上野昻志 新・黄昏映画館

23.『バティモン5 望まれざる者』(ラジ・リ監督、2023年)

映画を見ながら、久しぶりにアドレナリンが出た、というと大袈裟か。だが、それに伴う怒りに似た感覚を、最近の映画から受けることが稀なので、敢えて書きつけてみたのだが、それは、ここに描かれたことから触発されたことであって、本作全体に対する評価ではない。

だが、まずは、映画に戻ろう。

冒頭、お悔やみを告げられるアビーという黒人の女性に焦点が当たる。彼女の祖母が亡くなったようだ。やがて、その棺が、男たちの手によって、階段を下ろされていく。エレベーターは、ずいぶん前に止まっていて役に立たない。階段の電灯も消えたままだ。その暗い階段を、男たちは苦労しながら棺を下ろしていく。

この単純なアクションを通じて、アビーたちが暮らす、パリ郊外の古びた団地の現状を開示する冒頭シーンは秀逸だ。

下まで下ろされた棺は、無事、車に積み込まれるが、時を移さず、同じような10階建ての建物が爆破される光景が映る。そこから立ち上る煙の中、市長が倒れる。その場に立ち会った女性によれば、倒れたのは汚職で何かと噂される市長だったようだが、そこで、いかにも清潔そうなピエールという小児科医が臨時の市長に推される。彼は、この地域で進められている再開発を担うのだ。

かくして、物語は、団地の住人で、同じバティモン5に暮らす移民たちのケアスタッフであるアビーと、新市長ピエール、この二人を軸にして展開していく。

ピエールが自宅に戻って、市長になったと告げると、妻は、前もって相談して欲しかったと不満げに言うのだが、そんなやりとりに、彼の良き家庭人らしい様子が窺える。だが、その一方、市長としてのピエールは、再開発も、治安対策も容赦なく進める。

彼は、15歳から18歳の未成年が、街の中心部で3人以上で行動することを禁止し、16歳未満の若者が大人の同伴者なしで午後8時から午前5時の間に外出するのを禁止するという2つの条例を発布するのだ。

これには、ホントかよ、と驚いたのだが、実際にフランスのある市で行われたことが背景にあるという。フランスにおける市長の権限がどのようなものか知らぬが、古典的に言うところの行政執行権による独裁が、市長レベルでも行使されるらしい。その背景には、2005年に起きた都市暴動があるにせよ、市レベルで、そこまでやるようになったか、と認識を新たにする。ただ、こういう例を横目に見て、日本は平和で良かった、などと思って欲しくない。日本でも、アベ政権以来、まさに行政執行権の独裁というべき、閣議決定による法令、条例の類が、国会を通さずに幾つも施行されているのだから。今後何が起こっても不思議はない。

映画に話を戻すと、この二つの条例が出されたあとのアビーたちの行動がいい。彼女は、未成年の若者たちを大勢連れて街を歩くのだが、それに対して、即座に警官隊が行く手を遮る。条例違反、即座に解散、家に帰れという警察に、アビーは、大人が同伴しています、と応じる。それを聞いた警察の指揮官は、ピエール市長に、条例に従っていると報告するのだが、市長は、なんのための集団か明らかにさせろと命じる。それに対するアビーの答え。現代フランス人であるわたし、アビーが市長選に立候補するするため、というのだ。

アビーは、アフリカのマリ共和国にルーツのある移民のようだが、フランスに根を下ろして生きてきたから、敢えて、現代フランス人と名乗ったのであろう。このあたり、実際のモデルがいるのかどうか知らないが、官憲にも毅然として立ち向かうアビーという女性の姿が際立つ。

このあと、アビーを市長にというポスターが街に張り出されたりするが、その一方で、シリアからの、クリスチャンで白い肌の難民の家族をピエール市長が受け入れる場面がある。これぞ、当時のサルコジ大統領が、「望ましくない移民」を排除するとして定めた選択的移民政策によるものだ。その選別に、女性の職員が皮肉を言うが、ピエールは意に介さない。

もとは小児科医で、家庭的な男でもあったピエールが、市長の権限を手にしてからは、顔色一つ変えずに強権を振うさまには、権力者という存在のありようが端的に示されている。それが、もっとも酷いかたちで現れ、わたしの血圧が上がった(?)のが、バティモン5からの住民の追い出しである。

きっかけは、この建物の何階かで火事が起こったことだ。市長は、これを、バティモン5を解体する好機と捉え、住民の追い出しを図る。彼のアシスタントを務める黒人の男性は、住民たちの事情にも通じているので、難色を示すが、街の再開発のためには、老朽化したあの建物を取り壊すしかないと強調するピエールに渋々ながら従う。

