『Cloud』(黒沢清監督、2024年)
いろいろな機材が置かれた町工場らしき空間に無言で入ってきた男が、なにかと言いかける初老の男女には目もくれず、一個3000円で、30個全部買いますと告げる。その安さに抗議する男に、廃棄処分するには金がかかりますよと言って、一万円札9枚を置き、なお、なにかを言い立てる女を背に、車に箱を積み込んで去っていく。
冒頭の、男が現れて姿を消すまでの、このシーンに、殺伐とした空気がみなぎる。男は、菅田将暉演じる、吉井という転売屋だ。アパートに戻った吉井は、箱から、買ったものを取りだし、写真に撮り、それをネットに挙げて、○○な健康機器、価格20万円と銘打ち、30の画像を並べる。
わたしは、転売屋なる者が、どんなことをするのか知らなかったが、要は、これぞと目をつけた品物を、安く買いたたき、高く売って儲ける商売なのだ。モノは、なんでもいい。バッグであろうと、フィギュアであろうと。それらが、どんな機能があるかとか、意味や価値があるとか関係ない。モノの中身はどうでもよく、売れそうかどうか、だけなのだ。その意味では、現代の高度資本主義社会における商品流通の上澄みをかすめ取る商売といえよう。そこには、もの作りの苦労もなければ、販売の苦労もない。それらをスルーしていくのだから、こんなにラクなことはない。生産や販売で苦労している現場の人間の妬みや恨みを買うかもしれないが、といって、それを、悪といえるかどうかは、微妙なところだと思う。
ともあれ、転売屋をやりながら、吉井は、洗濯工場で働いてもいる。また、気が向いた時には彼の所で寝泊まりする秋子(古川琴音)という彼女もいれば、転売の仕事の先輩にあたる村岡(窪田正孝)もいる。それらの人との微妙な関係が、徐々にサスペンスを醸し出すところが、本作の第一の見どころだ。
洗濯工場の上司、滝本(荒川良々)は、ある日、吉井に、若手をまとめる地位に着くよう促す。君は真面目で誠実だから、平社員のままでは惜しい、給料も上がるよと説得するのだが、吉井は、確たる理由も告げず、会社を辞めてしまう。
先輩の村岡からは、面白いプロジェクトがあるんだが、一口乗らないか、と誘われるが、吉井は応じない。吉井は、滝本に対しても、村岡に対しても、あからさまな拒否はしないものの、適当に相手の言葉を聞き流している感じで、それを菅田将暉は、実に見事に体現してみせる。相手からすれば、そんな吉井に、どこか見下されたような苛立ちを覚えるのではないか。日常生活では、どこにでも起こりそうな、ほとんど取るに足らない微妙な齟齬。だが、それは、心の中で次第に育っていって、吉井にまとわりついていくだろう。
けれど、それらは、言葉を介した心理描写のようなかたちを採らないところに、黒沢清ならではの映画表現がある。
それが端的に示されるのは、滝本が吉井に居留守を使われるシーンである。夜、アパートの電気が消えて、不審に思った吉井が、窓際に行くと、表に滝本が立っているのが見えて、一瞬、身を隠すようにする。ついでドアをノックする音。だが、吉井は動かない。さらに執拗にドアを叩く音。と、突然、消えていた灯りがつく。滝本からすれば、相手が室内にいると確信する灯りだが、ドアが開かれることはない。
この間、吉井は室内に立っている姿が映るだけ。滝本も、窓の外でアパートを見上げる顔が一瞬見えるだけ。要は、一度消えた灯りが、再びつくという光の変化と、ドアをノックする音だけだ。それが、結果としての居留守となり、滝本に憤懣を抱かせ、吉井に、なんで滝本が来たのかという不安を抱かせることになる。黒沢清としては、なんでもない組み立てかもしれないが、見事だ。
これに対して、なんだかわけのわからぬものがまとい付く恐れを感じさせるのは、もっと先、吉井が、アパートを引き払って、郊外の湖の畔にある広大な一軒家に引っ越してからのこと。そこでは、秋子が寝室として使っている二階の部屋の窓ガラスが割られるという事件も起こるが、それとは別に、吉井が村岡と偶然出会ったあとのバス停で、やってきた秋子を村岡に紹介し、結婚云々という話をして、村岡の嫌みめいた言葉を受けた二人が乗り込んだバスでのことだ。
