上野昻志 新・黄昏映画館

14.『あしたの少女』(チョン・ジュリ監督、2022年)

なんの予備知識もなく、この日本語タイトルを見ると、これから先にやってくる少女、といったふうの、強いて言えば明るいイメージを思い浮かべるのだが、映画の実際はまったく違う。すでに失われた少女がいて、次に同じ運命を辿る少女は誰か、という不穏な問かけに近い。

原題は、『次のソヒ』。まさに、その問は観客に向けられていることを示しているが、ただ、これでは、映画の元になった事件が起きた韓国では通じても、日本では? となるから、苦心の末、『あしたの少女』としたのだろう。別段、ケチをつけるつもりはない。

映画は、2017年に、韓国の全州(チョンジュ)市で、現場実習生として、大手通信会社のコールセンターで働き始めた現役高校生が、わずか3ヶ月後に自殺した事件から発想されている。チョン・ジュリ監督は、事件当時は知らなかったが、のちにテレビの時事番組を見て、どうして、こんな若い子が働いているのか、そして、それは、どんな仕組みになっているのか、それを知りたいと思ったという。その思いは、2部構成の作劇によって、見事に果たされたと思う。

冒頭、まず映るのは、スタジオで、一人、ダンスの練習に励む少女の姿だ。複雑な動きをするが、最後の決めがうまく出来ない。彼女は、やがて、自身の動きを録っていたスマホを止めて、出て行く。彼女の名が、ソヒであると知るのは、そのあと、友だちと酒場で食事をしている時だ。高校を中退したジュニという友だちは、動画配信をするユーチューバーであるらしく、その場で自分たちの顔を録ったりしてはしゃいでいる。と、反対側の席で、そんな光景を見ていたらしい二人組の男が、いかにもバカにしたような口調で、ジュニの行動をくさす。それを聞き咎めたソヒは、かの男に、殴りかからんばかりの勢いで文句をつける。

ジュニが、そんなソヒを抱きとめて、その場は収まるのだが、この一連で、明るく友だち思いのソヒだが、腹を立てたら、相手が男であろうと向かっていく、気の強い女の子であることがわかる。

ソヒは、職業教育をする高校に通っているが、ある日、教師に呼びだされ、大手通信会社の下請けのコールセンターで実習するように言われる。日本の職業教育をする学校に、このような制度はないと思うが、韓国では、現役高校生を、企業に送り込み、現場実習をさせるようになっているらしい。のちに明らかになるように、生徒をどれだけ実習に送り込むかが、その学校の評価につながるのだ。

コールセンターでは、ソヒとほぼ同年代の女性たちが、パソコンに向かい、イヤホーンをつけて、客からの電話に応答している。先輩に一応のやり方を習ったソヒが、イヤホーンをつけると、いきなり飛び込んできたのは客の罵声だ。

ソヒたちに命じられた仕事は、解約を希望する客をいかに引き留め、契約を継続させるかということ。その引き留めに成功するか否かが、即、担当者の成績となり、日々、その順位がチェックされる。28番で最下位のソヒは、男性のチーム長から、名指しで非難され、もっと努力するよう命じられる。もっとも、彼は、彼で、他のコールセンターに較べ、成績が悪いと、上司からハッパをかけられているのだ。

そんななかで、ソヒも現場に順応して、成績1位になったりもするが、ある朝、コールセンターの駐車場の車の中で、チーム長が自殺していたのを発見する。会社は、箝口令を敷き、代わりに、女性のチーム長がやってきて、何事もなかったように仕事を促す。自死したチーム長の葬儀に行ったのも、ソヒ、ただ一人である。

解約したいという顧客の要望に応えるのではなく、解約すれば、違約金として、多額の金がかかると圧力をかけ、契約を続けさせるという仕事もさることながら、その実績で、給与は査定され、しかも、実習生は、成果給の支払いも先延ばしされる。そんな状況に我慢ならなくなったソヒは、怒りを爆発させてチーム長に食ってかかり、出勤停止3日間の懲戒処分となる。

