上野昻志 新・黄昏映画館

2. WANDA(バーバラ・ローデン監督、1970年)

バーバラ・ローデンが、監督・脚本、そしてみずから主演した『WANDA』は、いまや伝説化された映画だ。

というのも、1970年のヴェネツイア国際映画祭で最優秀外国映画賞を受賞したが、本国のアメリカでは黙殺され、その一方、マルグリット・デュラスは「奇跡」と讃え、彼女をして「本作をいつか配給することを夢見ている」とまで言わしめながら、2000年代に入るまで、どこぞでひっそりと眠り続けていたからだ。

その間、バーバラ・ローデンは、1978年に乳がんを発症、80年9月5日に、ニューヨークで亡くなるのだ。かくして『WANDA』は、一人の女性監督の処女長編にして遺作となった。

だが、30年余の時間を経て、本作は蘇る。2003年、女優イザベル・ユペールが配給権を買い取り、フランスで公開する。2007年には、オリジナルのネガ・フィルムが、閉鎖前のハリウッド・フィルム&ビデオ・ラボの書庫で発見され、2010年に、マーティン・スコセッシ監督が設立した映画保存運営組織ザ・フィルム・ファンデーションとイタリアのファッション・ブランドGUCCIの支援を受けて、プリントが修復される。

というようなことを、わたしが知ったのは、『WANDA』の日本公開に合わせて作られた宣伝資料によってである。

 

だが、伝説は伝説として、目の前にあるのは、素っ気ないといってもいいような、簡素な佇まいの映画だ。

まず、大ロングで捉えられた、炭鉱の、人気のない、灰色ががかったブルーの空間が眼をひく。その起伏はあるが広大な空間に、白いものが動いているのが小さく見える。虫ではない。明らかに人なのだが、その小ささが、否応もなく、動く空間の無情な広さを際立てる。

いや、冒頭の大ロングのあとには、一軒の家のソファで眼を覚ます女を見ているから、その白い人影が彼女であろうと想像はつく。だが、それ以上に、無辺を思わせる空間を移動する小さな白い点のほうが、強くこちらを捉えたのだ。

やがて明確な人として現れた彼女は、炭鉱でこぼれ落ちた石炭を拾い集めている老人のもとに歩み寄り、お金を貸してくれという。二人が、どんな関係なのかはわからない。老人はポケットから出した紙幣を1枚、彼女にわたす。彼女は、バスに乗り、どこかに向かう。その行き先が、家庭裁判所だとは、あとからわかるのだが、そこでの展開に、バーバラ・ローデン監督の語り方というか、大きく言えば世界観に関わる、独特の編集・場面構成がある。

すなわち、カットが替わると、まず家庭裁判所が映るのだ。そこでは、裁判官の前に男が立っている。裁判官は、ワンダはどこか、と尋ねるが、書記は、まだ来ていません、遅刻しているようです、と答える。様子を見てこい、云々のやりとりを重ねるうちに、炭鉱の老人の前に現れたのと同じ、頭に白いヘアカーラーをつけたままのワンダが、おずおずと現れる。裁判官の前に立っていた男は、彼女の夫で、ワンダとの離婚を申し立てていたのだ。ワンダは、男の言い分を即受け入れ、離婚を承諾するとともに、二人の子どもの親権も放棄する。

ワンダは、こうして独りになる。彼女は結婚もし、子供も産んだが、家庭に居場所はなかったのだろう。彼女が次に訪れたのは、先週、働いていた縫製工場だ。そこで、2日間で得た賃金の少なさを尋ねると、ボスの答えは、税金を引いたからと素っ気ない。また働かせてもらえないかと頼んでも、お前さんは仕事がのろいからダメと、切り捨てられる。

行き場所を失ったワンダは、カフェの椅子に座り込んで、ビールを頼むが、その支払いはオレが持つと男が声をかける。

と次は、朝のホテルの一室、男が素早く外に出ようとするのに気づいたワンダは、大慌てで服を着て、男の車に乗り込むのだが、この、ビールを飲んだあと、男に誘われてホテルに行き、然るべきことをしたはず……というあたりはすっ飛ばして、翌朝となる展開こそ、ローデン監督ならではの呼吸だろう。

だが、この時は、なんとか男の車に乗り込んだワンダだったが、途中の小店で、ソフトクリームを買っているうちに、男に逃げられてしまう。かくして、ワンダの当てのない旅が始まる。

 

この映画について、バーバラ・ローデン監督は、実際に起こった事件に着想を得たという。それは、男女で銀行を襲い、男はその場で射殺され、女は裁判にかけられたが、懲役20年の判決を受けた際、彼女は裁判官に感謝の言葉を述べたというのだ。監督によれば、アルマ・マローンという、その女性は自分と同じ年で、南部の貧しい家庭に生まれた、同じような生い立ちだった。彼女は、自由と引き換えに、ベッドと毎日の食事を保証してくれる場を得た。私もニューヨークに来なければ、刑務所に入るか、死んでいたかもしれない。そんな彼女の内面を理解したいと思ったことから本作を撮ったのだ、と。

 