二人が並んで座った座席の窓外を流れるのは、黒沢清お得意の、浮遊する空間を思わせる絵柄ではなく、実際の外景なのだが、そんな二人の背後に黒い不定型な影がまとい付くのにギョッとする。しかも、そのものは、バス停でドアが開くと、人のような形になって出ていくのである。忍び寄る不吉な影。
吉井は、こちらに移って間もなく、地元出身の佐野(奥平大兼)という若い男をアシスタントとして雇う。佐野は、二階の窓ガラスを割った少年を捕まえたりもするが、その一方で、吉井の転売屋としての仕事は次第に追い詰められていく。
それも、まずは、未だ見えざる何者かではなく、警察という公権力の疑いの目によってである。窓ガラスの件で、吉井が警察に被害届を出そうとすると、警官から、お宅で扱っているバッグが、まがい物ではないかという通報があったので、見せてもらえますか、と訊かれるのだ。一つも残っていないと答えた吉井は、家に帰ると、佐野に命じて、バッグを箱詰めにして隠すのだが、不安は消えない。自分のパソコンを、佐野が無断で覗き見ていたことを知った吉井は、佐野をクビにする。
そして、それまで、家の周囲を回って様子を伺う車が出没するぐらいだった見えざる敵が、独りになった吉井の前に姿を現す。そこから、追いつ追われつのアクションが始まる。
吉井の前に姿を現した一群には、猟銃を構えた滝本をはじめ、冒頭で、健康機器を安値で買い取られた工場主や先輩の村岡もいるが、そうではなく、ラーテルというハンドルネームで転売をやっている吉井がSNSで槍玉に挙げられているのをたまたま見ただけで同調する若い男三宅(岡山天音)や、それに近い者も交じっている。すなわち、それなりに動機のある者もいれば、そうではなく、ネットに晒されているターゲットがあれば、直接にはなんの関係もなくても、一緒になって攻撃を仕掛けるというのは、殺人に到らぬまでも、現代ではよく見られる光景であろう。
ここまでなら、この映画は、転売屋という、現代社会が産み出した危うい稼業の者を主人公にしたことに加え、それに攻撃を仕掛ける一群を現前させたことで、いま、あちこちで実際に起きていることに対する一種の社会批判としても読むことができる。また、その点を評価した批評も出てくるかもしれない。
だが、『Cloud』という映画は、そのような読みや評価から身をずらし、映画ならではの、言葉が追いつかぬ地平へと進んでいくのだ。ずなわち、アクションである。日本映画ではついぞ見たことのないような銃アクションが、ここに展開する。
舞台は、黒沢清好みの広大な廃工場。そこで繰りひろげられる激しい銃撃戦。ここに、何故、という言葉が入る余地はない。
何故か知らぬが、銃器を手にした佐野が現れ、椅子に縛られた吉井を解放し、彼にも拳銃を渡す。そして佐野は、工場内を探索しながら、正確無比に一人、また一人と撃ち殺す。初めは持ち慣れぬ拳銃に戸惑いながらも、佐野を狙う男を撃ち倒してから、吉井もまた、彼をそこに連れ込んで処刑すると宣言した敵を撃つ。激しい銃撃戦に怯えた三宅が逃げ出すと、滝本が容赦なく猟銃で彼を撃つ。その瞬間、撃たれた衝撃で、三宅の身体が宙に舞う。圧巻は、工場の外で、銃を放つ滝本に、佐野と吉井二人で対峙した場面だ。二人が身を隠すブロックを、滝本の銃弾が吹き飛ばす。それに対して、佐野が手だけを出して拳銃を発射し、さらに吉井の援護で、佐野が脇に回る一連。そして、残る一人、隠れた村岡を探す場面。そこには、これも黒沢好みのビニールのカーテンが掛かっている。その陰のロッカーから出た村岡が、佐野に拳銃を突きつけ、吉井に銃を捨てろと命じる。佐野が身体を動かした一瞬の隙をついて、吉井は過たず村岡を撃ち、さらにとどめの一発を放つ。撃って相手を倒すだけではない。必ずとどめの銃弾を撃ち込むのだ。
一同を倒して外に出た二人のところに、秋子がやってくる。彼女は、しばらく前に吉井の家を出たのだが、どこでどうしていたのか。吉井が縛られている時、工場の階段の上から、彼に声をかけていたから、その場に現れるのは不思議ではないが、佐野が、吉井の携帯の位置情報を調べて、ここにやってきたのとは違い、秋子が、何故、吉井が工場に囚われていることを知ったのかはわからない。彼女には、何故という問いは通用しないのだ。だから、片手に拳銃を隠し持ち、抱き合った吉井から、クレジットカードを取ろうとして果たされないと、彼を撃とうとするのだ。ただ、そんな彼女も銃の扱いには慣れていないらしく、佐野に撃たれてしまう。倒れた秋子を抱いて、吉井は号泣する。