ソヒは、謹慎中に、ジュニとカラオケに行くが、その帰り、雪の中で手首を切る。病院に運ばれ、やってきた両親に、会社を辞めていいかと訊くが、事情を知らぬ両親には通じない。

翌日、学校に行くと、憔悴しきったソヒに向かって、教師は、お前は学校に損害をかけた、会社に行って、平謝りに謝った、二度とこんなことはさせないようにすると言ってきたから、3日後には行けと、一方的にまくし立てるだけ。彼にとっては、実習生が、どんな仕事をして、どんな待遇を受けているかには、なんの関心もなく、ただ、送り込んだ生徒が、実習を続けることだけが大事なのだ。

ソヒの、それまで耐えてきた気持ちの糸が、どこで切れたのかはわからない。あるいは、彼女自身も、それを明確に意識していなかったかもしれない。友だちと別れ、何処にも行く当てがない、という思いのまま、食堂に入り、ビールを2本飲んだ彼女の足元が眼を引く。寒い季節なのに、彼女は、素足にサンダルをつっかけたままなのだ。戸口から差し込む午後の光が、その足を照らし出す。その光を、珍しいもののように見たソヒは、店を出て、蹌踉(そうろう)とした足取りで貯水池に向かう。

 

第1部は、そこで閉じられ、貯水池に沈んで凍っていたといわれる、彼女の死体が引き上げられたところから、第2部が始まる。

第2部は、ソヒの死に到る過程を調べる、ペ・ドゥナ演じるユジンという刑事が主役だ。彼女は、ソヒと同じクラブでダンスを習っていたこともあり、一度は、ソヒとすれ違っていたのではなかったか。

ところで、第1部について、わたしとしては珍しく、話の展開を追って書いてきたが、これはやはり、ソヒという少女が辿った運命に惹かれたためだろう。むろん、それは、映画の力による。

第1部の終わりで、ソヒが素足でサンダルをつっかけている、その足元が強く印象に残ったが、この場面に限らず、チョン・ジュリ監督は、足元を写すことに拘っていたように思う。ソヒがダンスの練習をするときは、スニーカーを履いていた。また、これは、彼女がまだ仕事内容を知らぬまま、指示されたコールセンターに向かう前だったか。珍しいスーツ姿で、工場で働く、ダンス仲間だった男友達の所に行って、ダンスの動きをやってみせたところ、転んでしまう。その時、この靴じゃダメだと笑うのだが、そこでは、ハイヒールだったのだ。

それに対して、第2部の主人公、ユジン刑事は、編み上げのブーツを履いているのだ。それは、彼女の佇まいと共に、内に屈託を抱え、時に上司とぶつかりながら、ソヒが辿った道を一つ一つ探り、何が彼女を追い詰めていったかを明らかにしていくのに相応しい毅さ(つよさ)を現しているだろう。そして、ソヒが、最後にビールを飲んだ食堂でも、同じようにビールを飲むユジンのブーツに、あの時と同じ光が差し込む。

すでに書いたように、ソヒが通っていた職業教育をする学校では、専攻する学科や本人の希望に関係なく、企業に実習生として送り込み、そこで、どんな仕事をさせられているかにも関知しない。送り込んだ実習生の数だけが問題で、それによって役所から学校に下付される金額が決まるので、教師も、それだけに気を遣う。ユジン刑事が、そのことの非を問い糾すと、教頭と称する男は、平然と居直るのだが、怒ったユジンは、思わず彼を殴りつける。

では、実習生を受け入れる企業はどうかといえば、表向きの契約書とは異なる契約を結ばせ、実習生だからという理由で、成果給の支払いも先延ばしする。それは、労働法に違反するのではないかと問うユジンに、会社の幹部は、出来の悪い学生に仕事を教えてやっているのだ、と居直る。

さらに、学校に、実習生の割り当て次第で、下付する金額を決めている教育庁に、それがもたらした結果の責任を問い詰めても、その上の役所が決めたことだからと撥ね付け、文句があれば、上級の役所まで行きますかと、せせら笑う。

どの組織も、それ自体のスムーズな運営だけが重要で、そのなかで、人が死のうがどうしようが関係ないのだ。ソヒは、学校、企業、役所と連関するシステムによって死に追いやられたのだ。むろん、システムを動かすのは人間だが、その人間が、想像力を欠いた歯車になっていては、どうしようもない。

