上野昻志 新・黄昏映画館

8.小さき麦の花(リー・ルイジュン監督、2022)

この映画、原題は『隠入塵煙』で、英語タイトルは『RETURN TO DUST』なのに対して、日本語題を上記のようにしたのは、主人公のヨウティエが、妻のクイインの手首に、麦の粒を花の形に置いて、花を植えたよ、お前の目印、と言うことから採ったのだろう。のちにクイインが、夫の手首に同じようにするところがあるが、いずれにせよ、この日本語題は、周りの都合で一緒になった二人が、日々の暮らしの中で育んだ愛の形をよく現している。

では、原題はどうか? 文字通りにとれば、塵や煙の中に隠れるということだが、監督の意図としては、塵や煙の中に隠れて見えないような人の暮らしに、光を当てたいというところにあったのではないかと思う。

実際、ヨウティエは、両親も上の兄も亡く、三兄の家で働いていたが、甥の結婚の邪魔になると厄介者扱いされている。一方のクイインも、身体に障害があり、時々お漏らしをしたりもするので、その家の厄介者。そこで両家は、この二人を一緒にして家から出せば丁度いいとばかりに、結婚式も挙げてやらずに二人を一緒にさせて家から出す。本人たちの意志ではなく、外側からの力によって結ばれた二人が、日々の暮らしを重ねるなかで、それこそ、小さき麦の花を交わし合うような関係になっていく、というところに、以後の展開がある。

場所は、監督の故郷である甘粛省のエチナ川のほとりにある村だという。演じる人たちも、クイインに扮した国民的女優、ハイ・チン以外は、すべて地元の人たちで、ヨウティエは、現地で農業を営む監督の叔父である。このあたり、監督の、土地とそこに生きる人に対する拘りが感じられる。

ヨウティエとクイインは、砂丘で、亡父らに紙銭を燃やして結婚したと告げたあと、土で作られた空き家に住み、一頭のロバと共に、土地を耕し、麦やトウモロコシを育てて暮らすのだが、ここには、そんな空き家が、幾つもある。

これも、その後の話の中でわかるのだが、それらの空き家は、深圳など南方に出稼ぎに行った人たちが、放置していったものなのだ。それが政府の農村政策によって、空き家を解体すれば1万5千元の報償金が出ることになると、元の持ち主が帰ってきて、家を取り壊すのだ。ヨウティエたちが住んでいた家も、そうやって解体されるので、彼らは、また別の空き家に移る。

土地を耕し、麦の種を蒔き、肥料をやり育てる、というヨウティエとクイインとロバの暮らしの外側には、常にそのような金に纏わる力が働いていることを、抜かりなく織り込むところに、監督の複眼的な視線がある。

相手を思いやるような言葉を口にしないヨウティエだが、さり気ない動作から、その優しさが伝わってくる。クイインも、そんな夫を気遣っている。

それが、よく現れているのが、ヨウティエが、兄から言われて、甥の結婚道具を、町からロバが引く荷車で運んできた帰り道でのことだ。暗いなかで、クイインが、小さな川が流れる橋のたもとで待っていたのだ。寒くて風邪をひくだろ、というヨウティエに、魔法瓶のお湯が冷めるので、何度も替えたのに、あなたは帰ってこない、と言って、クイインは、お湯を入れた瓶を懐から取りだして、ヨウティエに渡すのである。

このロバが引く荷車に、ヨウティエは、畑仕事の行き帰りに必ずクイインを乗せるのだ。だから、村の連中は、ヨウティエは、そのうちクイインの手にヒモを付けて自分と結ぶぞ、などと言って笑っている。

村の有力者チャンが入院して、輸血が必要になる。だが、チャンは“パンダ並み”に希少なRhマイナスの血液型で、それと同じ血液型はヨウティエしかいないことがわかり、彼が血液を提供することになる。夫の血が抜かれることを心配したクイインは、わたしの血を抜いてというが、むろん、そんなことは出来ない。彼女は、不安な面持ちで夫に付き添うだけだ。

彼らが住む家は灯りが乏しいが、それが光に満ちて輝く瞬間がある。それは、卵から雛を孵す孵化箱とでもいうのだろうか、ボール箱のあちこちに穴を開け、卵を温める電球を差し込む。穴から漏れる光が、ヨウティエとクイインの顔を明るく映し出すのだ。監督によれば、実際に、卵から雛を孵したというのだが、実際、ひよこが生まれた時、ヨウティエは、雛は最初に見たものを親と思うから、お前になつくよ、と言う。

そして、あれは、育てた麦を刈る時だったか、ヨウティエが問わず語りに口にした言葉が耳に残る。「土は人を厭わない、人も土を厭わなくていい、土は清らかだ、金持ちにも貧乏人にも平等だ、一袋の麦を植えれば、十倍や二十倍にもして返してくれる」と。

