上野昻志 新・黄昏映画館

『密輸1970』(リュ・スンワン監督、2023年)

久しぶりに、爽快なアクション映画を堪能した。最近の日本映画では、ほとんどお目にかかることがない切れ味のいい作品だ。それは、むろん、リュ・スンワン監督の力量によるのだが、そのベースには、この十数年、顕著になった韓国映画の底力があるのだろう。

まず、密輸品を、税関のチェックを逃れるために海に落とし、それを海女たちが引き上げるという設定がユニークで面白い。これは、1970年代のパク・チョンヒ大統領時代に密輸品の海中投棄が行われていたという史実を知った監督が、クンチョンという漁港を舞台に、海女たちが引き上げを担う物語に仕立てたということだが、それが、前半と後半を彩る海中撮影として見事に生かされている。

しかも、その前段として、海女たちが、海中の魚介類を採ったものの、それらがすべて、化学工場が出す廃棄物によって死んでいて、売り物にならず、商売上がったり、さあ、どうするというところから始まるのが、説得力がある。彼女たちは、魚介類の代わりに、海中に投棄された密輸品を引き上げ、報酬を得るようになるのだ。

本筋からはずれるが、そんな海女たちを乗せる船の船長の横顔が、誰かに似ているなと見るうちに、森崎東監督だと思い到って、秘かに笑った。ただ、この船長、息子の船員が海に落ちたのを助けようと飛び込んで、二人ともスクリューに巻き込まれて死んでしまうのだ。このエピソードも、密輸品を巡る、物語の場としてのクンチョンという漁港の日常を表す一助になっている。

物語が動き出すのは、密輸品の引き上げが、税関の船に見つかって、海女たちが捕らえられるのだが、そのなかで、チュンジャという元は家政婦をしていた女だけが逃げて姿をくらますというところからだ。

一方、捕らえられ、刑に服した海女のリーダー、ジンスクは、死んだ船長の娘で、チュンジャの親友だが、知られるはずのない密輸品の引き上げが税関にバレたのは、誰かが垂れ込んだに違いないと思い巡らすうちに、一人だけ逃げたチュンジャがそれだと確信する。

そして2年後、すっかり都会風な装いに身を包んだチュンジャが、クンチョンに帰ってきたことから、愛憎相半ばする二人を軸に物語が動いていく。

と同時に、それまで、女たちの陰で目立たなかった男たちが前面に出てくる。チュンジャが戻ったのも、ソウルで密輸品の洋服を売り捌いていたのを、密輸王といわれるクォン軍曹に、縄張り荒らしの代償として莫大な賠償金を払えと刃物で脅され、窮余の一策として、クンチョンに行けば、密輸品を安全に引き上げることが出来ると訴えたからなのだ。

韓国では、1964年から1973年にかけて、アメリカの要請を受け、軍隊をベトナムに派遣している。クォン軍曹が、依然として軍曹と呼ばれ怖れられるのは、ベトナム戦争で、相当に酷いことをやってきたからだろう。彼は、ベトコンの嘘を見破るのは得意だったと誇るが、拷問などお手のものだったのではないか。クォンは、片目が潰れた軍人仲間を連れて、クンチョンに行くが、そういう人物を配したところにも、監督の70年代に対する歴史意識が覗われる。

クンチョンは、2年の間に様変わりがしていて、ジンスクの父親がやっていた海運会社も、元は下っ端の漁師だったドリというチンピラが乗っ取り、密輸に関わっている。

ドリは、密輸王といわれるクォン軍曹に、とりあえず敬意を払い、協力する姿勢を見せるが、利権を奪われるのを怖れて、町のチンピラたちを集め、クォンを殺しに行く。

攻めるドリたちと、迎え撃つクォンと片目。激しい闘いが、ホテルの廊下や部屋で繰り広げられるが、多勢に無勢で、片目の男は死に、クォンは傷を負う。だが、彼が最後までチュンジャを庇ったことで、二人の関係が変わっていく。警察が乗り込んで、騒動は収まるが、その警察を、密輸取り締まりの税関職員・ジャンチュンが懐柔することで、以後、彼の存在が大きくなる。

密輸品を巡る争いは、傷を負ったクォンが後景に退いた結果、ジャンチュンとドリが前面に立ち、女たちを利用しようとする。かくして物語は、二人の男と、ジンスクやチュンジャを中心とする女たちとの闘いという構図を鮮明にする。

チュンジャを垂れ込み屋と疑っていたジンスクは、久し振りの出会い頭に、チュンジャの顔を叩いたりしたが、やがて自身の誤りを認め、二人は仲直りする。そこにもう一人、オップンという女性がいる。彼女は、喫茶店のアルバイトから、才覚にものをいわせて今やオーナーになっている。ジンスクなどとは違い、いつも美しい韓服を着て、おしゃべり好きで軽そうなのだが、情報通で、女たちの計画を知ろうとするジャンチュンに顔を蹴られても、渋々白状するフリをしながら、嘘をつき通す根性がある。

欲得づくで手を握るかと思えば、裏切りもする男たちと違って、女たちは、しっかり結びついているのだ。そんな男と女の戦いが一挙に弾けるのが、海である。

その海で、何が起こるか? 海女たちが海中で密輸品を引き上げる様子を写し出すところから始まったこの映画の最後も、海中で閉じられることになるが、そこでは最初とはまったく異なる光景が展開する。それに目を奪われ、と同時に、女たちの連帯に、心からの拍手を送りたい。

