上野昻志 新・黄昏映画館

10.トリとロキタ(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督、2022)

この映画、はじめに観た時に感嘆して、短い評を書いたのだが、本欄で書くために、改めて新宿武蔵野館に行って観た。

武蔵野館は、スクリーンは小ぶりだが、ガラス張りの喫煙室があるのがいい。そこで、始まる前に一服、見終わったあとに一服できるからだ。もっとも、往時の武蔵野館は、いまや複合ビルになった建物全体が、1000人以上収容できる大劇場だったこと、また地下には、武蔵野推理劇場があって、そこで偶然、サミュエル・フラーの『ショック集団』(1963)に出会ったことなどを思い出すと、いまさらながら世の移り変わりに溜息が出る。

で、肝腎の『トリとロキタ』だが、再見して印象が変わったかというと、そんなことはない。ただ、あらかじめロキタの運命を知っているだけに、そのシーンに近づくと胸がドキドキしただけでなく、すでに決まっていることなのに、なんとかならんかと理不尽な思いにとらわれもしたのだ。

それ以外では、ただ一点、わたしの思い込みと実際の展開が違っていたところがあったが、それについては、のちに触れよう。

映画は、ロキタがビザ取得のための審査を受けている場面から始まる。そこで、弟を見つけた経緯を問われ、トリ?と訊いたと答えたのだが、施設でつけたその名前をなんで知っているのと反問され、ロキタはパニック障害を起こしてしまう。彼女は、ベルギーでビザを得て、家政婦として働きたいという、ささやかな夢を抱いているが、今回も、肝腎なところで失敗してしまった。

この間、ロキタの横顔が写されているのだが、それ以外でも、横顔を写すショットが印象に残る。たとえば、ロキタだけでなく、トリが、レストランのシェフに何かを求める時なども、彼の横顔を捉えるのだ。

トリとロキタは、出身地は違うが、アフリカからベルギーに密航してくるなかで、実の姉弟のように親しい関係になっている。トリは12歳で施設に暮らし、すでにビザもある。ロキタは、それより数歳年上だが、ビザ審査でパニック障害を起こすように、気弱なところがあり、何かというと、賢くてすばしっこいトリを頼りにしている。

彼らを取り巻く大人たちは、施設の女性などを別にすれば、ろくでもない連中しかいない。ロキタとトリは、レストランで客向けに歌をうたうのを仕事にしているが、それは表向きで、裏では、シェフの言いつけで、ドラッグの売人をやらされている。このシェフは、時々、ロキタにセックスの奉仕を迫ったりもする。また、ロキタは、国にいる弟たちの学費として母親に送金をしているが、その金も、密航業者に巻き上げられる。

ただ、アフリカから密航してきた彼らのような少年少女が、見知らぬ土地で生きていくために関わり合う大人たちといえば、よほど運が良くなければ、このような裏社会に通じた連中になるのは、無理ないかもしれない。その意味でも、これは、きわめてリアルな物語なのだ。

母に送るつもりの100ユーロを密航業者に取られたあと、シェフは、ロキタにさらに大変な仕事をやらせようとする。わたしが思い違いをしていたのは、簡潔に示される、この場面だ。わたしは、ロキタが送金する金を得るため、やむなく、この仕事を引き受けたと受け取っていたのだが、違っていた。シェフは、3ヶ月は長すぎるというロキタに、これをやれば、偽のビザが手に入ると匂わすだけで、一方的に押しつけるのだ。

ここで、ロキタとトリには、あらかじめ仕事内容が伝えられていたのを、観客には見せずに、そのあと、実際にロキタがある場所に連れて行かれた段階で、初めてわかるように仕組んだ語り口が、サスペンスを醸し出して見事である。

ロキタは、若い男の車で連れて行かれるが、目的地が近づくと、目隠しをされる。使われなくなった倉庫のような建物の中に導かれ、そこでロキタが暮らすのに必要な品物などが示されたあと、われわれの前に明らかになるのは、彼女にあてがわれたのが、大麻を育てる仕事だったということだ。三ヶ月間、そこを出ることを禁じられたうえに、彼女の携帯電話のSIMも抜き取られて、外との連絡も絶たれる。

