上野昻志 新・黄昏映画館

19.『一月の声に歓びを刻め』(三島有紀子監督、2024年)

雪を踏む足音で始まる第1章 洞爺湖 中島。激しい波音が耳をうつ第2章 東京 八丈島。大阪南港に到着しましたというアナウンスの声が響く第3章 大阪 堂島。と、この映画は、水に近接する三つの場所に伴う物音とともに、それぞれの物語が始まる。それはやがて、亡き娘を呼ぶ声によって、一月の声として響きわたることになるだろう。
 だが、先を急ぐまい。まずは、片手にカンテラ、もう一方の手に箱を引きずりながら雪を踏んで歩むマキことカルーセル麻紀の横顔に惹かれる。
 窓の向こうに洞爺湖の水面が見える家に暮らすマキは、丁寧におせち料理を作り、重箱に詰めて、正月に娘の一家を迎える。皆は、美味しいと言って、料理を褒めるが、娘の美砂子(片岡礼子)は、どこか落ち着かない様子だ。マキをお父さんと呼ぶ彼女を、その娘は、お母さん、性格が悪いなどと揶揄する。それは、「父」が、47年前に6歳で死んだ次女・れいこへの想いを断ち切れないまま、姉である自分の歳を忘れていることに対する違和感もあるだろう。だから、彼女は、別れ際に、もう来ないかもしれない、と言って去っていく。
 眼を見張るのは、そのあとの場面だ。一人になったマキは、水底に沈んだような部屋の中で、そこが湖の岸であるかのように、性暴力を受けて死んだれいこの幻影を見、助けられなかった自身を責め、男である己を去勢した身振りを繰り返す。マキは、47年前に起きた出来事を、そのまま現在に抱え込んだまま生きているのだ。あたかも煉獄を彷徨うかのように。
 そんな暗鬱な世界を、海鳴りの音と、それに呼応するかのような太鼓の響きが突き破るのが、八丈島だ。この転調は、何故にもたらされたのか?
 監督として、すでに何作もの映画を撮ってきた三島有紀子が、この映画を作ろうと思い決め、脚本から手がけたのは、彼女自身が明らかにしているように、自身が6歳の時に受けた性暴力と改めて向き合うためだ。そしてそれは、前田敦子演じるれいこが、大阪の堂島を彷徨う第3章に描かれていく。
 先に見たように、第1章は、性暴力で失った娘を救えなかった父親の、取り返しのつかぬ自責の念に囚われている姿を描いていた。カルーセル麻紀の凄絶とも言えるような、演技を超えた演技が、それを確かな手応えで伝えてきた。ならば、そこから、第2章をとばして、性暴力を受けた当事者を描いた第3章につなげてもおかしくはない。だが、三島監督は、敢えて、そうしなかった。何故か?
 おそらく、それでは、あまりにもスムーズに物語が出来あがってしまうことに対する疑いがあったからではないか。いわば、物語がなだらかに展開すればするほど、わかった、そういう話なのねと、観客に楽に飲み込まれてしまう。そうはさせたくないという想いが、この第2章を書かせたのではないか。そこには、三島有紀子の作家としての覚悟と批評があり、それが作品を豊かにした。

 

