上野昻志 新・黄昏映画館

13.『少年』(陳坤厚監督、1983年)

わたしなどが、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)やエドワード・ヤン(楊徳昌)などの作品と共に「台湾ニューシネマ」に眼を開かされたのは、1984、5年のことだったと思うが、その胎動は、1982、3年に始まっていたらしい。詳しい事情は知らないのだが、その頃は、製作や監督、あるいは撮影なども、仲間同士というべきか、それぞれが自在に役割分担していたようなのだ。

この映画も、侯孝賢が製作と脚本、監督は、侯の『風櫃の少年』(1983)や『冬冬の夏休み』(1984)などの撮影を担当したチェン・クンホウ(陳坤厚)。原作は、本作で初めて侯考賢と組んで脚本を作り、以後の侯作品の脚本になくてはならない存在となるチュー・ティエンウェン(朱天文)の小説である。

 

と、まあ、そんな事情は別にして、いま見ても、画面から醸し出される空気感に、なんともいえぬ懐かしさと切なさを覚える。

物語は、原題が『小畢的故事(小畢の物語)』とあるように、アジャ(阿嘉)という子どもを抱えたシューイン(秀英)という女性が、1960年代に、淡水という海辺の街に暮らす歳上の男性と結婚するところから始まり、アジャが、父の姓をとってシャオビー(小畢)と呼ばれ、小学生から、中学生へと成長していくなかで引き起こす数々の事件を辿って、年代記ふうに展開していく。語り手は、彼らの向かいの家に住む、同じ歳の少女だが、姓がチュー(朱)だから、幼いときの朱天文であろう。彼女は、シューインを、おばさまと呼んでいる。

まず、小学生のシャオビーたちを描いた一連が素晴らしい。とにかく走り回っているのだ。道に群れるアヒルを追いかけ回すかと思えば、学校帰りに、何人かで、他所の家の門柱にあるベルを押して逃げる。その姿を見ながら、小学生が思いつく悪戯は、日本も台湾も同じだなと改めて思う。わたしも、同じことをやったことがあるからだ(って、いつの時代の話だ!?)。いや、わが邦では、小学生ぐらいの子どもたちが、外で、群れ集って遊ぶ姿を見なくなって久しいが、いつ頃からそうなったのだろう。1990年代の終わりに、韓国の芸術大学に招かれて日本映画の講義などしていた時は、夕方、子どもたちが遊ぶ声が聞こえて、そうか、韓国ではまだ、子どもたちが外で遊んでいるのだと、ひどく懐かしい思いがしたが、日本では、その遙か前から、そういうことがなくなっていたのだ。子どもたちの居場所が、学校や家に限られるように教育された結果として。街路は、ただの通行の空間でしかなくなったのだ。

物語は、このような、少年の成長過程を追って進んでいき、シャオビーの弟に当たる男の子が生まれたりと、時の経過が語られるのだが、その間に、黙々と家事をこなし、自分からはほとんど喋らないシューインの過去が語り手を通して示される。彼女は、働いていた工場の長と関係が出来、アジャを生むが、工場長に捨てられて工場を辞める。その後、親友の女性(彼女は、結婚の仲介もする)と酒場で働くようになった。シューインは、その間、子どもを家に残していく。

そこでも事件が起きるのだが、それは、親友の女性が4年ぶりにシューインを訪ねてきて、シャオビーに、線路付きの汽車の玩具を渡すシーンの間に、唐突に挟まれるモノクロ画面として示される。わたしは、最初に見たときに、その場面の位置づけに戸惑ったのだが……。

いや、一切音声なしのモノクロ画面で描かれていること自体は、曖昧ながらわかる。酒場かクラブと思しき場所で、シューインと親友が歌っている。彼女たちが客席に加わろうとするところに、別の女が何かを告げ、シューインたちは、慌てて出て行く。と、家が火事になっている。その中から子どもを連れ出す、というように。

あとから思えば、そういう危うい経験をしたために、シューインは、その地を離れて暮らす決心をしたのかということになるが、同じ回想にしても、カラーに対するモノクロの強さが際立つだけに、なんとなく座りの悪い感じがしたのである。

シャオビーの小学校時代のエピソードで、もう一つ印象的なのは、彼が友だちと、路上で、子ども相手の貸本屋紛いの商売をやったことだ。それは、仲間の一人が、本物の貸本屋から盗み出した本を使っていたのだが、それがばれて、シャオビーは、警察に連れて行かれる。穏健で妻や子に優しい継父は、それをなんとか示談ですまそうとするが、母親は、シャオビーをハタキで叩いて折檻する。それを見た彼女の親友が必死に止めるが、そこに来合わせた隣家のチューが、盗んだのは、別な子だと告げて一件落着となる。

その一連を通して明らかになるのは、シャオビーが、一度も、自分が盗んだのではないと弁明しないことだ。これは、中学生になり、不良仲間と一緒に悪さをするようになってからも同じで、肝腎なところで彼は、何故そのようなことをしたか、説明も言い訳もしないのだ。そんな彼の言葉のなさ、自身の行動に対する沈黙が、のちの悲劇を生むことになる。