何につけトリを頼りにしているロキタは、別の日にやってきた女にトリの声が聴きたいと懇願して、ようやく彼女の携帯を介して、トリと言葉を交わす。そこからトリの活躍が始まるのだが、その合間に、トリが、自転車のサドルから尻を浮かせて街を疾走する姿が眼に残る。

トリは、頭が良く回り、勇気もある。彼は、自分が描いた絵をロキタが見ると喜ぶと言って、シェフに絵を渡すのだが、隙を見て、彼の車の後部座席に忍び込む。こうして、トリは、ロキタがいる建物を突き止め、シェフが去ったあと、そこに忍び込んでいくのだが、建物の戸口以外に入れそうな箇所を探して潜り込み、そこから、さらにロキタが居住する場所に行く。その過程の一つ一つが、ダクトや空調機などを相手に奮闘する少年のアクションとして描き出されていくのにワクワクする。これぞ活劇、これぞ映画と拍手したくなる。

ロキタと再会したトリは、すでに出来上がっている大麻を、夜の街で売りさばいて金を作り、それをロキタの母に送金したりするのだが、それで万事がうまくいくほど世の中は甘くない。やがて、やってきたシェフを二人がかりで倒して倉庫から逃げ出したものの、破局が訪れる。

その結末に到った時、なんとも言えぬ悲痛な想いに胸塞がれるが、ダルデンヌ兄弟は、最初からそうであったように、ロキタが辿った運命を、決して思い入れたっぷりに描いたりはしないのだ。むしろ、一部始終を淡々と見せていくのである。そのタッチは、ほとんどハードボイルドと言ってもいいかもしれない。そして、まさに、それ故に、アフリカから夢を抱いてやってきた少女と少年の姿がくっきりと立ち上がってくるのである。

おそらく、世界中には、彼らのような密航者や移民は数え切れないほどいるだろう。だが、われわれは、何か事件でも起きない限り、その個人としての存在に注意を向けることはない。移民あるいは密航者という集合名詞で語り、理解したような気になるだけだ。映画だけが、その個別の存在を、本作のように生き生きと描き出し、知らしめることが出来るのだ。

文学? むろん、小説でも描くことは可能だろう。だが、言葉は、個人の内面を描くことには長けているが、そのため逆に、必死に動き回る肉体をもった個人の像は曖昧になる。直接に対象たる存在をスクリーンに現出させることが出来るのは、映画なのだ。

ダルデンヌ兄弟は、それを見事にやってみせた。しかも、わずか89分という時間の中で。最近は、無駄に長い映画が多いから、これだけでも嬉しくなる。それは、わたしらのように、長い間、90分内外の映画に親しんできたためであろうか?

むろん、映画の長さは、主に製作側の事情によることで、全盛期の娯楽映画は、概ね90分以内に収まるように作られてきた。巨匠や鳴り物入りの大作の場合は、2時間を超えるものもあったが、それは例外で、週ごとに封切られる映画は、ほぼ90分以内だったのだ。映画産業の衰退期に登場した日活ロマンポルノに至っては、70分前後で作られていた。

その長さを規定したのは、言うまでもなく、映画の内容ではなく、製作費である。これには、フィルムによる製作に、金がかかったという事情もある。そんな外的な要因による暗黙の規制のなかで、作り手は工夫を凝らしたのである。たとえば、三隅研次監督は、柴田錬三郎原作で、新藤兼人脚本、市川雷蔵主演の『斬る』(1962)を、わずか71分で撮っているのだ。それも決して単純な話ではない。要所を押さえながらも、飛ばせるところは大胆に端折り、激しい剣戟シーンを交えつつ悲劇に到る主人公の運命を見事に描き出しているのだ。

もちろん、71分というのは結果で、監督も最初から意図したわけではないだろうが、外的な規制を前提にして映画作りに工夫を凝らしてきたからこそ、このような作品が生まれたのである。