女性を主人公にした活劇自体は珍しくないが、1970年代という時代設定のもと、海を舞台に、密輸品を巡る、海女たちと男たちの闘いを描いたところが、まったく新しく、しかも、女優を中心に俳優陣が頑張っていたのが素晴らしい。ついでながら、本編中、折りにふれ流れる歌は、70年代の流行歌だという。わたしなどは、むろん知らなかったのだが、韓国で、当時を知る人からすれば、それだけでウルウルするのではないだろうか。こういう手の込んだエンタテインメント映画、今の日本では創れないんだろうなぁ(嘆息)。

 

  • 『密輸 1970』
  • 絶賛公開中
  • 監督:リュ・スンワン
  • 原題:밀수/英題:SMUGGLERS/2023年/韓国/韓国語/129分/カラー/シネマスコープ/5.1ch
  • © 2023 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & FILMMAKERS R&K. All Rights Reserved.
  • 公式ウェブサイト:mitsuyu1970.jp
  • 公式SNS(X):@mitsuyu1970
近時偶感

前々から、日本は、人権低国 ・・だと思ってきたが、それを主導してきたのは、官、つまり役人なんだよな。名古屋の入管施設で、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが、まともな治療を受けずに亡くなったことにも、それが現れている。本人が病状を訴えても、どうせ大袈裟に言っているだけだろ、と放置したのも、入管職員が、日頃から、収容した外国人の生命にまともな関心を払ってこなかったからだ。そこには、人権意識などほとんどないのではないか。
 だが、角川歴彦氏の『人間の証明 拘留226日と私の生存権について』(リトルモア)を読むと、犯罪捜査に辣腕を振るう法の番人、検察でこそ、人権無視が日常化していることを知る。
 これは、マスコミが大騒ぎしたことで、大抵の人は憶えているだろうが、「五輪汚職」絡みの事件だ。詳しくは本書を参照されたいが、簡単にいうと、KADOKAWAが大会スポンサーに選定されるよう、組織委員会に働きかけるために、有力な委員に人を介して賄賂を贈ったとされる疑惑である。
 検察は、それが、角川歴彦会長のトップダウンで行われたという構図を描き、メディアにリークしたことで、大騒ぎになったのだ。これは他でもない、中心になる委員については知らなくても、出版大手の、あのKADOKAWAが関係しているとなれば、一般の注目度は否が応でも高まり、マスコミも、ここぞとばかりに煽ぎたてたのである。
 角川氏は、検察による3回の任意聴取のあと、2022年9月14日に逮捕され、特捜部の検事による20日間の取り調べの後、起訴され、小菅の東京拘置所に送られた。
 角川氏は、そこで看守から、「これから囚人として扱う」と言われたのだ。氏が書いているように、まだ罪も確定していない未決囚を既決囚と同等に扱うということは、司法の「無罪推定の原則」に反することだが、拘置所では、それが当然のようにまかり通っているのだ。法はあっても、執行・管理する側は、それを平然と無視する。それが看守レベルでも慣習化しているのが、日本という法治国家の現実なのだ。
 看守より、もっと凄まじいのは、拘置所の医師である。当時、79歳になった角川氏は、不整脈の持病があり、心臓の手術をする予定もあって、弁護士との接見中に失神したりもしたが、医師は、なんと言ったか。「角川さん、あなたは生きている間にはここから出られませんよ。死なないと出られないんです」と。
 人の命を助けるのが医師であるはずだが、彼は、そうではない。この医師の看板をぶら下げた男は、病気の未決囚を脅したのだ。何が何でも、検事の描いたストーリーに合わせて自供するように、そうしないと生きては出られないと脅迫しているのだ。囚人として扱うという看守は、たんに拘置所の習いに従っているだけともいえるが、この男はそれを遙かに超えて、検事の意向を笠に着ているだけ悪質である。
 それが司法に関わる公的な機関で、医師として常駐しているのだ。彼には、人権意識のカケラもないのだ。
 こういう場所に囚われながら、角川氏はよく闘ったと思う。彼は、身上調査や供述調書などの署名指印も拒否し、容疑を否認していたから、検察は、やっきになって拘留を長引かせた。刑事訴訟法では、起訴後の勾留期間は、原則2ヶ月とされているが、否認または黙秘すると「証拠隠滅のおそれ」があるとして保釈されない。裁判所は、検事の情報に従って1ヶ月ごとに拘留を更新するから、拘留は続き、ここに「人質司法」が成立する。
 保釈請求をしても却下される。それが繰り返されると、耐えられなくなって、検察の筋書きに沿った「自白」をして、なんとか娑婆に出ようとする人が出てきても不思議はない。長期の「人質司法」は、そのような人間の弱みにつけ込んだ、冤罪の温床ともなる日本独自のシステムだ。そこには、基本的人権という考えはない。
 角川氏は、226日間の拘留から、それこそ「死地を脱する」思いで釈放された後、自身の拘留・保釈却下を違法とする「人質司法違憲訴訟」を起こすことを決意する。これは、日本の司法制度のなかで行われる人権侵害を正面から問う、画期的な訴訟、すなわち国を相手の「公共訴訟」になるだろう。
 「五輪汚職」で、検察の意向にそって角川歴彦氏に集中砲火を浴びせたマスコミは、今度こそ、ジャーナリズム本来の使命に立ち返って、この訴訟をきちんとフォローすべきだ。