上野昻志 新・黄昏映画館

11.フドイナザーロフ監督4作品

バフティヤル・フドイナザーロフ、畏るべし!

 

『少年、機関車に乗る』(1991)

『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って』(1993)

『ルナ・パパ』(1999)

『海を待ちながら』(2012)

 

わたしは、以前、彼が26歳で撮った長編第一作の『少年、機関車に乗る』を見て、大いに感心したのだが、その後の作品を見ていなかった。『コシュ・バ・コシュ』も『ルナ・パパ』も、ユーロスペースの堀越謙三さんが製作に関わっていたのだから(堀越謙三『インディペンデントの栄光 ユーロスペースから世界へ』筑摩書房刊、参照)、当然、日本でも公開されたはずだが、何故か、見落としていたのだ。キアロスタミにせよ、カラックスにせよ、毎回、ちゃんと見ていたのにも拘わらず、フドイナザーロフに注意がいかなかったのは、作品の題名だけで、監督の名前を覚えていなかったからかもしれない。

フドイナザーロフは、1965年にタジキスタンの首都ドゥシャンベで生まれ、モスクワの全ロシア国立映画学校の監督科を卒業後、初の長編を撮ってから、2015年にベルリンで客死するまでに、6本の長編を遺している。今回の特集では、『スーツ』(2003年)と『タンカー・タンゴ』(2006年)の2作を除いて、遺作の『海を待ちながら』を含めた4作品が上映される。

わずか49歳で亡くなった彼を惜しみつつも、これらを続けて見ることが出来たのは、なんとも喜ばしい体験であった。もしかすると、1990年代に、バラバラに見るよりも、閉塞した空気に覆われた現在、まとめて見る方が、より胸に響いたのかもしれない。まだ見ていない人は、絶対に見た方がいい。元気になるから。

なかでも、一番ぶっ飛んでいるのは、『ルナ・パパ』ね。これは、見終わって呆然とすると同時に、なんとも言えぬ開放感に見舞われた。これからすると、『少年、機関車に乗る』は、普通だ。いや、面白いんだよ、とても。26歳で撮った長編第1作としては、よくぞ、ここまで撮ったと感心する。

17歳の少年が、デブちんと呼ぶ7歳の弟を、遠くに住む父親に預けるつもりで、機関車の運転席の脇に乗って旅していく。人気のない荒野をゴトゴトと走る機関車が、ある所ではトラックと競争したり、崖の上から石を投げ込まれたりする道中が楽しいし、着いた先での父親と兄弟それぞれの関係を、微妙な空気感で描いているのにも心惹かれる。土を食べて兄貴に叱られるデブちんが、それと裏腹な大人っぽい対応をするのも面白い。

ただ、それでも普通というのは、むろん、あとの作品の印象が強いからもあるが、それ以上に、二人の少年の機関車での旅の顛末を描くという、物語の線が真っ直ぐ通っているためである。ただ、それでも、最初の長編で機関車を主軸に選んだフドイナザーロフは、以後の作品でも、乗り物を画面の中心に持ってくるという点で一貫しているのだ。

すなわち、『コシュ・バ・コシュ』では、ロープウェイ、『ルナ・パパ』では双発の飛行機、そして『海を待ちながら』では、船というように。それを、映画が、リュミエール兄弟の、列車の到着から始まったように、乗り物は映画にとって特権的な位置を占めているから、フドイナザーロフも、その流れに棹さしているとでもいうと、妙に収まりがよくなるが、わたしは、あまり、そのような解釈をしたくない。もっと単純に、彼は、人も物も動かすことが大好きで、それが映画にとっての生命であることを本能的に察知していたから、乗り物を撮ったのだろうと。そのうえで強いて言うならば、そこには、フドイナザーロフの自由への熱い想いがあるとでもしておこう。

それにしても、彼の映画の始まりは、何がどうなっているのか、よくわからないことが少なくない。『少年、機関車に乗る』でも、天を突くような煙突から、子どもが滑り降りてくる冒頭もさることながら、主人公のファルーを含む数人の少年たちが、用意してきた瓶を塀で囲まれた建物に投げ上げ、それを屋根の上で男たちが受け取ったと見る間に、警官が少年たちを追っかける一連が、いったいなんなのか、わからない。

少年たちの行動は、生き生きとしたアクションとして展開しているのに、その目的も意味もわからないまま、ことが進むのだ。だから、これはなんだ? と疑問符を抱えながら事態を見詰めるしかない。その疑問符は、あとになって、ファルーたちは、ある男の依頼で、刑務所に収監中の男たちに酒や薬が入った瓶をなげ込むのを仕事にしていたということがわかって解消するのだが、それにしても、フドイナザーロフは、何故、このような形で映画を始めるのか?

