5.ケイコ 目を澄ませて(三宅唱監督、2022年)
言葉を発しない岸井ゆきのが素晴らしい!
このタイトルだが、普通は、目を澄ませて、という言い方はしない。だが、岸井ゆきのが演じるケイコは、感音性難聴で両耳とも聞こえないから、耳を澄ますわけにはいかないのだ。彼女が外界を捉えるには、ひたすら目を澄ますしかない。それに対して、耳を澄まさねばならないのは、ケイコが生きる世界を見る、われわれ観客のほうだ。実際、この映画では、音楽を廃したことも含め、実に見事な音の設計がなされているのである。
冒頭、何かをこするような、かすかな音が聞こえるが、それが、机の鏡に映ったケイコが、ノートにペンを走らせる音なのに気づく。ついで、彼女が水を飲むときの、氷を噛む音がする。カットが替わって、そんな密やかな音を打ち破るように耳に響くのは、縄跳びの縄が床を叩く音であり、床をこする靴音である。これらの音を発するのは、2019年にプロボクサーのライセンスを得たケイコが所属するボクシングジムである。そこでは、エクササイズのための機材がきしむ音や、サウンドバックを打つ音、トレーナーや他の練習生の声もする。
さらに、ひとたび外に出れば、荒川鉄橋を渡る電車や、高速道路を走る車の音などが折り重なって押し寄せてくるのだ。このような音の連なりを、われらがケイコはまったく聞こえないのである。そして、まさに、そのことによって、音の世界から隔絶したケイコという孤独な存在が際立つのだ。それは、当然ながら、三宅唱監督が意図したことであろうが、それに応えた録音技師の川井崇満の技量の賜物である。
音の設計ということでは、つい最近公開されたワン・ワンロー監督の『擬音A FOLEY ARTIST』(2016)という台湾映画を思い出す。これは、胡定一(フー・ディンイー)という音作り40年のベテラン音響効果技師の仕事を軸に、音から捉えた台湾映画史ともいうべきドキュメンタリーである。これについては、「キネマ旬報」(2022年12月上旬号)に書いたので簡単にすますが、そこで興味を惹かれたのは、胡が、道を歩くときに、前を歩く人の歩き方を真似することがあるというのだ。彼は、そうすることで、その人が左右どちらの足に重心をかけて歩いているか探るという。それによって、足音が微妙に異なるからだ。それを、彼は、映画の足音作りに生かす。
そう言われてみれば、自分が歩くときも、左右の足が立てる音がわずかに違っていることに気づく。そこから、さらに思い出したのは、ジャン・ルノワールがアメリカ滞在中の1943年に、RKOで撮った『この土地は私のもの』で、無念の思いを抱いた足音のことだ。
彼は、ドイツ軍の将校とフランス人教師が街の通りですれ違うシーンで、「両者の足音の差が、そのまま二人の登場人物の違いを表す」べく、セメント舗装の歩道を歩くようにした。ところが、撮影所側が用意したのは、「弾性ボール紙で作った、模造の敷石」だったのだ。それでは肝腎の足音が出ない。美術監督のウジェーヌ・ルーリエが、なんとかセメントを手に入れようとしたが、音響効果部門が、会話の邪魔になると反対して出来なかったというのだ(『ジャン・ルノワール自伝』西本晃二訳・みすず書房)。トーキー時代の初期から、一貫して音に拘ってきたルノワールとしては、痛恨の想いだったのではないか。たかが足音、されど足音、ゆめ疎かにすべからず……。
『ケイコ 目を澄ませて』では、室内だけでなく、外でも、ケイコの足音はきちんと録られている。たとえば、ロードワークを終えたあとだろうか、荒川の河川敷に立つケイコのもとに、ジムの会長の三浦友和(彼も実に素晴らしい!)がやってきて、川面に向かって、二人が並んで軽くウォーミングアップをしたり、ケイコがシャドウボクシングをするところなどでも、足音はちゃんと聞こえるのだ。