実際、このあとの展開は、おおよそ、そのような道筋を辿っていく。再び独りになったワンダは、ショッピングモールを歩き回ったあと、映画館に入るが、眠ってしまう。掃除夫に起こされた時には、唯一の持ち物であるバッグがない。それは、椅子の間に落ちていたが、中にあった財布は空っぽ。無一文になったワンダは、夜の町を彷徨い、たまたま見つけたバーの扉を開ける。

もう閉店だと、迷惑そうな男を尻目に、彼女は、トイレに入り、割れた鏡の前で顔を洗う。店では、男がドアの窓越しに外を窺い、なかなか出てこないワンダに苛立ち、トイレの扉を叩いたりするが、ようやく出てきた彼女は、カウンターに座って、ビールを求める。男は、中に入って、慣れない手つきでビールを出すが、彼の足元には、上着をかぶせられた男が横たわっていた。そんなことに気づかぬワンダは、男に櫛を貸してといって、男が懐から取りだした櫛で髪を梳いたりしている。

この一連。無邪気というか、無知というか、自分のその瞬間の欲求のままに、トイレに入り、ビールを求め、髪を梳いたりと、目の前の相手がどんな人物かとか、何をしようとし、何を考えているかといったことに、まったく無頓着に振舞うワンダと、強盗に押し入って店主を殺し、店の金を奪ったものの、表の気配が気になって、そこにいる女の存在には気が向かわず、ただ彼女の求めに無意識に応じている男という、間近に接しながら、まったく行き違う二人を、これ以上ないほど見事に活写しているのに感嘆する。

やがて二人は、人や車の往来が絶えたのを見計らった男の先導で、外に出て、安食堂に入る。そこで、はじめの男に逃げられたあと、おそらく何も食べていなかったワンダは、自分にあてがわれたパスタだけでなく、憮然として葉巻を吹かす男の前に置かれた料理にまで手を伸ばして満足そうな表情を浮かべているが、そのあと、彼に連れられモーテルに入ったことから、男と行動を共にすることになる。

やがてワンダから、ミスター・デニスと呼ばれるようになる、この男(マイケル・ヒギンズ)、眼鏡をかけ、一見紳士風だが、マッチョで、ハンバーガーを買いにやらせたワンダが、部屋が判らなくなったから受付に教えてもらったといって入ってくると、いきなり、彼女の横面を張ったりする。

ワンダは、男に命じられて、バー強盗事件を報じる新聞を車中で読み上げたことから、ミスター・デニスの正体を知るが、それでも彼から離れない。何故か。格別男に執着しているとも見えない。何も考えずに、すぐ目の前に自分を引っ張っていく男がいるから、それについて行くだけ。ワンダの、その無意識の選択に届く言葉はない。だから、われわれは、ただ、そんなワンダを見ているしかない。

だが、そんな彼女にも、微妙な変化は訪れる。男が銀行強盗を計画し、その支配人を拉致するためにワンダに片棒を担がせようとすると、彼女は吐くのだ。身体が拒絶しているのだ。結局、男に説得されて、彼女も一役買うことになるが、ミスター・デニスの、独りよがりの計画による銀行強盗は失敗に終わる。

かくしてワンダは、三度独りになるが、そこには以前の彼女とは違う気配が伺えるのだ。呆然自失の体でビールを干した彼女を、車に乗せた男が、勢いに任せて犯そうとすると、激しく抵抗し、林の中に逃れていく。そう、ワンダは、相手の理不尽な欲求を拒絶する女になったのだ。そんな彼女は、何処へ行くのか? 果たして、居場所はあるのか?  溶暗のうちに沈む彼女の静止した顔が忘れがたい。

 

 

  • 「WANDA」
  • 7月9日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
  • 監督/脚本:バーバラ・ローデン 撮影/編集:ニコラス T・プロフェレス 照明/音響:ラース・ヘドマン 制作協力:エリア・カザン出演:バーバラ・ローデン、マイケル・ヒギンズ、ドロシー・シュペネス、ピーター・シュペネス、ジェローム・ティアー
  • 1970年/アメリカ/カラー/103分/モノラル/1.37:1/DCP/原題:WANDA/日本語字幕:上條葉月
  • 提供:クレプスキュール フィルム、シネマ・サクセション 配給:クレプスキュール フィルム
  • 公式ホームページhttps://wanda.crepuscule-films.com/
  • Twitte  @wanda_movie
  • ©1970 FOUNDATION FOR FILMMAKERS

 

近時偶感

今度、政府は、コロナ感染者の全数把握をしない、と言い出した。医療機関の負担を減らすとか、もっともらしい言い訳がついているが、実際は、把握から漏れた人は、放置するということだ。これの前は、病院に入れない人に、「自宅療養」を勧めて、いまも続いている。日本語は、事実を美辞麗句で飾って誤魔化すのが得意だが、「自宅療養」とは、「自宅放置」でしかなく、要は、自宅でお亡くなりになって、ということ。悪い冗談でしかなかったアベノマスクから始まって、感染に対する有効な手は何一つ打たず、保健所や医療機関の現場任せ、そこが音を上げると、放置する通達だけして逃げまくるのが、世界に冠たる日本の政府ということね。