これぞ黒沢好みの、空中を漂うかのような車を運転しながら、佐野は朗らかに、転売でうんと儲けてください、なんでも好きな物が買えますよ、と言うのに、吉井は一言、地獄だと呟く。そう、ここは地獄なのだ。
- 『Cloud』
- 監督・脚本:黒沢清
- 出演:菅田将暉、古川琴音、奥平大兼、岡山天音、赤堀雅秋、吉岡睦雄、三河悠冴、山田真歩、矢柴俊博、 森下能幸、千葉哲也、 松重 豊、荒川良々、窪田正孝
- 絶賛上映中
- 2024|日本|カラー|ヨーロピアンビスタ|DCP|5.1ch|123 分|G
- ©2024「Cloud」製作委員会
近時偶感
このところ、寝付きが悪い。だいたい、1時前に寝床に入り、本をパラパラ読みながら、適当なところで眠る体制に入るのだが、そうなってからも1時間ぐらい、あれこれの思いが浮かんできて、すぐに睡眠状態に移らないのだ。昨夜は、特に酷かった。3時を回っても、眠りの神様がやってこないので、ワインを飲んだが、効果なし。これは、そもそも、あのネタニヤフの顔などがちらついたのが原因だろう。我々は、最後の勝利まで突き進むなどと得意げに語る彼の額に、ライフル弾でもぶち込めば、すっきりするのかもしれないが、そんなことは、ゴルゴ13でもなけりゃ不可能だろう。
それにしても、ガザのパレスチナ人に対する、イスラエルのジェノサイド、なんとか止めさせる手はないのか! あそこで起きていることは、人道危機などというレベルの話ではない。パレスチナ人を根こそぎ消し去ろうとしているのだから。それに対し、ヨーロッパ諸国の腰が引けるのは、自分たちが行ってきたユダヤ人差別のトラウマがあるからだろう。アメリカが、イスラエル支持をするのは、宗教的な理由もあろうが、ユダヤ資本の後押しが大きい。国連にしても、人道危機が深刻だから停戦をとは言っても、それ以上は、踏み込めない。何故か? 国連の機構の問題もあるが、それ以上に根深い問題があることを、「現代思想」2024年2月号の「パレスチナから問う」という特集に寄せられた、保井啓志の「『我々は人間動物と戦っているのだ』をどのように理解すればよいのか」という論文が明らかにしている。
まず、これを読むまで、わたしも知らなかったのだが、2023年10月7日のハマスの越境攻撃を受けた2日後、イスラエルのガラント国防相は、ガザの封鎖、ライフラインの停止を宣言する時、「我々は人間動物と戦っているのだ」と言ったというのだ。要は、パレスチナ人は2本足の動物だ、それと戦うのだ,容赦しないぞ、ということだ。ゲっと思うが、驚くのはまだ早い。これに類する発言は、ガラント以外からも度々されていて、ネタニヤフは、アラブ人やパレスチナ人を野生動物に喩え、野生動物から国を守るために、イスラエル全体をフェンスで囲う必要があると述べたというのだ。
人間以下の動物なんだから、こちらの都合次第で、柵に囲い込んでも、言うことを聞かなきゃ殺しても構わない、ということになる。それで思い出したが、アジア・太平洋戦争の末期、原爆を手にしたアメリカのトルーマン大統領は、日本人は獣だから「獣を相手にするとき、それを獣として扱わなければならない」とか言ったことだ。長いこと、原住民や黒人奴隷を「猿」と呼んできた国らしいが、問題は、その個々の現象にあるのではない。
保井論文は、「反ユダヤ主義的な創造物」において、ユダヤ人が蛇や害虫の形象が用いられたことなども含め、ヨーロッパ近代が産み出したヒューマニズムが、人間を上位に置き,動物を下位に置く「人間中心主義」であること、それが一方で,文明と非文明を分け,文明による非文明の支配を肯定する植民地主義を正当化したあたりまで、実に丁寧に論じているのだ。
彼の、「建前上人権を尊重し,解放された人間を基礎に置く近代国家あるいは民主主義体制の国家において、最も苛烈な暴力が『そもそも主体/|人間として認めない』ことを通じて行われるのである」という言葉に、自分もそれを受け入れて生きている近代的な価値観を改めて問い直す必要を感じる。