ともあれ、中学生になったシャオビーは、煙草を吸ったり、『チャタレー夫人の恋人』を読んだりしながらも、一学年下の女の子を好きになり、友だちに頼んで付け文を渡させたものの、件の少女がそれを女教師に差し出したため、とんだ恥をかく羽目になったりと、いかにも年頃の少年がやりそうなことをする一方で、友だちを唆して、少女たちの弁当に細工をしたことがばれて、両親は学校に呼びだされる。こんな悪さを重ねるようでは、退校処分だと言う教師を、人の良い継父がなんとか穏便にと頼みこみ、迷惑をかけた少女たちに弁当を届けると約束をする。むろん、その弁当を作るのは母だ。

その後、シャオビーは、学校の命令で朝礼の号令かけをすることになり、弟たちを相手に号令の練習をするといったユーモラスな一場があるが、それ以前に、きっかけかは不明だが、彼は、同じ中学生のズボンを切ったりしている。それがもとで、件の少年の兄貴分のチンピラに殴られたりするのだが、その仕返しをするなかで、友だちが腹を刺されるという事件が起こる。病院で、看護師から、輸血が必要で、すぐ家族に連絡をして、と言われたシャオビーは、おそらく金が必要と思い込んだのだろう、自宅にとって返して、引き出しから一万両という大金を盗み出す。

そのことが母にばれても、彼は、何故、金を盗んだかを明らかにしない。継父に責められると、返せばいいだろうと開き直る。そんな彼を、母は、土下座してお父さんに謝りなさい、と言うのだが、そんなやりとりのなかで、継父が口にした一言が、取り返しのつかぬ結果を引き起こす。

それがどのようなものかは、実際に見てのお楽しみとしておくが、敢えて付け加えれば、それは、彼らの暮らしぶりをよく見ていたチューが、以前から漏らしていたように、おばさま(シューイン)の完璧主義が、そこに向かわせたということだ。ことの理由を説明しないシャオビーの無言、対して、彼ら母子を慈しんできた継父が、ほとんどただ一度だけ、怒りのあまり口にした一言、それが、何事も自分の責任と引き受けるシューインを打ち砕いたのである。

必要な言葉は発せられず、不要な言葉が発せられる、その狭間で悲劇が起こる。見事な、だが、なんとも切ない言葉の劇が、ここに出来する。

シャオビーの物語は、確かに、彼の、紆余曲折に満ちた成長の物語ではあるが、それと同時に、物言わぬ母であり主婦でもあるシューインの物語でもあるのだ。

 

  • 『少年』[デジタルリマスター版]
  • 「台湾巨匠傑作選2023」にて上映。2023年7月22日(土) ~ 9月8日(金)新宿K’s cinemaほか順次開催! 詳細は公式サイトにてhttps://taiwan-kyosho2023.com/
  • 出演:チャン・チュンファン(張純芳)、ツイ・フーシェン(崔福生)、イェン・チェンクオ(顔正国)、ジョン・ジュアンウェン(鄭傳文)、ニウ・チェンザー(鈕承澤)、トゥオ・ツォンホア(庹宗華)
  • 監督・撮影:チェン・クンホウ(陳坤厚)
  • 原作・脚本:チュウ・ティエンウェン(朱天文)
  • 脚本:ホウ・シャオシェン(侯孝賢)、ディン・ヤーミン(丁亞民)、シュー・シューチェン(許淑真)
  • エグゼクティブプロデューサー:ミン・チー(明驥)
  • プロデューサー:ホウ・シャオシェン(侯孝賢)、シュー・クオリャン(徐国良)
  • 編集:リャオ・チンソン(廖慶松)
  • 音楽:ジョナサン・リー(李宗盛)
  • 1983年/94分/台湾/カラー
  • 配給:オリオフィルムズ
  • ©1983 Central Motion Picture Corporation & Evergreen Film Company /  ©2023 Taiwan Film and Audiovisual Institute
近時偶感

大島新監督の『国葬の日』を見た。

2022年の9月27日に行われた安倍元首相の国葬 について、人々がどう思っているか、全国、10都市で記録したものだ。1日のうちに、これだけの場所で、カメラを回し、そこにいる人々に意見を聴くのだから大変だったろうと思うが、その点は、よくやったと拍手を送りたい。ただ、それで、何か新しい発見があったかといえば、とくにない。

わたしは、安倍元首相の国葬に賛成する人が、どんな根拠で賛成なのか、それを知りたいと思ったが、これも漠然としているのだ。歴代首相で一番長く務めたとか、外交で頑張ったとか、その死に際し、各国の首脳から評価されたとか、要するに、テレビなどで流布されたイメージでしかなく、具体性がないのだ。だから、一歩踏み込んで、外交にしても、プーチンをウラジミールとか呼んでにじり寄った挙句、北方領土問題をいいようにやられた責任をどうとるんだ、と突っ込むのは簡単だが、それで、彼らが抱くイメージを覆すことはできないだろう。首相として安倍がやった数々の行為、それがもたらした結果は、この国の現在および未来を抜き差しならず規制していくはずだが、それも、美し気なイメージで隠蔽されて、この国全体を覆う。それを突き破る方途はいかにあるか?

(大島新監督『国葬の日』は、2023年9月16日よりポレポレ東中野ほか全国順次公開)