四面を海に囲まれた八丈島の自然、鳴り響く太鼓、さらには、地面を引きずる鉄パイプの音、それらが、一端は洞爺湖を突き放しながら、根幹は、牛飼いをする父と、島に5年ぶりに帰って来た娘の物語として、前章を受けている。
 哀川翔演じる父・誠は、「安全運転」の標識が立つ道路を車で通る度に、交通事故で瀕死の重傷を負った妻のこと、その延命治療を娘の賛意を受けて断ったことを思い出し、喪失感とともに罪障感を噛みしめる。
 彼が見るところ、娘の海(松本妃代)は、妊娠しているようだ。だが、彼女は何も言わない。夕暮れの草原で一人遠くを眺める娘を見た誠は、海宛にきた封筒を開き、そこに、離婚届とともに、この島にやってくるという男の存在を知る。誠が、弟分(原田龍二)とともに、太鼓と鉄パイプを荷台に積んだ車を走らせるのは、その男を確かめようとしたためか。
 そんな誠の車を追い越そうとでもするかのように、海が自転車をとばしてやってくる。車を止めた誠は、お前、妊娠してんだろう、と問う。それを肯う海は、車の前に立ち、鉄パイプを地面に突き立て、「人間なんて、全員罪人だ! 結婚する!」と叫ぶ。港に近づくフェリーに向かって、男の名を呼びつつ走って行く海の後ろ姿がまぶしい。
 八丈島の明るい光に彩られた第2章に続く第3章、大阪・堂島は、一転して、モノクロームの世界に沈んでいる。明から暗への転調だ。
 フェリーでやってきたのか、下船を急がせる男に促され、船を下りて歩く前田敦子演じるれいこの横顔が眼を惹く。カルーセル麻紀の横顔が印象的だったように。三島監督は、人の横顔を撮ることに拘っているのだろう。細心の注意を払って撮っているように見える。人は、こちらに向けた正面より横顔のほうが、よりその人を表すとでもいうように。
 れいこは、とある寺で催される、かつての恋人の葬儀に来たらしい。すれ違う人が、あ、れいこちゃんと声をかけるが、彼女がそれに振り向くことはない。それは、母(とよた真帆)に導かれるようにして入ったカフェでも変わらない。母とは席を離して座り、亡くなった彼とは数日前に電話で話をしたばかり、と言うだけで、あとは葬儀で配られた彼の生前の写真を集めた冊子に見入るばかりだ。その写真帳の最後には、彼が好きな映画として、ナンニ・モレッティの『息子の部屋』の名が記されている。
 一人になったれいこは、淀川沿いの河川敷を歩く。遙か上の橋では、何かを叫び、橋から身を投げようとして取り押さえられる女がいる。と、一人の若い男が、彼女に声をかける。「レンタル彼氏だけど、今日1日いかが?」と言う男(坂東龍汰)を無視するように歩くれいこに、彼は、「トト・モレッティ」と書かれた名詞を差し出す。モレッティの名に興味を覚えたのか、振り返ったれいこは「セックス、うまいですか?」と言う。それを機に、二人はホテルに入るが、彼女の無表情は変わらない。そればかりか、男が心得たふうに、ベッドに座るれいこの耳に何か囁きかけると、れいこは、止めて!と彼を突き飛ばしもする。
 それが変わるのは、彼が窓を開けて、イタリア語めいた言葉を発し、トトについて説明したことに、れいこが『息子の部屋』と応じた時からだ。モレッティの名が、彼らをくつろがせるのだ。
 そのあと、イタリアンポップスを流しながら、ベッドの上で踊るれいこの顔に、初めて笑みが浮かぶ。それが、二人の結合を容易にさせたのだろう。事が終わったれいこの口から、好きな人がいたがセックスが出来なかった、自分の身体なんか出来る身体じゃないと、6歳の時に受けた性暴力の記憶が切れ切れに語られるのである。眠りについたれいこの顔を、男は、スケッチブックに描く。それが、描かれたスケッチブックとともに、翌日の行動に関わってくるのだが、それは、のちの話。
 朝を迎えたれいこは、男に、ついてきて欲しい所があると告げて、二人は、堂島の街に出て行くのだが、物語を追うのは、ここまでとしよう。
 ネタバレ云々といった問題ではない。だいたい、このあとに描かれるのは、第1章から展開してきた物語の核心に当たる部分ではあるが、それは、ネタ、すなわち伏せられた謎といった類のものではなく、問題としては、当初から明示されていることだからだ。ただ、それが、おぞましい記憶として、いまも自身を苛む、6歳の時に受けた性暴力の現場に向かうれいこ=前田敦子の身体をを通して、どのようなアクションとして示され、その帰結がいかなるものかを、いまだ,この映画を見ていない人に、スクリーンを通して体感して貰いたいからだ。
 ただ、この章に続く終章で、雪積もる洞爺湖の畔で叫ぶマキの声は、ほかならぬ一月の声として、遠く遙かな堂島を歩くれいこの耳にも確かに届き、秘やか歌声として木霊していたということだけは、言っておこう。三島有紀子監督の渾身の力作、ここに開く。

 

  • 『一月の声に歓びを刻め』
  • 2月9日(金)テアトル新宿ほか全国公開
  • 脚本・監督:三島有紀子
  • 出演:前田敦子、カルーセル麻紀、哀川翔
    坂東龍汰、片岡礼子、宇野祥平
    原田龍二、松本妃代、とよた真帆
  • 2023/日本/118分/カラー・モノクロ/シネマスコープ
  • © bouquet garni films
  • 公式ウェブサイト:ichikoe.com
近時偶感

1月1日に起きた能登沖地震から1ヶ月が経つが、いまだに14,643人が避難生活を送っているという。わかっているだけの死者も238人というから、なんとも悲惨なことで、言葉もない。妻子4人を亡くし、一人だけ生き残った人の話など聞くと、わたしのような、いい歳したすれっからしでも、胸がつまる。
 不幸中の幸いというのも、些か気が引けるが、被害の大きかった珠洲市に原発がなかったことだけは、救いだったと思う。というのも、ここでは、1980年代に原発を作ろうという動きがあったからだ。 すなわち、1986年には、珠洲市市議会が、原発誘致を決議し、3年後の89年には、関西電力が、立地調査に着手したのだ。だが、これに反対する人々の反応が早かった。関西電力が立地調査開始を告げた10日後には、反対派の住民が市役所に座り込み、以後、40日間、座り込みを続けたのである。結果、関西電力は調査の一時見直しを決め、原発誘致は止まったのだ。
 いまから30年余り前のことを記憶している人が、どれだけいるかわからないが、40日間の座り込みを貫徹した当時の住民の力によって、珠洲市が、今度のような地震にあっても、東日本大震災時に起こった福島第一原発事故の再来を免れることが出来たのだ。
 その一方、同じ石川県の羽咋郡志賀町には、北陸電力の志賀原発がある。1号機が、1993年に運転開始したが、1999年に、人為ミスによる誤作動で、国内の原発で初めての臨界事故が発生した。だが、北陸電力は、日誌を改ざんして国にも報告しなかった。それが明るみに出たのは、2007年のことだったという。
 今回、たまたま事故が起こらなかっただけで、たとえ運転停止中だとはいえ、そのような隠蔽工作をする企業が経営し、しかも敷地内に活断層のある志賀原発があること自体、爆弾を抱えているようなものではないか。ところが、1月1日の地震発生後まもなく、記者会見で、原発のことを質問されたキシダ首相は、薄笑いを浮かべただけで何も答えなかったという。彼らは、その地で暮らす人たちのことなど、何も考えていないのだ。