土を相手に日々の労働を重ねる二人とロバだが、そんな暮らしにも外からの力が働く。深圳に行っていた男が、二人が二度目に移り住んだ家も解体しに来るのだ。そこから彼らは、土を捏ねて日干し煉瓦を作り、自分たちの家を作り始める。途中で、豪雨に見舞われ、煉瓦を濡らすまいと奮闘する一夜もあるが、それでも家は出来上がり、クイインをして、「人生で、自分の家が持てて、自分の布団で眠れるなんて、思いもしなかった」と言わしめる。そんな幸せの訪れの裏側で、クイインの身体の具合が悪くなる。その先の不幸を暗示するかのように。

一方、久しぶりに訪れてきた兄から、政府の補助が出るから、町に出来る家を、お前の名義で買おうと言われる。それに対し、ヨウティエは、農民は土を離れての暮らしなど出来ないと断るが、兄は、村一番の貧乏人のお前が何を言う、といった調子で取り合わず、いずれは二〇万元をくだらない家だと、独り決めしてしまう。

いかにもBMWを乗り回す兄らしい言い草だ。空き家の解体を巡る話もそうだが、そこに一貫しているのは、金の論理、資本の論理である。それがヨウティエやクイインの暮らしを外側から規制してくる。彼らが、果たして。どこまでそれに抗することが出来るか……。

ともあれ、この新築のマンションの一区画に、ヨウティエたちが招かれ、新しい持ち主として、テレビの取材を受ける場面での、ヨウティエの言い草がいい。「ここは人は住めるが、ロバや豚や鶏は、どこに住めばいい?」と。

だが、そんなヨウティエたちを不幸が襲う。貧しくとも愛に満ちた暮らしは失われる。思わず、ため息が漏れる。

 

この『隠入塵煙』は、甘粛省の農民の暮らしを描いた、一見地味な映画だが、中国で公開されると、若い世代を中心に社会現象となる大ヒットを記録、興収20億円、動員300万人を超えて「奇跡の映画」と言われたという。ところが……

その後も、公開が続いたが、中国共産党大会の前に、公開が打ち切られ、監督は、当局から、今後も、このような映画を撮ることは許されない、と脅されたというのだ。そのため、日本の配給元は、日本公開に際しての監督インタビューも出来なかった。

ここには、幾つか気になる問題がある。まず、公開に到る段階では、検閲で苦労したという話は聞いていない。実際、この映画は、すでに指摘したような、主人公たちを規制する金の力をさり気なく織り込んではいるものの、中心は、農民の貧しくとも愛のある暮らしを描いたものであって、前回、取り上げたロウ・イエの『シャドウプレイ』のような、あちこちに当局が気にするような箇所がある作品とは違う。だから、当初は、すんなり通ったのだと思う。それが、若い世代を中心に大ヒットしたことで、改めて当局の眼を引いたのだろうが、何が彼らの神経に触れたのか?

一説に寄れば、地元・甘粛省の人たちが、俺たちの所は、あんなに貧しくない、あんな映画を公開させて、検閲は何してると騒いだというのだが、どうだろう? 何か気に入らないことがあると、検閲なり当局なりを、なぜ取り締まらないと言って、結果、自分たちの首を絞めるのは、中国に限らず、日本でも見られることだが、それだけだろうか?

わたしは、そういうことがあったかもしれないが、それよりも、当局にとっては、政府の指導によらず、一般市民の、それも若い世代から絶大の支持を受け、「奇跡」と言われるような盛り上がりを見せたこと自体が、不安であり、押さえつける必要を感じさせたのではないかと推測する。そこに、この強権社会のアキレス腱とでもいうべきポイントがある。

 

  • 『小さき麦の花
  • YEBISU GARDEN CINEMA、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開中
  • 監督:リー・ルイジュン
  • 出演:ウー・レンリン、ハイ・チン
  • 2022年/中国/133分
  • 配給:マジックアワー、ムヴィオラ
  • 公式ホームページ:https://moviola.jp/muginohana/
  • ©2022 Qizi Films Limited, Beijing J.Q. Spring Pictures Company Limited. All Rights Reserved.

 

近時偶感

この国が、つくづく島国だなぁと思うのは、れっきとした首相秘書官が、性的少数者は、「見るのも嫌だ」「隣に住んでいるのも嫌だ」と公言するのを見たりした時だ。この男、外国でも同じことを言えるかね。言えたら、差別主義者にしちゃ根性あると認めてやるが。

だが、もっとビックリしたのは、かの男より数倍賢そうな櫻井よしこ女史が、LGBT法案に理解を示す稲田朋美元防衛大臣について、稲田氏が「自民党を分裂させるような熱心さで最後の最後までLGBT法案にこだわった背景には」「マルクス・レーニン主義から発生した左翼のNGOの人たちの影響を受けていたと思われます」とウェブサイト(言論テレビHP)に書いていると知ったことだ。とすると、オランダをはじめとして、LGBTに関わる同性婚を認めているベルギーもカナダもスペインもフランスも、スウェーデン、デンマーク、オーストリア等々、2019年段階で28カ国に及ぶ国々も、みんな「マルクス・レーニン主義に発生した左翼」の影響を受けていたとは、知らなかった! 墓の下のマルクスやレーニンも、同性婚推進運動元祖はオレたちかと驚いているかもしれないな。