、深刻だ。むろん、おのが身を振り返ってみれば、わたしもまた、言葉の檻の中にいることに気づくのだが、李は、常に言葉と向き合い、適切な言葉を探る脚本家だから、その想いはいっそう強いのだろう。それゆえに、彼女は、「言葉から遠いところで、佇んでいたい」と念じるのだ。ならば、どうするか?
初めて、異邦であるこの国を訪れたとき、周囲の事物が、何ともしれぬモノとして映った、あの感覚を取り戻したいということだ。そのために、彼女は旅に出る。


トンネルの向こうに拡がる雪国へと。急逝した教授の双子の弟から貰ったカメラを携えて。そこで彼女が行き着いたのが、宿ともいえぬ宿を営む「ほんやら洞のべんさん」である。
ここの主、べん造を、堤真一が見事に体現している。方言丸出しの言葉遣いから、起居振舞いに到るまで、まるで、べん造そのままといった感じなのだ。同じ時に試写を観た友人が、エンドロールを見るまで、彼が、堤真一と気づかなかったというくらいに。
それで思い出したのが、今年の夏に公開された『木の上の軍隊』だ。そこで堤真一は、軍人気質ゴリゴリの上官を、いかにもそうだったろうと思わせるように演じていたが、こちらでは、それと正反対ともいうべき、雪深い山で暮らすべん造ぶりを見せるのだから、たいした役者である。
ともあれ、そのほんやら洞での、李とべん造のやりとりは、原作の漫画家が、脚本家に代わったために、漫画をめぐる話が、脚本をめぐる話になったりするぐらいで、ほぼ、原作通りといってもいい。そのうえで展開するのが、夜になって、べん造が、ふと思いついたように下の村に鯉を盗みに行くというのに、李がついていく一連である。べん造にとっては、よく知った道だろうが、李にとっては、そうではない。わずかな雪明かりを頼りに、彼女は、べん造の姿を見失わないようについていく。
その先に描かれるのは、べん造が、高価な金色の鯉を盗んだのが、実家の池で、そこで彼は、娘と出会ったりもし、そんなにして取ってきた鯉が、寒気で凍り付いてしまい、焼いて食べるしかないかと頭を捻ったりする一方で、警察のパトカーまでやってくるというくだりは面白いのだが、それより何より肝腎なのは、李が難儀しながら、雪を踏み越えて、べん造の後を追って行った往路である。
その時、彼女は、確かに、言葉にはならない旅を経験したはずである。そして、言葉から始まった映画もまた、言葉を超えていくのだ。


- 『旅と日々』
- 監督・脚本:三宅唱
- 原作:つげ義春「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」
- 出演:シム・ウンギョン 堤真一 河合優実 髙田万作 佐野史郎 斉藤陽一郎 松浦慎一郎 足立智充 梅舟惟永
- 11月7日(金)TOHOシネマズ シャンテ、テアトル新宿ほか全国ロードショー
- https://www.bitters.co.jp/tabitohibi/
- 配給:ビターズ・エンド
- 2025年/日本/1.33:1/89分
- © 2025『旅と日々』製作委員会
近時偶感
10月31日の朝日新聞、「朝日川柳」に載った以下の句に、思わず、手を叩いてしまった。
「米空母ではしゃぐを英霊どう思う」長崎県の前田一笑さんの作だ。
なんのこと? と思う人は、スマホの短いニュースだけ見て、テレビのニュースなど見ていないのかな? 女性初の首相などと持ち上げられている高市首相が、トランプ大統領に肩など叩かれて米空母に乗り、満面の笑顔でキャピキャピしていたのだ。なんとも胸クソ悪い光景だった。
この御仁は、常日頃から、先の大戦で亡くなった英霊を祭る靖国神社に詣でるのは、当然のことなどと宣まわっているが、「英霊」が、あの光景を見れば、われわれを殺した敵の軍艦のあとを継ぐ空母ではしゃぎやがって、許せねぇ、靖国などに二度とくるなと怒るに決まっていよう。
だが、これが、この国の戦後の「右翼」の実態なのだ。要するに、チンケ右翼ね。国粋主義者を気取りながら、アメリカの属国でしかない現状には目をつぶり、それどころか、唯々諾々として、その顔色を覗い、トランプをノーベル平和賞になどと持ち上げる恥知らずだ。自国第一を謳うなら、日夜、沖縄を苦しめている日米地位協定ぐらい撤廃してみろ、と言いたい。
首相ばかりではない。彼女と自民党総裁選を争った小泉は、防衛大臣になったら、首相ともども、アメリカ製兵器の爆買いに走っているようだが、それについても、同日の川柳に以下のようなのがあった。
「貢ぎ物 次は命を差し出すか」京都府の大西洋子さんの作だ。
仰るとおりだが、この連中は、自分の命だけは差し出さないね。差し出すのは、国民の命だ。
これが、戦後80年を経て辿り着いたこの国の現状というわけだ。ウンザリじゃ、すまないな。