この映画の場合、職業教育の専門校が、企業に実習生を送り込み、その数字が、学校の評価につながるという、韓国の制度の特殊性に目が行きがちだが、そのような制度がない日本が、そこから免れているかといえば、そんなことはない。たとえば、外国からの職業人材を受け入れる、技能実習生の現状は、どうなのか? あるいは、契約社員の場合はどうなのか? と考えれば、とても他人事と言ってはいられないのではないか。

一方、韓国では、この映画の公開後、国会議員の発議で、「次のソヒ防止法」が提出され、与野党の賛成で可決されたという。チョン・ジュリ監督は、それを嬉しいこととしながら、複雑な気持になったという。というのも、2017年のあと、2021年にも現場実習生が死亡するという事件があり、国民の怒りで法案が発議されたものの、時間が経つと関心が薄れて棚晒しになっていたからだ。映画の公開が、改めて、薄れかけた記憶を取り戻したということだろう。それにしても、そのような話を聞くと、韓国社会は、まだ健全だなと思う。事件が起こり、一時、多くの関心を呼びながら、時間の経過とともに忘れられるというのは、どこも同じだが、わが邦では、あれほど問題視され、いったんは廃案になった入管法が、まさに一般の忘却を糧に、元のまま可決されてしまったのだから。

映画の話から外れてしまったので、最後は映画に戻ろう。そのラストシーンだ。ソヒと共に貯水池に沈んでいた彼女のスマホが見つかる。だが、一切のやりとりは消去され、彼女がダンスをする動画だけが残っていた。それを手にしたユジンは涙を流すのだが、そこには、わたしたちが最初に見たのとは違い、ソヒが完璧にダンスをする姿が映っていたのだ。

 

  • 監督・脚本:チョン・ジュリ『私の少女』
  • 出演:ペ・ドゥナ、キム・シウン
    チョン・フェリン、カン・ヒョンオ、パク・ウヨン、チョン・スハ、シム・ヒソプ、チェ・ヒジン
  • 配給:ライツキューブ
  • 2022/韓国/5.1ch/138分/DCP
  • ©2023 TWINPLUS PARTNERS INC. & CRANKUP FILM ALL RIGHTS RESERVED.
  • 公式HP:https://ashitanoshojo.com/
近時偶感

福島第一原発の処理水放出に対して、中国が、日本の全水産物の禁輸を宣告したが、農林水産大臣をはじめ政府関係者が「想定外」と言っているのには呆れてしまった。もともと、日本が処理水を放出すると表明した時から、中国側は、断固反対を言い続けていたではないか。ならば、まともに考えれば、最悪の場合、彼らが全面禁輸に踏み切ることぐらい、想像できるだろう。それを「想定外」とは、出来の悪いAI並の反応というしかない。むろん、中国は、政治的な意図をもって、これをしたのだが、そのような相手が仕掛けてくることを、最悪のレベルで想定して対処を考えるのが、政治だろ。

その点、日本の権力者は大甘なのだ。処理水の問題にしても、反対を表明する漁労関係者に、岸田がたった一度だけ会いに行って、「ご理解を」と言えばすんだとばかりに、放出に踏み切る。大方の日本人など、その程度で大丈夫と踏んでいるから、手強い外国に対しても、同じ姿勢で通じると思い込んでいるのだ。これは、日中戦争から太平洋戦争に踏み込んだ当時の権力者の思考と同じである。相手についてまともに考えることなく、自分の漠然とした願望だけでことを進めてしまうのだ。

もともと、福島第一原発の津波被害にしても、当時の東電の経営者たちが、資料はあるのに、津波が最高レベルで襲ってくる事態を「想定外」として、いい加減な作りをしたことから、今日の結果を招いているのだ。破壊された原発の処理は、うまくいったとして、今後、何十年とかかり、それこそ孫子の代まで莫大な負担を負わせることになるが、そんな事態を招きながら、彼らは「想定外」を口実に、責任を逃れているのだ。