むろん、まず、アクションがあり、そこから世界が開かれていくということ自体は、映画として特別なことではない。ただ、多くの場合は、そのアクションは物語と連携しているのだ。それに対して、『少年、機関車に乗る』は、以後に展開する物語とほとんど関わりなく、しかも、こちらの眼をそばだたせるようなアクションの強度で、その世界のありようを提示しているのだ。そこには、物語以前に、このような人間たちが生きているということを、見る者に伝えておきたいという、フドイナザーロフの強い想いがあるのではないか。

 

次作の『コシュ・バ・コシュ』は、これほど際立ったアクションがあるわけではないが、やはり、わからないことを宙吊りにしたまま、ことは進んでいく。

まず、水たまりに浮かぶ缶が映る。そこに石を投げている男がいる。彼は、後方からやってきた男に、金はと言って、金を受け取るのだが、全部かと問いかける。と、あとから来たもう一人の男が、いきなり金を出した男を蹴り上げ、倒して、二人がかりで男の懐を探り、隠していた金を取りだして去っていく。蹴られた男は、二人に石を投げたりするのだが、カメラは、金を持って歩く二人連れを俯瞰気味で捉えたと思うと、路上でのサイコロ賭博を写す。

この一連の3者の関係も、どういう種類の金かも明かすことなく、視点は、路上賭博に移り、二人連れもその中に交じって、一人が自分で賭けたり、負け続けるドナイと呼ばれる男に金を貸したりしている。さらに視点は、勝ち続けるイブラギムという男と、その男に対の勝負を挑むドナイに移っていき、全財産を賭けると言ったドナイが負けるところまで続くのだ。

そう、言い落としたが、この作品が撮られた1993年は、タジキスタンで激しい内戦が続いた時期で、映画内でも、時折銃声が響き、川に男の死体が流れてきたりする。それもあり、この始まりは、とても、「恋はロープウェイに乗って」というような甘い雰囲気ではない(むろん、この副題は、あとからつけられたものだろうが)。なお、ロシア・ウクライナ・中央アジア映画の専門家・梶山祐治氏によれば、「コシュ・バ・コシュ」とは、タジキスタンのローカルゲームで「休戦」や「引き分け」を意味する隠語だという。

物語が本格的に動き出すのは、全財産を失ったドナイの家に、ミラという娘がモスクワから帰ってきたところからである。だが、それにしても、始まりを、先になぞったようなシーンにしたのは、何故なのか?

何をどう語り出すかというときに、手慣れた作り手は、物語の経済原則を第一に考えるのだろうが、フドイナザーロフは、そうしたくなかった。繰り返しになるが、物語以前に、この世界には、このようなことをして生きている少年や青年がいるということを、まずは差し出したかったのだ。

それでも、『少年、機関車に乗る』は、始まりのアクションのあとは、ファルーが焦点化されることで、物語にスムーズに入っていくが、『コシュ・バ・コシュ』では、ここまでの段階では、まだ、誰が物語を担うのか定かではない。視点が、全財産を失ったドナイに移り、そこに娘のミラがやってきて、何故か、父と娘がダンスをしたりする(それを足元から撮るショットが効果的)が、ドナイが主役ではない。ドナイから全財産を巻き上げたイブラギムが仲間とやってきて、家の中を点検して、ろくに金になりそうもない、ならばミラを金代わりの人質として預かるかとなったところに、冒頭で、金を受け取り、路上賭博でドナイに金を貸した青年ダレルが、ミラを連れ出して、ようやく、恋はロープウェイに乗る展開となるのだ!

いや、一語一語地を這うように進む言葉と違って、映画は、一瞬のうちにここまで来るので、どうぞご安心を。以後は、ダレルが操縦士を務めるロープウェイの内と外、上と下の運動を存分にお楽しみ下さい。前作では、起伏はあれど軌道の上を走る機関車に限られた運動が、ここでは、ロープウェイから見下ろす風景が高低の広がりを実感させる一方で、その床下から垂らした縄梯子にぶら下がった爺さんが、下を行く車に積まれたビールを失敬したり、ダレルとミラが乗るロープウェイの籠に、車でやってきたダレルの父親やドナイが、石をぶつけたりと、上下の運動が目一杯見られるのだから。

 