だが、ケイコがたてる音で、もっとも鋭く耳をうつのは、松浦慎一郎演じるトレーナー(彼は、ボクシング指導も担う)を相手に、コンビネーション・ミットというのだろうか、ミット打ちをする場面だ。トレーナーの動きに合わせて、彼のミットに打ち込む。そのバシッバシッという音が、リズミカルに、それも次第に小刻みに速くなっていく。まさに本物のボクシング練習と映るが、これは、岸井ゆきのが、撮影に入る前に、相当の訓練を重ねた成果であろう。
ケイコは、ホテルのハウス・キーピングというのだろうか、客室の整備や清掃の仕事をしている。また、家では、弟と同居していて、家賃は折半しているらしい。ジムでの毎日の練習の合間に点綴される、それらの場面も、簡潔にして的確に描かれる。だが、プロボクサーである以上、試合こそが、命であろう。2021年1月15日、ケイコは、プロになってから二度目のリングに立つ。ひたすら相手に向かっていく姿もさることながら、自分のコーナーに戻ってからの顔つきが素晴らしい。そしてケイコは、左瞼を傷つけながらも勝利する。
物語としては、ここからが一篇の主題を明示する展開となる。すなわち、これまで障害を抱えながらも、ボクシングに活路を見出して頑張ってきたケイコという一人の女性が、以後の人生をどのように生きていくか思い惑いつつ手探りしていくのである。
その一つの契機は、母(中島ひろ子)の言葉にある。ケイコたちとは離れた地方に住んでいるらしい彼女は、第二戦の試合を観に来たが、リングで打ち合う娘の姿を、怖くてまともに見ていられなかったようだ。それでも、ケイコの勝利を喜び、会長に感謝の言葉を述べるのだが、翌日、彼女を送って電車の踏切際に立つケイコに言う。
「プロになって、それだけでも凄いことなんだから、もう十分じゃない」と。暗に、もうボクシングを辞めたら、どうかと。それに対して、左瞼にテープを貼ったケイコは、鋭い目つきで母を見返すだけだ。
一方、ケイコの属する荒川拳闘会は、ジムを閉鎖しようとしている。それには、もともと練習生が少なく、経営的に苦しいこともあるが、それ以上に、会長の身体の具合がよくないのだ。彼の視力が極端に落ちていることは、もっと前の検査で示されるが、脳の血管が極端に細くなっていて危険だと女医から告げられる。
そんな状況のなかで、ケイコは、次の試合に向けての練習をしながらも、心は揺れている。会長宛の手紙を書きかけては、破り捨てたりしている。
そんな彼女の心の葛藤を、説明抜きにさりげなく示しているのが、先の検査から帰って来た会長夫妻が、ジムに到る階段を降りてくる場面だ。二人が階段を降りて路地をこちらに向かって歩いてくる。と、ジムから出てきたケイコが、二人と出会うと、ぺこりとお辞儀しただけで、逃げるように二人の脇をすり抜けて走っていくのだ。夫妻は、その後ろ姿を、いぶかしそうに振り返るのだが、たったそれだけの動きを通して、常ならぬケイコの心の動揺が、手に取るように伝わってくる。
ケイコの顔を一切見せないこのシーンに対して、より明示的に彼女の逡巡する姿を現しているのが、以下の一連だ。会長宛の手紙を書いては破り捨てていた彼女は、意を決して、しばらく休みたいという旨の手紙を書き、それをジムの郵便受けに入れようと迷って、手紙を戻し、ジムの扉を開け、そっと覗く。と、中では、会長が、ケイコの試合の映像記録を、顔に触れるほど近くから見ている。それを見たケイコは、改めて中に入り、鏡を磨いている会長の側に行く。そして、二人は鏡に向かってシャドウを始めるのだ。勢い余った会長の上着の袖裏が破れたりするのだが、シャドウを繰り返すうちに、ケイコは泣き笑いに似た表情を見せる。
先に、わたしは三浦友和の会長が素晴らしいと書いたが、あまり言葉を発することなく、起ち居振舞いだけで、長年にわたり人を育ててきたボクシング・ジム経営者としての風格を、彼は見事に体現している。そんな彼は、ケイコに対しては、常に横に並ぶのだ。河川敷でもそうだったように、また、玄関口で座っていたケイコに、ジムの閉鎖、ゴメンなといい、次の試合やりたくないんだったら断ろうかと問いかけるときも、そして、夜、こうして鏡に向かってシャドウをするときも、横に並ぶのである。そこには、彼ら二人の言葉にならぬ心のつながりがある。