実際、フランスのある市では、同じような団地に暮らす住民に24時間以内の退去を命じた例があるらしいが、ここで目につくのは、警官隊が駆けつけたと見ると、各戸のドアを叩いて、5分以内に外に出ろと命じる場面だ。言われた住民は、ほとんど手周りの物だけ持って階段を降りる。その間に、マットや家具の類を窓からロープで吊り降ろす者もいる。かくして、夕方には、建物の周辺に降ろした家具類が山をなしているが、生活の場を追い出された者たちは、何処へ行けばいいのか。人権もクソもない、この処置に、映画の中とはいえ、怒り心頭に発する。

それだけに、わたしは、アビーの親しい男友達でありながら、彼女とは違って、時に暴力に走る、そのためアビーから、ブラック・パンサーと皮肉られもするブラズの行動に共感する。

クリスマス・イブの夜である。ピエール市長の家では、妻が団欒の支度をし、ソファには例のクリスチャンのシリア難民の親子も座っている。そこにブラズが案内も請わずに入って来るなり、家具類を蹴飛ばし、クリスマス・ツリーを引き倒す。止めてという声にも耳を貸さず、ポリタンクからガソリンをぶちまける。そして、怯える家族に出ていけと怒鳴る。そこに市長とアシスタントが帰って来るが、止めようとするアシスタントを棒で殴りつけ、足を折る。市長は、その場に腰を抜かしたように座り込んで頭を押さえている。ブラズは、家族を外に出した後、家に火を放つつもりだったのか。

そこにアビーがやってきて、止めなさいブラズと呼びかけ、彼を表に連れ出そうとする。すぐには従わなかったブラズも、アビーに引っ張られて出ていく。こうして最悪の事態は免れるのだが、ブラズを、止めてあった彼のバイクのところまで連れてきたアビーは、彼に背を向け、独り歩き出す。

この結末は、きわめてまっとうである。アビーは、横暴な市政に怒りながらも、移民を助け、自分たちが住む街を少しでも良い方向に変えようと、市長選にも出ていく。彼女は、合法的な手段で世界を変えようとしているのだ。結末が暗示する、その姿に希望を託すように描いた監督の想いはよく理解できる。大方の観客も、そこで胸を撫で下ろすことだろう。

だが、にもかかわらず、わたしは、ブラズの怒りから発した行動に共感する。言うまでもなく、彼の行動には、先がない。市長が訴えれば、彼は投獄され、何年間か獄中で過ごすか、よくても国外追放になるぐらいだろう。損得でいえば、なんの得もないばかりか、社会的にもプラスはない。それでも、再開発や治安対策を口実に法を設定し、警察を使って住民の排除を進める市長に、俺たちと同じ目を見させてやると突っ走る彼の姿に溜飲を下げるのだ。その先に未来がないことは十分承知しながら。

 

  • 『バティモン 5 望まれざる者』
  • 新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー中
  • 監督:ラジ・リ
  • 脚本:ラジ・リ、ジョルダーノ・ゲデルリーニ
  • 原題:Bâtiment 5/2023/フランス・ベルギー/シネマスコープ/105 分/カラー
  • © SRAB FILMS – LYLY FILMS – FRANCE 2 CINÉMA – PANACHE PRODUCTIONS – LA COMPAGNIE CINÉMATOGRAPHIQUE – 2023
  • 公式ウェブサイト:https://www.block5-movie.com
近時偶感