ともあれ、恋がロープウェイで芽生えるのに、いささか手間がかかる『コシュ・バ・コシュ』に対して、『ルナ・パパ』の始まりは、一応、単刀直入と言えよう。

冒頭、草原を疾駆する馬の群れの足音と、それを追う者たちの声が響く。馬群が土煙を上げながら町に入ってくるところに、双発の飛行機が低空を飛んでくる。そこに、ボクはファルホールの町に舞い降りたという少年の声が響く。と、スカーフを巻いた女性が写り、今、私は女優を目指して働いているの、お金のために。パパもウサギ農場を始めたのよ云々と、誰にともなく語るのに、また、少年の声がかぶさる。この娘を知ってる、名はマフラカット、じき事件が起きて、ボクのママになる。

えっ、この声の主は誰?、と思ういとまもあればこそ、町の一方を、瓶を紐で吊した両腕を飛行機の翼のように広げた若者が、人々の間を旋回しながら走って行く。それを見たマフラカットが彼の元に駆け寄り、一緒に回りながら、別の道に出る。.二人の脇を自動車が走りすぎる。と、彼は自動車になり、マフラカットは乗客よ、と言って、二人は肩を並べ、店に帰っていく。瓶をぶら下げ飛行機から車になった若者は、マフラカットの兄のナスレディンなのだ。

これで単刀直入か、と訝しがる人がいるかもしれないが、物語の大筋は、この誰ともわからぬ声の通りに進んでいくのだ。

マフラカットは、ある夜、海辺に近い村の森の中を彷徨ううちに、27歳の俳優だという姿の見えぬ男の声に導かれ、男に抱かれながら崖を滑り落ちる。朝になり、海辺で服の乱れを直す彼女に、妊娠を告げる少年の声が降りかかる。マフラカットが、身体の変調を感じるようになると、それと知った町の女たちから、売女、淫売といった罵声を浴びせられる。その一方で、父なし子を産ませるわけにはいかぬと念じたパパは、相手の男を見つけるために、兄妹を車に乗せて、拳銃を懐に、国中の劇場を訪ね歩く。『オセロ』を上演中の劇場では、オセロを演じていた俳優を捕まえて、その黒塗りの化粧を落とさせ、こいつか? などとやるかと思うと、『オイディプス』を上演していた劇場では、怒った俳優が投げた円盤がパパの頭を直撃するようなことも起こっての、てんやわんやの道中となる。

こんな騒動の間に、絶えず視界をかすめる飛行機は、『コシュ・バ・コシュ』のロープウェイのように、直接、マフラカットたちに関わりなく、自分の思い通りに、どこでも着陸して好き勝手をやる飛行士の行状を垣間見せるに留まっているのだが、最後の最後に到って、マフラカットにとんでもない災厄をもたらす。また、宣伝チラシの表を飾る、砂に埋もれた男の額にマフラカットが頬寄せている写真が、どんな成り行きで、かく相成ったかという一部始終を見れば笑わずにはいられず、それでいながら、その後の二人が辿る運命には涙をもよおす。だが、それらすべてを受け入れ、肯った果てに、爽やかに微笑むナスレディンによって開かれるラストには、呆然とすると同時に、得も言われぬ開放感に見舞われる。

ただ、そこで一歩引いて注意を促したいのが、彼らを襲った災厄が、空からの落下によってもたらせられたのに対して、最後に、われわれの前に開かれるのは、下から上へ、天上へという上昇の運動であったということだ。それは、冒頭の、ボクは舞い降りたという少年の声に対する応答でもあるだろう。

 

ここまで書いて、息切れがしてきたので、『海を待ちながら』については、簡単にすませよう。といって、これは軽い映画ではない。荒唐無稽とも破天荒ともいうべき、ぶっとんだ『ルナ・パパ』に対して、こちらは、むしろ、その黙々とした行程に粛然とした想いを誘われる作品なのだ。ただ、原題そのままの「海を待ちながら」というタイトルよりは、「海を求めて」とか「海を目指して」というほうが、内容にあっているような気がするのだが、どうか?

物語は、船が、港からアラル海に乗り出すところから始まる。そこには、マラット船長の妻も乗っているのだが、大嵐に見舞われ難破してしまう。数年後、ただ一人生き残ったマラットが、港に帰ってくる。だが、港とは名のみで、そこは荒涼とした砂地が拡がっている。

これには、ウズベキスタンとカザフスタンにまたがる巨大な塩湖であったアラル海が、1960年代には日本の東北地方全体ぐらいの広さであったものが、半世紀後の2010年には、福島県一県ほどに縮小したという現実が背景にある。

戻ってきたマラットに、地元の人間たちは、自分だけは生き残ってと非難を浴びせるが、彼が、目指すのは、沙漠に放置された、かつて自分が操船した船だ。この映画で眼をうつのは、沙漠に大きな船が置かれている、その光景だ。海に浮かんでこそ相応しい船と、一面に拡がる荒れ地との、そのアンバランスな組み合わせに、ただただ目を奪われるのだ。