そういう歴史を踏まえて言えば、テレビ局が参入して大作中心になった1980年代以後、映画作りに、制約を前提にして工夫を凝らすという姿勢が薄れていったのだ。そのような流れに拍車をかけたのは、フィルムに代わってビデオ撮影が一般化したことだろう。経費も少なくてすむうえに、フィルムと違って長時間撮り続けられる。そこで失われたのは、ショットに対する厳しい意識である。小津安二郎の戦後の作品は、1930年代のものに較べて長くなっている。だが、そのショットはきわめて短い。彼のような大家に言うべきことではないが、何が必要で、何が不要か、瞬時に選択しているからだ。

思わず、短さを称揚する89分の映画の話から、逆に長くなってしまったが、わたしは別段、長い映画がいけないと言いたいのではない。表現の必然性から長くなる映画があって当然だし、そういう場合は、長さなど気にならないのだが、画面を見ているうちに、ここで切れよ、と言いたくなるような無駄に長い映画があまりにも多いので、余計な長話をする次第になりました。

  • 『トリとロキタ』
  • 全国絶賛上映中!
  • 出演:パブロ・シルズ、ジョエリー・ムブンドゥ、アウバン・ウカイ、ティヒメン・フーファールツ、シャルロット・デ・ブライネ、ナデージュ・エドラオゴ、マルク・ジンガほか
  • 監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
  • 2022年/ベルギー=フランス/カラー/89分/Tori et Lokita
  • 配給:ビターズ・エンド
  • 公式ホームページ:https://bitters.co.jp/tori_lokita/
  • ©LES FILMS DU FLEUVE – ARCHIPEL 35 – SAVAGE FILM – FRANCE 2 CINÉMA – VOO et Be tv –  PROXIMUS – RTBF(Télévision belge)
  • Photos ©Christine Plenus

 

 

近時偶感

一度は廃案になった入管法の改正案が、自・公に維新と国民民主の賛成で、衆院の委員会で可決、5月には本会議で成立する見通しという。立憲が提案していた、第三者委員会によるチェックという案も消えたわけだ。ま、これで、日本は世界に冠たる人権低国であると表明したという次第。メデタシ、メデタシ!

それにつけても、入管を管轄する法務大臣の齋藤某とかいうのが、半端じゃない。スリランカ人のウイシュマ・サンダマリさんが亡くなる直前を捉えた監視カメラの映像を5分に編集したものを、弁護団が開示したことに対して、斎藤某が、記者会見でなんと言ったか。わたしは、それを武田砂鉄の一文(今週のわだかまり「週刊朝日」5月5日-12日号)で知ったのだが、以下の通り。

「亡くなった方とはいえ、御本人の了解もなく、食事や着替えの介助を受ける様子のほか、生活上のあらゆる様子がつまびらかにされるということは、やはりウィシュマさんの名誉、尊厳の観点から慎重であるべきだろうと考えています。私は個人的に、もし自分がそういうことになれば、自分のことであれば私は公開してほしくないと思います……」。

口調は丁寧だが、内実は、権力を笠に着た傲岸不遜が見え見えだ。だいたい、この監視映像だって、入管が都合が悪いと出し渋った挙句に、ようやく出てきたものだ。それを遺族側が開示したのは、あくまでも事実関係をはっきりさせるためだ。齋藤某は、「もし自分がそういうことになれば」と言っているが、じゃあ、齋藤自身も入管で拘束された挙句、医者にも診せてもらえず、死んでみろよ。死ぬ前に、私の名誉と尊厳のため、監視映像を公開しないで下さいと遺書にでも書いて。むろん、彼は、まかり間違っても、そうなるはずはないという自信(それも無自覚な)にあぐらをかいて、「自分がそういうことになれば」と言っているのだが、そこには、ウィシュマさんが置かれた状況に対する一片の想像力もない。このような鈍感な冷酷さこそ、入管を管轄下に置く法務大臣にふさわしいということなのか!