コメント続々!

~映画監督たちから寄せられたコメント~

*青山真治 (『東京公園』)

六十年代に日本映画の古典が終焉を迎えて以後の最高傑作は、おそらくこの三部作だ。それはいわゆる監督個人の「美学」というような相対的な理由ではない。終戦から二十五年を経て、その地点から戦前を冷徹に見据えた「魂」の、沈黙の絶叫。痛ましくも揺るぎなきこの「魂」を体験することが、さらに三十年が経った現在、なおさらに「遅れてきたものの新しさ」を輝かせ、より確実にこの国に覚悟を強いる。決して忘れられない「参りましょう」という少女の誘いに、いまどう応えるか。震えながらそれに戸惑う。

*石井裕也 (『ハラがコレなんで』)

『ツィゴイネルワイゼン』を18歳の時に観ましたが、意味が分かりませんでした。でもいま観ると、当時の自分の脳内を思い出します。この映画のように自由で、ハチャメチャで、何かを求めていた。やっぱり、10代の時に観ていて良かったと思いました。

*入江悠 (『劇場版・神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』)

清順映画の前では、ただ呆然と立ち尽くすしかない。こんなカッコいい映画がこれから日本映画史に生まれるだろうか。今はできるだけ誠実に絶句しようと思うばかりだ。

*大根仁 (『モテキ』)

僕は完全なるノーマルですが、高校時代に大井町武蔵野館で「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」の二本立てを観て原田芳雄と松田優作に勃起しました。いや、正確には鈴木清順に勃起したのです。心のどこかでまだその勃起は収まっていません。

*大森立嗣 (『まほろ駅前多田便利軒』)

あえて言葉にすると艶っぽく、耽美で、儚くて、戯れている。
唯一無二であり、戯れている。そのせいなのか、とにかくものすごく格好いい。

*沖田修一 (『南極料理人』)

浪漫三部作に出てくる女の人たちに、実際会ってみたくなる。それでちょっと怖い思いをしてみたい。でも、出てくる男たちほど、色気ないから、たぶん相手にされない。

*鈴木卓爾 (『ゲゲゲの女房』)

ぬきさしならない女と男の狂気と呼吸を、おかしみを含ませ、粋な塩梅で繋いでみせる、清順監督の映画宇宙。この三つの映画はおそらくいつまでも、映画の愉しみと謎を湧き上がらせ、観る者の精神に深い影を落とし続けるでしょう。

*瀬々敬久 (『アントキノイノチ』)

いま、鈴木清順の映画を見ると自分の脳ミソはどうなるんだろう? 考えただけでワクワクする。
伝説なんてくそくらえ。いつの時代にとっても清順映画は新しい。

*富田克也 (『サウダーヂ』)

映画全盛の時代、あまりに自由な映画を作り続けたが故に撮影所を追われた男がいた。十余年の苦難を乗り越え、その人は、自由という芸術が本来持つべき姿そのものの様な美しい映画を作り上げる。そして、全映画界を巻き込んだ長い闘争の果てにテント小屋上映は開始された―。鈴木清順。私たちはこの自由な魂を今一度、この時代に問い直すべきなのだ。

*深川栄洋 (『神様のカルテ』)

あれは、子供の頃に見た怖ろしい夢だった。そこから逃げ出したくてもがいていた虚しい世界。いつからか、その時間こそが美しく、快感だと知りました。いつまでも浸かっていたい鈴木監督が見た僕の三つの夢。

*前田弘二 (『婚前特急』)

狂気と根底に激しく流れる美意識。いつだって軽々と理屈をとびこえ、偏りがちな僕らの価値観をぶち壊す。同時に、この世には知らないことがたくさんあるし、いろんな可能性があるんだって思えて勇気をもらいました。

*松江哲明 (『トーキョードリフター』)

“エロス”と”ロマン”を真に再生出来るのは、映画館のスクリーンと闇だけなのだ。
今回の上映はそれを体感する絶好の機会だと思う。

*真利子哲也 (『イエローキッド』)

見世物として映画が持っていた淫靡な魅力を発揮させた鈴木清順の映画は、時が過ぎても目に沁みるほど匂い立っている。いま観ても相も変わらず鮮烈なツィゴイネルワイゼン、陽炎座、夢二。これぞ、日本映画の真髄か。

*三浦大輔 (『ボーイズ・オン・ザ・ラン』)

今、この時代に、『ツィゴイネルワイゼン』のような映画がつくられることはないと思う。
それには諸々の理由があるが、とにかく、もう観れないのだから観ておくべき作品には違いない。

*山下敦弘 (『マイ・バック・ページ』)

ジャンルや枠を取っ払い、的確な線で映画自体をぼやかし、観た人の夢や記憶に侵入する恐ろしい映画…、いや艶っぽい映画…、いや笑える映画…、とにかく強烈に映画です。

*横浜聡子 (『ウルトラミラクルラブストーリー』)

このぼんやりとした終末の中で久々に観た清順監督の映画。そこは、現実と非現実を浮遊する豊かで潔癖な、イメージの海。想像、創造は、人間にしかできない。私の身体に、人間であることの小さな誇りと喜びが染みた。清順監督の映画は、黒煙立ちこめるどん詰まり中の、ほんの一瞬の、清らかな息継ぎでありました。