物語はストレートに、マラットが、沙漠の中を、その船を動かして海に向かわせようと奮闘するさまを描いていく。砂地に丸太を敷いて、船のエンジンをかける。ある時は、駱駝の群れにロープをつけ、船を引っ張らせる。当然ながら、そんなことをしても、数メートルか数十メートルぐらいしか進まない。しかし、マラットは諦めない。町の人間からすれば、バカか狂気の沙汰にしか見えないが、マラットは意に介さず、黙々と、その作業に打ち込む。

そんなマラットに好意を寄せる、亡妻の妹がいて、何かと彼に関わろうとする。また、昔からの友人で、海のない港と飛行機が飛んでこない飛行場の管理をする男が、何かと彼を助ける。といった人たちが絡むことで、物語に彩りが添えられるが、基本は、マラットがひたすら船を動かしていくところにある。その行為は、ほとんど蟷螂の斧とでも評するしかないのだが、見ているうちに、そのひたむきさに胸をうたれる。

フドイナザーロフは、何故、このような物語というか、このような無謀ともいうべき行為に邁進する人間を描いたのだろうか?  自身が生まれ育った中央アジアの、このような自然のみならず、政治的にも経済的にも過酷な現実を生きる人たちへの、秘かな励ましを込めた祈りに似た想いからであろうか? 解釈はさまざまに成されるだろうが、このような遺作を遺したフドイナザーロフに改めて拍手を送りたい。初めに、畏るべしと書いたが、最後はこうしよう。好漢、惜しむべし!

 

  • <特集上映>再発見!フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅
  • 2023年6月3日(土)よりユーロスペースほか全国順次開催
  • 世界的に再評価中央アジアの巨匠バフティヤル・フドイナザーロフ監督の珠玉の4作品を一挙公開。
  • 上映作品『少年、機関車に乗る』(1991)2Kレストア版/『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って』(1993)4Kレストア版/『ルナ・パパ』(1999)4Kレストア版/『海を待ちながら』(2012)
  • 料金:一般1600円/大学・専門学校・シニア1200円※リピーター特典あり。
  • www.khudojnazarov.com

 

 

  • 『少年、機関車に乗る』
  • 出演:チムール・トゥルスーノフ、フィルズ・サブザリエフ
  • 1991 年/タジキスタン・旧ソ連合作/モノクロ/98 分/モノラル/原題:Bratan




  • 『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って』
  • 出演:パウリ―ナ・ガルヴェス、ダレル・マジダフ
  • 1993 年/タジキスタン・スイス・日本/カラー/96 分/モノラル/原題:Kosh ba Kosh
     




  • 『ルナ・パパ』
  • 出演:チュルパン・ハマートヴァ、モーリッツ・ブライプト ロイ、アト・ムハメドシャノフ
  • 1991 年/ドイツ・オーストリア・日本合作/カラー/110 分/ドルビーSRD/原題:Luna Papa



  • 『海を待ちながら
  • 脚本:セルゲイ・アシケナージ
  • 出演:エゴール・ベロエフ、アナスタシア・ミクリチナ、デト レフ・ブック
  • 2012 年/ロシア、ベルギー、フランス、カザフスタン、ドイツ、タジキスタン/カラー/110 分/ドルビー5.1/原 題:Waiting for The Sea
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    近時偶感

    その昔、子どもが滅茶苦茶なことを言うと、親は、バカも休み休み言えなどと叱ったものだが、最近は、子どもより大人の方が、バカ丸出しの発言を平気でして、居直っているのだから始末に負えない。とりわけ、LGBT理解増進法を巡っては、それをなんとか骨抜きにしたい政治家連中が、元の「差別は許されない」を「不当な差別はあってはならない」などと言い換えたりしている。一見もっともらしく聞こえるが、この発言、裏を返せば、「正当な差別」ならあってもいいと言っているに等しい。ならば、正当な差別とはなにか? 答えてみろ、と言っても彼らが答えられるはずはない。差別に正当も不当もなく、される側には、すべて不当だからだ。また、連中のなかには、性的少数者の人権を認めると、そうでない多数者の人権が損なわれると、それこそ開いた口がふさがらないようなことを堂々と発言する政治家もいる。社会的な差別というのは、常に、多数者から少数者に向けられるものなのだ。まともにものを考えたことのない連中が、多数であることに胡座を書いて、好き勝手なご託を並べているのにウンザリするが、それをバカ言ってらぁと見過ごしていると、言葉は、確実に腐る。アベ内閣が得意とした「ご飯論法」の時から、この国の政治を巡る言葉は、確実に腐ってきているけどね。