だが、その肝腎の会長が倒れる。会長の妻(仙道敦子)から知らせを受け、ケイコはジムに駆けつけるが、妻は、自身の不安を敢えて見せまいとするような強い調子で、大丈夫、手術をすればよくなるから、と言い、次いでケイコに、次の試合楽しみだね、と語りかけるのだが、彼女のそんな言葉が、逡巡するケイコの心を決めさせることになるだろう。
ただ、雑誌などと違い、これは公開前に発表される文章ゆえ、これ以上映画を追うことは避ける。
ところで、わたしは、岸井ゆきのが素晴らしいとか、三浦友和が素晴らしいとか書いたが、それはたんに、彼らの動きが良いとか、いい表情を見せているといったレベルのことではない。岸井ゆきのは、ケイコという存在そのものとして、この世界を生きているのであり、三浦友和にしても同様なのである。それは、演出と俳優が、これ以外はないというような幸福なコラボレーションを成し得た賜物であろう。
そして、役柄の大小はあるものの、他の俳優たち、すでに名を挙げた人たちにせよ、直接触れることのなかった、ジムを現場で仕切るチーフ・トレーナーを演じた三浦誠己にしろ、ケイコの弟役の佐藤緋美にしろ、それぞれの役柄を生きているのである。
最後になるが、ここで付け加えたいことがある。それは、初めに述べたような卓抜な音の設計(それはラストシーンで、一切の音が消える瞬間を作ることにも及ぶ)と相まって、この映画に見事な佇まいをもたらしているのが、大ロングで捉えた風景のショットにあるということだ(撮影:月永雄太)。捉えられているのは、絵葉書のような美しい風景ではなく、荒川を眼下に見下ろす鉄橋やそれと交差する高速道路であり、その周辺の街並みや人々が行き交う雑踏といった、現にそこにありながら、改めて見ることを忘れられた風景なのだ。それらをときに俯瞰を交えて捉えたショットが、ケイコたちのみならず、われわれが生きる世界を見事に現しているのだ。
注:本作の短い紹介は、「てんとう虫」(2022年1月号/UCカード会員誌)に寄稿したので、ここでは、そこで書き切れなかったことを中心に、書かせてもらった。
- 『ケイコ 目を澄ませて』
- 12月16日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開
- 監督・脚本:三宅唱 原案:小笠原恵子(「負けないで!」創出版) 脚本:酒井雅秋
- 出演:岸井ゆきの、三浦誠己、松浦慎一郎、佐藤緋美、中原ナナ、足立智充、清水優、丈太郎、安光隆太郎、渡辺真起子、中村優子、中島ひろ子、仙道敦子、三浦友和
- 2022年/日本/カラー/99分
- 配給:ハピネットファントム・スタジオ
- 公式ホームページ:https://happinet-phantom.com/keiko-movie/
- ©2022「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
近時偶感
11月27日、崔洋一が亡くなった。享年73。
同じく11月12日、大森一樹が亡くなった。享年70。
5月22日、石井隆が亡くなった。享年75。
3月21日、青山真治が亡くなった。享年57。
いったい、これは、どうしたことかよ、と思う。
理不尽ながら、2022年は、映画監督をバタバタと死なせる年だったのかと言いたくなる。むろん、そんな言い草が、馬鹿げたことだとは、わかってる。崔にせよ、大森にせよ、石井や青山にせよ、ひとりひとりは、それぞれが抱えた病の果てに、力尽きて亡くなったのだから。彼らが作った映画が、それぞれ違うように。
だが、にもかかわらず、こうして振りかえると、一つの時代が終わったという想いを禁じ得ない。彼らが、いずれも、各自それぞれの色で日本映画を彩っていただけに、それがまとまって消えたあとの映画界がひどく平板に見えてしまうのだ。