今回は、近時ではあるが、偶感とは、やや離れる。
 桑原茂夫が倒れたのだ! といっても、リトルモアのHPを見ているような若い人は、誰それ? かもしれない。桑原は、長いこと編集者として仕事をしてきたから、出版業界に関わる友人、知己は沢山いる。その人たちが、今回のことを知ったら驚き、心配するだろう。
 わたしは、ものを書き始めて、さほど経たないうちから、桑原と付き合うようになった。彼は、わたしの2歳下だが、当時、「現代詩手帖」(思潮社)の編集長をしていて、わたしに、歌についての文章を書かせたりしていたのだ。歌といっても、詩歌ではない。流行歌だ。昔からの詩人は、そういう俗な題材が由緒正しい「手帖」に載ることに対して難色を示していたようだが、桑原は、詩というものの枠組みを外に拡げようとしていたのだろう。敢えて、わたしのような者にも声をかけたのだ。
 ただ、わたしは、仕事が遅い。2、30枚の原稿でも締め切りギリギリになる。と、夜遅く、桑原から電話がかかってくる。明日朝一番で印刷所に入れるからね、出来たら持ってきて、新宿にいるから、と。で、なんとか仕上げて、彼が待つ新宿の居酒屋まで原稿用紙の束を持参する。メールはおろかFAXもまだない時代である。着けば、もう終電までさほど時間はない。勢い、彼と並んで朝まで飲み明かすことになる。
 桑原が、思潮社を辞めてからは、原稿関係での付き合いは減ったが、酒を介しての付き合いその他で、友人関係は続いていた。そうそう、東京造形大学にいた波多野哲朗さんの声がかりで、学生と一緒に作った『ロングラン』(監督:長谷川元吉、撮影:高梨豊、台本:上野、1971年)という16ミリの映画に、桑原に出演してもらったことがある。拳銃で撃たれたのか、腹を押さえながら、それでも松尾和子のヒット曲「再会」を口ずさみながら、よろめき倒れる男を演じたのだ。
 そんな桑原とより親密になったのは、彼がそれまでの下町暮らしから、一人で神代団地に引っ越して来てからである。神代団地というのは、京王線のつつじヶ丘駅近くの調布市から狛江市に接するあたりにまで拡がる大きな団地である。彼が入居した棟は、わたしの家からバスで4つ目の停留所脇にあるので、ほとんどご近所さまということになる。
 それまでも、わたしが直接知らないところで色々な仕事をしてきたと思うが、こちらに来てからが、目覚ましい。「月あかり」という変形の美しい雑誌(23年の第7巻まで表紙絵を井上洋介、デザインを東學、今年の第8巻から表紙絵も東學)を年に8号出版し、そこに、田町で果物店を営んでいた彼自身の父親が、戦争に行ってから人が変わったようになってしまったことを書いた『西瓜とゲートル』とか、彼好みの幻想的な『鬼ものがたり』などに加え、いまの時世に対する想いを書いていたのだ(上記2作は、いずれも春陽堂書店から単行本として刊行されている)。
 それだけではない。ここ何年かは、各月末の日曜に、団地の集会所や調布の市民センターで、KenKenという、諸々の問題を話し合う集まりを開いていたのだ。毎回、数人から十名ぐらいで、わたしも欠かさず出席していたが、中心は、桑原の盟友で、詩人にして中世文学研究者の藤井貞和である。諸々の問題といったが、最近、桑原がとりわけ力を入れていたのは、それこそ、三上智恵さんのドキュメンタリー『戦雲(いくさふむ)』が明らかにしたような沖縄の尖閣諸島の軍事基地化や、政府が声高に主張する「台湾有事」をめぐる問題である。それは、「月あかり」の最新号、第8巻3号に彼が書いた文章「武器よさらば!武器を捨てよ!」にも反映されている。
 さらに、今年の3月には、ライブ版『西瓜とゲートル』を、新宿の「雑遊」の地下で公演したのだ。これは、桑原の母が、昭和20年に空襲に見舞われる日々を記した日記を中心にした劇で、演出は天願大介、モンペ姿で日記を読む母を月船さららが演じ、幻の父を外波山文明、桑原自身も出演している。加えて山崎ハコの特別出演もあり、なかなかいい舞台だった。
 そして5月の最終日曜日には、例のKenKenが開かれるはずだったので、わたしは、自分が用意した資料を持っていくかどうか、彼に問いあわせの電話をかけたのだが、応答がなかった。だが、格別不審にも思わず、1日おいて、またかけたが、依然として応答なし。わたしが、その段階で、おかしいと思って彼の住まいを訪ねれば良かったのだが、ズボラな自分並に、桑原も忙しいのだろうぐらいに思って、そのままにした。だが、そのとき彼は、一人暮らしの自室で倒れていたのだ!
 発見したのは、前からの用事で彼を訪ねた顧問弁護士だった。すぐに救急車を呼んで病院に搬送したが、その時、彼の意識はなかったという。それを聞いて、翌日、わたしは、武蔵境の病院を訪ねたが、親族ではないとのことで面会できず、空しく帰って来た。その後、桑原のカマル社で以前一緒に仕事をしていた女性と弁護士が医師と面会して聞いた話では、かなり厳しい状態で、退院が出来るようになっても、一人暮らしは難しいとのことだった。どうするか? 何が出来るか? いまは五里霧中だが、いずれ藤井貞和などと相談して、可能な方法を考えたいと思っている。